挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ発売中

文字の大きさ
上 下
137 / 204

第135話 セシルからの手紙

しおりを挟む

「放してください!」

 聞いた事のない切羽詰まった彼女の声に、一気に意識が覚醒した。状況を確認しようと寝ていたベッドを飛び起きる。
 この屋敷には天来衆しかいない。彼らがクラリスをいくら気に食わなくても、私のすぐ傍で彼女を害する筈がない。
 不吉な予感に耳鳴りがする。はやる心のままに廊下に出れば、彼女の声を聞いた使用人達も何事かと集まってきていた。
 薄暗い廊下が伸び、守護聖人像の部屋だけが不気味に半開きになっている。そこから砂袋を蹴るような鈍い音が聞こえ、私は全身から一気に血の気が引く思いがした。

「どうしましたか!?」

 像の消えた台。
 風の吹き込む割られた窓。
 そして、まるで赤子を守るように、聖人像を抱えたクラリス。

 彼女を視界にとらえた瞬間、息をする事さえ出来なくなった。
 無理矢理連れてこられた哀れな娘。けれど微笑みながら私の隣にいてくれる強い人間。

 私の、大事な。

 クラリスは酷く蹴りつけられていたのだろう。土のついた靴の痕を服に付け、苦痛に眉を寄せている。
 けれど私の姿を見つけると、安心したように微笑んで言った。

「不審な男が……部屋に。でも、大丈夫です、聖人像は無事です」

 私を安心させるように。自分の怪我など何もないかのように。誇らしげに聖人像を私へと掲げる。
 激情が私を支配した。制御できない程の感情の嵐。凍り付いていた心臓が一気に灼熱の炎へと変わり、指先まで私を支配する。

「貴女が、無事ではないでしょう!?」

 心のままに、傷ついている彼女を両腕に閉じ込めた。私の中に閉じ込めなければ、空気に溶けてしまう程儚いように見えて。
 柔い彼女の体を抱き、消えていかないように縋りついた。伝わる彼女の熱だけが、心の穴を埋めていく。
 何故人間は時に、自らを捨てて他者への献身を見せるのか。私には分からない。けれどそれが何よりも尊いものに思えた。
 ハーヴィー様にもクラリスにも共通する、私が憧憬と崇拝の念を抱く人間の本質。
 いつの間に、クラリスをこれほど大事に思っていたのだろう。けれど気付いてしまえば、それは私の心の真ん中に存在していた。

「ロードリック」

 戸惑うような彼女の声に、現実が漸く目に入ってくる。小さなクラリスの体を横抱きにし、抱え上げた。

「直ぐに手当てを」

 不審者の方は直ぐに使用人達が動いているだろう。任せておいても問題はない。
 それよりも手の中のクラリスの容体が心配で仕方なかった。彼女の自室に移動し、ベッドにそっと横たえる。

「私は、大丈夫です」

「大丈夫かどうか、確認させてください」

 クラリスは気丈にもそう言うが、大丈夫な訳がない。私は彼女から聖人像を受け取ると邪魔にならない場所へと置き、使用人達に最低限の指示を飛ばして下がらせた。
 そして彼女の前に行き、戸惑うのを承知でこう言った。

「服を脱いでいただけますか」

 やはり男性に肌を見せるのに抵抗があるのか、困ったように視線をさ迷わせた。
 彼女は夫である私にも、決して自らそのような事を要求しない貞淑な女性である。
 けれど自分の目でクラリスに何が起きたのか確認するまで、引く気はなかった。

「お願いします」

 目を閉じて頭を下げると、諦めたのかクラリスが服を脱ぐ布の音が聞こえてくる。素直に従ってくれた事に安堵した。彼女の中で私は一定の信頼を得ているのだろう。

「……脱ぎました。背中を打っただけです」

 目を開くと彼女は頼りなさげに脱いだ服を握りしめ、自分の前面を隠して恥ずかしそうに視線を下に向けていた。
 初めて見る彼女の柔肌は屋敷での生活故に白く磨かれ、細い肩は男の視線を前に震えていた。
 彼女は服を着ていた時よりも更に小さく壊れそうで……綺麗だった。
 信頼に応えるためにすぐに背後に回り、目にしたものに言葉を一瞬失った。
 どれだけの力で、このか弱い人を痛めつけたのだろう。白い背中の前面に、痛々しい赤い痣が散らばっている。これはその内青く変わり、動かすたびに酷い痛みを齎すに違いない。

「酷い痣だ」

 自分が代わりに引き受けてやりたい。クラリスにあっていい怪我では無かった。

「貴女を守ると誓ったのに」

 吸い込まれるように私の指は、彼女の背中をそっと撫でていた。滑らかな素肌は心地よく、それだけに痣の醜さが強調される。

「ごめんなさい。聖人像を守る事に必死で……直ぐに人を呼べばよかった」

「あれは確かに大事な形見です。けれど、生きている貴女の方がよほど大事だ」

「……はい」

 自分はクラリスにハーヴィー様の面影を重ねて見ていると思っていた。彼の代わりに彼女を今度こそ守り抜くと思ったのは、確かにそれが出発点だったはずだ。
 けれどもしもハーヴィー様が今この場にいて同じような怪我を負ったとしたら、私は同じように触れずにはいられない思いを抱いただろうか。

 いや、それは無い。

 何故。何が、彼と違う。

 クラリスは流石に危険な事をしたと自覚したのか、意気消沈してしまっていた。

「軟膏を持ってきます。朝に医者に行きましょう」

「はい」

 一先ず骨が折れているなどはなさそうである。屋敷に常備されている薬箱には、打ち身に効能のある薬が入っていた筈だ。
 それを取りに部屋の外に出ると、ザラを含めた使用人達が心配そうに立っていた。
 その目に人間に対する敵意が何もなくなっている事に気が付く。

「クラリス様はどうでしたか?」

「酷く背中を蹴られたようです。薬箱を持って来ていただけますか? 医者には明日連れていきます。今晩は気もたっていますし、落ち着かせましょう」

 ザラに聞かれて答えれば、皆が痛々しい表情になる。クラリスが私の大事なものを守ろうとした献身を見て、彼女が我々を敵視する事は無いのだと気づいたのだろう。
 誰かに利用される可能性は残っているが、それは彼女本人の意思ではありえない。
 彼女が皆の意識を変えたのだ。この瞬間、クラリスは皆にとって守護する対象でしかなくなった。もう、虜囚ではない。

「不審者は捕らえられましたか?」

 警備を担当する者に聞いてみたが、暗い表情で望んでいない答えを言った。

「いえ。逃げられました。素人ではありません」

「……そうですか」

 薄々気が付いていた事である。書斎の部屋よりも、別の何かを得ようとしているようだった。つまり。
 そこまで考えた所で、駆け足でザラが薬箱を持ってくるのが見えた。それを受け取り、クラリスを待たせないようにと直ぐに部屋に戻る。

「……う」

 部屋のクラリスは苦痛に呻き、顔を歪ませていた。ああ、やはり無理をして耐えていたに違いない。

「クラリス、痛むのですか?」

 どうにかしてやりたくて、肩をそっと撫でた。この痛みが落ち着くまでは軟膏を塗るのも辛いだろう。

「だ、だいじょうぶです」

「貴女は、いつも無理をする」

 早くその痛みが去るようにと願いながら、そっと労わり続ける。やがて彼女の眉間に寄った皺が解けたのを見て、今なら大丈夫だろうと判断した。

「軟膏を塗りますので、少し我慢してください」

「……はい」

 軟膏が触れると、冷たい感触に少し彼女の体が震えた。痛んだ場所に出来る限り苦痛を生まないよう、深く集中して塗り広げていく。
 軟膏が服に付かないよう、布を上に押し当てる。止めるためには包帯を巻かねばならないだろう。
 それを手にした所で、クラリスが顔を赤らめて私に聞く。

「ロードリック、包帯を巻くつもりですか?」

 頷いて答えると、彼女は困った顔で私の処置を嫌がった。

「ザラさんを呼んでください」

 包帯を巻くとなれば、その胸を当然隠し続ける訳にはいかなくなる。
 ここが、私がクラリスに許される境界線なのだ。いつもならば私は彼女の意思を尊重してザラを呼んでいた。しかし。

「妻の看病です。私がします」

 意識する前に口が勝手に動いていた。誰にも譲りたくない。この人を一番大事にする立場を。
 クラリスのこんなにも弱弱しい姿を見るのは、私だけでいい。

 何故、私は独占したいと思っているのだろう。

 やはりハーヴィー様とクラリスに対する思いは、似ているようで違うのだ。
 宝物を包むように丁寧に包帯を巻いていく。彼女が少しでも不快な思いをしないように、なるべく胸部に触れないように気を配った。けれど巻く時にどうしても彼女を抱きしめるような恰好になってしまう。
 その瞬間、緊張したように固まるその清純さがどうにもいじらしくて堪らない。
 やはり、この姿を誰にも見せる訳にはいかない。
 私は彼女の望むものを叶えようと思っていた。けれど今は、それだけではとても足りない。

 ……何故。

 考えている間に、気付けば包帯は巻き終わっていた。白い包帯に巻かれた彼女は恥ずかしそうに服を寄せ、後ろの私に横顔だけを向けて言う。

「ありがとうございました」

 服に袖を通した彼女は漸く人心地ついたような顔で、いつもの表情に戻っていく。私はそれを惜しく思う。
 不意に、この感情の名前が一体何であるのか気が付いてしまった。

「……クラリス」

 薬箱に道具を片しながら、クラリスに語り掛ける。

「色々と、思い知りました」

 この感情の名前は––––恋だ。

 薬箱を閉じて私を見上げるクラリスを見る。今この瞬間を、何千年先まで覚えていられるように。

「大事にしますから。どうか、足早に駆けていく事だけは、止めてください」

 私はきっと、彼女に泣かされるだろう。それでも動き出した心を抑える事は出来そうになかった。
しおりを挟む
感想 166

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―

望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」 【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。 そして、それに返したオリービアの一言は、 「あらあら、まぁ」 の六文字だった。  屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。 ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて…… ※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。

元侯爵令嬢は冷遇を満喫する

cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。 しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は 「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」 夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。 自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。 お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。 本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。 ※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

隠れ蓑婚約者 ~了解です。貴方が王女殿下に相応しい地位を得るまで、ご協力申し上げます~

夏笆(なつは)
恋愛
 ロブレス侯爵家のフィロメナの婚約者は、魔法騎士としてその名を馳せる公爵家の三男ベルトラン・カルビノ。  ふたりの婚約が整ってすぐ、フィロメナは王女マリルーより、自身とベルトランは昔からの恋仲だと打ち明けられる。 『ベルトランはね、あたくしに相応しい爵位を得ようと必死なのよ。でも時間がかかるでしょう?だからその間、隠れ蓑としての婚約者、よろしくね』  可愛い見た目に反するフィロメナを貶める言葉に衝撃を受けるも、フィロメナはベルトランにも確認をしようとして、機先を制するように『マリルー王女の警護があるので、君と夜会に行くことは出来ない。今後についても、マリルー王女の警護を優先する』と言われてしまう。  更に『俺が同行できない夜会には、出席しないでくれ』と言われ、その後に王女マリルーより『ベルトランがごめんなさいね。夜会で貴女と遭遇してしまったら、あたくしの気持ちが落ち着かないだろうって配慮なの』と聞かされ、自由にしようと決意する。 『俺が同行出来ない夜会には、出席しないでくれと言った』 『そんなのいつもじゃない!そんなことしていたら、若さが逃げちゃうわ!』  夜会の出席を巡ってベルトランと口論になるも、フィロメナにはどうしても夜会に行きたい理由があった。  それは、ベルトランと婚約破棄をしてもひとりで生きていけるよう、靴の事業を広めること。  そんな折、フィロメナは、ベルトランから、魔法騎士の特別訓練を受けることになったと聞かされる。  期間は一年。  厳しくはあるが、訓練を修了すればベルトランは伯爵位を得ることが出来、王女との婚姻も可能となる。  つまり、その時に婚約破棄されると理解したフィロメナは、会うことも出来ないと言われた訓練中の一年で、何とか自立しようと努力していくのだが、そもそもすべてがすれ違っていた・・・・・。  この物語は、互いにひと目で恋に落ちた筈のふたりが、言葉足らずや誤解、曲解を繰り返すうちに、とんでもないすれ違いを引き起こす、魔法騎士や魔獣も出て来るファンタジーです。  あらすじの内容と実際のお話では、順序が一致しない場合があります。    小説家になろうでも、掲載しています。 Hotランキング1位、ありがとうございます。

うたた寝している間に運命が変わりました。

gacchi
恋愛
優柔不断な第三王子フレディ様の婚約者として、幼いころから色々と苦労してきたけど、最近はもう呆れてしまって放置気味。そんな中、お義姉様がフレディ様の子を身ごもった?私との婚約は解消?私は学園を卒業したら修道院へ入れられることに。…だったはずなのに、カフェテリアでうたた寝していたら、私の運命は変わってしまったようです。

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷 ※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

処理中です...