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1-17 雨の夜、2人の別れ

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「美由紀・・・。」

航は美由紀になんと声を掛ければよいか分からなかった。航の住む小さなアパートの部屋の窓の外ではいつの間にか雨が降り出していた。雨は窓を濡らし、町の明かりが滲んで見える。

「・・・。」

航は立ち上がって部屋のカーテンを閉めると、再び美由紀の前に座った。

「ねえ・・・航君・・。答えてよ・・。私は・・捨てらちゃうんでしょ・・?」

美由紀は目に涙をたたえ、懇願するように航に言う。

(どうする・・・俺・・・。今夜の仕事が終われば俺は美由紀に別れを告げるつもりだったけど・・今俺がこの場で美由紀にそれを告げれば・・・一体美由紀はどうなるんだ?)

航は激しく葛藤していた。別れを告げるのが・・・こんなにも大変だとは今までの経験上、航は経験したことが無かった。

「美由紀・・俺は・・・。」

そこから先の言葉が航には出てこない。部屋の中には時折聞こえてくる町の雑踏の賑わいの音と、カチコチと規則正しく時を刻む時計の音だけだった。
重苦しい沈黙に耐え切れず、航はコーヒーに手を伸ばして飲む。コーヒーはいつもと同じ銘柄なのに・・何故かとても苦く感じられた。

航がいつまでも沈黙していると、再び美由紀は口を開いた。

「航君と・・・初めて結ばれたあの日・・・。」

そこまで言うと、美由紀は両手の甲で目をゴシゴシと擦った。

「え・・?」

(何だ?どうして・・・今更そんな昔の話を持ち出すんだ?)

だが、何か重要な事を伝えようとしているのかもしれない。航は黙って美由紀の次の言葉を待った。

「航君・・・ベッドの中で・・眠っていて・・私はすごく幸せだったから・・ずっと航君の寝顔を見ていたくて・・そしたら航君・・寝言を言ったんだよ・・?『朱莉』って・・・。」

美由紀は振り絞るように言った。

「!」

あまりの衝撃的な美由紀の話に航は言葉を失った。

(そ、そんな・・・。俺は・・いくら眠っていたとはいえ・・美由紀を初めて抱いた後に朱莉の名前を・・・?!)

航は自分の顔が青ざめていくのを感じた。その時の美由紀の気持ちを思うと・・やるせなかった。今、航の前で悲しみに打ちひしがれている美由紀の姿は・・とても小さく見えた。

「それだけじゃないよ・・・。航君とお泊りしたとき・・いつも寝言で出てくる女性の名前は・・『朱莉』さんだった・・。」

「・・・。」

「私・・・すごくショックだったけど・・『朱莉』って女性は過去の人だと思っていたし・・今航君が付き合っているのは私だからって・・何とか自分を納得させようと思っていたけど・・・『朱莉』さんて人は・・・過去の女性じゃなかったんだね・・?今もずっと航君が好きな人・・・。でも・・・私・・本当は知ってたんだ・・。航君は私の事・・大して好きじゃないんだろうなって・・・。」

「い、いや!美由紀、そんな事は・・・!」

言いかけて航は途中で口を閉ざした。

(そんな事は・・?そんな事は無かったと言うつもりなのか?どうせこれから美由紀に別れを告げるつもりなのに気休めを言うつもりか?自分を正当化させるために・・?)

すると美由紀は航が言おうと思っていた続きを語り出した。

「もしかしてそんな事は無いって・・言うつもりだった?そんな嘘なんかついて欲しくない。だって・・ますます自分が惨めになってくるから嘘は言わないで・・。」

いつの間にか美由紀は泣き止んでいた。ただ・・・その顔には絶望の色が浮かんでいた。まるで全てを諦めたかのような・・・。

「美由紀・・・。」

航は美由紀に手を伸ばしかけ・・・思いとどまった。

(駄目だ・・・今、ここで美由紀に触れたら・・ますます傷つけるだけだ・・!)

「わ、私はさ・・航君に・・合鍵渡してるのに・・・航君は・・渡してくれなかったよね・・・?だけど、結局・・・航君は一度だって合鍵・・・使ってくれた事・・無かったけど・・・。それだって・・本当はすごく・・寂しかった・・。」

「・・・。」

もう航には美由紀にかける言葉が一つも見当たらなかった。何を言っても今は美由紀を傷つけるだけになってしまうのは目に見えて分かった。

「ごめんなさい・・。」

今度は何故か急に美由紀は謝ってくる。

「何で・・・謝るんだ・・よ・・。」

航は声を振り絞りながら美由紀に尋ねた。

「だって・・私・・航君が・・・別の女性の事・・・好きなの分かっていたのに・・・知らないふりして・・今まで航君に・・しがみついていた・・。初めて会った時から・・ずっと航君は別の女性を好きだったのに・・ね・・。」

美由紀はすっかり冷たくなっているコーヒーを飲み終えると言った。

「ごめんね・・仮眠しないといけなかったのに邪魔して・。私、帰るね・・。」

立ち上がりかけた美由紀に航は声を掛けた。

「美由紀・・・ちょっと待ってくれ・・・。」

航は立ち上がり24インチのテレビが乗っているテレビ台の一番上の小さな引き出しを開け、鍵を取り出すと美由紀の前に置いた。

「これ・・返す。」

それは美由紀のワンルームマンションの部屋の合鍵だった。美由紀は少しの間、穴のあくほど、それを見ていたが・・やがて震える手で握りしめた。

「ごめん・・・とうとう・・一度も使わずに・・。」

うまい言葉が見つからず、航はそれだけ言うのが精いっぱいだった。それを聞いた美由紀は俯き、首を激しく降ると肩を震わせた。

「俺・・・そろそろ仕事に行く準備始めないと・・。」

航は立ち上がり、美由紀に背を向けると機材の準備を始めながら言った。

「美由紀・・・俺は仕事があるから・・今夜はもうこの部屋には戻らない・・。何なら・・夜も遅いし・・・泊まって行ってもいいぞ?鍵は・・・郵便ポストに入れておいてくれればいいし・・。」

そしてチラリと美由紀の方を向いた。しかし、美由紀はかぶりを振る。

「遅くてもいい・・。帰る・・。」

「美由紀・・・。でも、外は雨が降って・・。」

「使っていないビニ傘があるでしょう?それ・・・頂戴。」

「だけど・・・。」

もう時刻は夜の9時を過ぎている。この辺りは・・・繁華街に面しているので決して治安がいいとは言えない場所だ。そんな中、一人で帰らせるわけには・・。

「美由紀・・・そんなこと言っても、やっぱり今夜はここに泊まって・・。」

「泊まれるはずないでしょうっ?!」

すると突然美幸が大声で言った。

「み、美由紀・・・。」

「酷いよ・・・航君・・・。私達、今夜でお別れなんでしょ?それなのに・・泊まっていけって言うの?!こんな・・・航君の・・・私の大好きな匂いのする・・この部屋に?!無理に決まってるでしょうっ?!私は・・航君のなにもかもが好きだった。顔も・・声も・・・そして・・航君の匂いも・・・!これ以上私の未練が残るような事言わないでよっ!いっそ・・切るならすっぱり切り捨ててよっ!これ以上・・無駄な期待を・・私に持たせないでっ!」

「み、美由紀・・。」

美由紀の目には泣き止んでいた涙が再び浮かんでいた。肩で荒い息を吐きながら、美由紀は立ち上がり、ショルダーバックを掴むと立ち上がった。
そして力ない足取りでフラフラと玄関へ向かう。そして傘立てから1本のビニール傘を持つと言った。

「航君・・・別れの餞別に・・この傘・・貰っていくね?」

「あ、ああ・・・。」

航は玄関まで行くと返事をした。すると美由紀は言う。

「航君・・・最後に・・・最後に一つだけお願いきいてくれる・・?」

「何だ?お願いって?」

「最後に・・ギュッて・・・してくれる・・?」

「・・・!」

航は美由紀を強く抱きしめた。左手で美由紀の背中を抱き締め、右手は美由紀の頭に手を回し、自分の胸に埋め込むように強く抱きしめ、美由紀の髪に自分の顔を埋めた。


(航・・君・・・!)

その抱擁は・・・航が朱莉にしていたのと同じ抱擁だった。美由紀が憧れていた・・。


「あ・・有難う・・航君・・。」

美由紀はくぐもった声で言うと、航は身体を離した。

「さよなら、航君。4年間・・・ありがとう・・・。」

「さよなら・・・。」

航が言うと、美由紀は泣き笑いのような顔を見せ・・ドアを開けて航の部屋を出て行った。

「さよなら・・・美由紀・・・。」

航は呟き・・・俯くのだった—。







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