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31.届け!
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……考えるなっ、今はなにも考えるなっ……。
「走って、アティカ!」
私はアティカの手を握ったまま、東に向かって走り出した。木々に阻まれてこちらの姿はまだ敵に見えていない。今のうちに遠くへ、もっと遠くへと、ただがむしゃらに足を前に動かす。
――ロザリーの犠牲を無駄にはしない。
頬を流れる涙を手で拭いながら走る。
……今は泣くな、笑えっ。アティカのために。
そう心のなかで自分を叱咤して涙を止めた。けれど、笑えなかった。
『だーいすき、アリスミ』
ロザリーはいつも笑ってそう言っていた、最期の時まで……。親友の声が耳から離れない。
どれくらい走り続けただろうか。夢中だったので時間の感覚が麻痺している。胸が苦しいけれど、走っているからなのか、それとも心の痛みなのか、それも分からない。
でも、隣からは聞こえる息づかいは乱れていた。
「アティカ、大丈夫?」
「はぁっ、はぁっ……だいじょぅ…で、す」
彼は苦しげに答える。ふらつくその足取りを見れば、もうとうに六歳の子の限界を越えていた。これ以上は無理だ。
「乗って、アティカ」
「……はぁ、はぁ、でも……」
「師匠の命令よ」
「……は……ぃ」
その場で崩れ落ちたアティカを背負って、私は走り続ける。
あと少しでニーダルの森だった。あそこに逃げ込めば助かる可能性は高くなる。どこに隠れられる朽ちた大木があって、どこに土牛の穴がたくさんあるか知っている。
見慣れた森まであと少し、というところだった。
「いたぞっ! あそこだ」
「女と子供の二人だっ」
振り返るがまだ敵の姿は見えない。きっと生い茂った木々の隙間から、私達の姿が一瞬だけ見えたのだ。けれど、追いつかれるのは時間の問題だろう。このままじゃ逃げ切れない。
――囮が必要だった。
私はアティカを背中から降ろした。
「アティカ、あそこに土牛の群れがいるでしょ。あそこの真ん中に入って歩いてね」
「お師匠さまも一緒ですよね?」
私は首を横に振る。
「どうしてですか? 一人はいやです」
アティカは泣いてしまう。トルタヤ、ロザリーの時は必死に耐えてくれた。本当によく頑張っていた。なのに、そんな子を私は今から一人にする。怖くないはずがない。しがみついてくるアティカを、無理矢理引き剥がす。
「ロザリーとの約束を守ろうね、アティカ」
――大人の言うことを聞く、振り返らない、質問もなし。
死者との約束を、私は利用する。選択肢を奪う酷いやり方だ。
「…………はぃ……」
彼はいやいやと首を振りながら、消えそうな声で答えた。アティカの心をどんな傷つけているか分かっている。でも、今はこの子の命を守らなければ……。
生きてさえいれば、心の傷を癒す時間はある。
ごめんね、酷いこと言って……。
泣き続けるアティカの背中を強く押して、土牛の群れの中に進ませる。土牛の大きな体は、彼の小さな体を隠してくれた。
「お、お師匠さ……ま。うっうぅ……うわぁーん……」
泣いては駄目だ。子供の甲高い泣き声は、土牛の鳴き声に紛れない。アティカは何度も振り返ってこちらを見る。……まだ私が生きているか確かめているのだ。
約束よりも不安が勝っている。これでは、いつこちらに戻ってきてもおかしくない。
「アティカ、お喋りをしましょう。振り返らなくとも声は聞こえるでしょ? 転んだら危ないから前を向いてね。そうだ、アティカのお友達も一緒にね。初めまして、弟子がお世話になってます。モウモウでいいのかな?」
「ひっく、ひっく……。はい、モウモウです」
「みんなでお喋りをしましょうね。モウモウ、モウモウ」
私達の声に反応するように、ブフォー、ブフォーと土牛が鳴いてくれた。
「……ひっく、モウモウ、モウ」
「上手ね、その調子よ。モウモウ」
振り返るのをやめた。でも、まだ低い声で泣いている。
もうちょっと頑張ろうね、アティカ。
「モウモウ、ひっく……モウウっ……モウ」
一生懸命に頑張っている――私が生きているから。
それなら、もっと声を弾ませてみよう。元気だと、全然平気なのだと伝わるように。
「モウッ、モウッ♪ モウモウだぞ~」
「モゥモ…、モウ…ゥ…」
泣かずに頑張れたね。
アティカを連れた土牛の群れがニーダルの森へと入っていった。
後ろから、バチバチと魔力が爆ぜる音がした。すぐに術式を紡いで衝撃に備えたが、次の瞬間には私は地面に倒れていた。ロザリーが敵わなかった相手に、私の術式など無意味だった。
「手間を掛けさせやがって。おい、子供はどこだ?」
「知らないわ、子供なんて」
「さっきまで一緒にいただろっ」
遠ざかっていく土牛の鳴き声が聞こえてくる。
土牛はニーダルにしかいない珍しい動物だった。初めて見た者は恐ろしい見た目から凶暴だと思い込む。あそこにアティカがいるとは気づいていない。
――バシッ。
男は容赦なく手を上げてきた。鉄の味が口の中に広がって気持ちが悪い。でも、まだやれる。
私は空に向かって声の限りに叫んだ。
「モウモウー、モウモウッ!」
まだ生きてるから、大丈夫だから、お願い振り向かないで! もっと遠くへ行くのよ、アティカ。
牛の鳴き真似をする気狂いと、周りを囲んでいる男達は嘲笑う。好きなだけ笑えばいい、可愛い弟子が戻ってこなければそれでいいのだから。
「走って、アティカ!」
私はアティカの手を握ったまま、東に向かって走り出した。木々に阻まれてこちらの姿はまだ敵に見えていない。今のうちに遠くへ、もっと遠くへと、ただがむしゃらに足を前に動かす。
――ロザリーの犠牲を無駄にはしない。
頬を流れる涙を手で拭いながら走る。
……今は泣くな、笑えっ。アティカのために。
そう心のなかで自分を叱咤して涙を止めた。けれど、笑えなかった。
『だーいすき、アリスミ』
ロザリーはいつも笑ってそう言っていた、最期の時まで……。親友の声が耳から離れない。
どれくらい走り続けただろうか。夢中だったので時間の感覚が麻痺している。胸が苦しいけれど、走っているからなのか、それとも心の痛みなのか、それも分からない。
でも、隣からは聞こえる息づかいは乱れていた。
「アティカ、大丈夫?」
「はぁっ、はぁっ……だいじょぅ…で、す」
彼は苦しげに答える。ふらつくその足取りを見れば、もうとうに六歳の子の限界を越えていた。これ以上は無理だ。
「乗って、アティカ」
「……はぁ、はぁ、でも……」
「師匠の命令よ」
「……は……ぃ」
その場で崩れ落ちたアティカを背負って、私は走り続ける。
あと少しでニーダルの森だった。あそこに逃げ込めば助かる可能性は高くなる。どこに隠れられる朽ちた大木があって、どこに土牛の穴がたくさんあるか知っている。
見慣れた森まであと少し、というところだった。
「いたぞっ! あそこだ」
「女と子供の二人だっ」
振り返るがまだ敵の姿は見えない。きっと生い茂った木々の隙間から、私達の姿が一瞬だけ見えたのだ。けれど、追いつかれるのは時間の問題だろう。このままじゃ逃げ切れない。
――囮が必要だった。
私はアティカを背中から降ろした。
「アティカ、あそこに土牛の群れがいるでしょ。あそこの真ん中に入って歩いてね」
「お師匠さまも一緒ですよね?」
私は首を横に振る。
「どうしてですか? 一人はいやです」
アティカは泣いてしまう。トルタヤ、ロザリーの時は必死に耐えてくれた。本当によく頑張っていた。なのに、そんな子を私は今から一人にする。怖くないはずがない。しがみついてくるアティカを、無理矢理引き剥がす。
「ロザリーとの約束を守ろうね、アティカ」
――大人の言うことを聞く、振り返らない、質問もなし。
死者との約束を、私は利用する。選択肢を奪う酷いやり方だ。
「…………はぃ……」
彼はいやいやと首を振りながら、消えそうな声で答えた。アティカの心をどんな傷つけているか分かっている。でも、今はこの子の命を守らなければ……。
生きてさえいれば、心の傷を癒す時間はある。
ごめんね、酷いこと言って……。
泣き続けるアティカの背中を強く押して、土牛の群れの中に進ませる。土牛の大きな体は、彼の小さな体を隠してくれた。
「お、お師匠さ……ま。うっうぅ……うわぁーん……」
泣いては駄目だ。子供の甲高い泣き声は、土牛の鳴き声に紛れない。アティカは何度も振り返ってこちらを見る。……まだ私が生きているか確かめているのだ。
約束よりも不安が勝っている。これでは、いつこちらに戻ってきてもおかしくない。
「アティカ、お喋りをしましょう。振り返らなくとも声は聞こえるでしょ? 転んだら危ないから前を向いてね。そうだ、アティカのお友達も一緒にね。初めまして、弟子がお世話になってます。モウモウでいいのかな?」
「ひっく、ひっく……。はい、モウモウです」
「みんなでお喋りをしましょうね。モウモウ、モウモウ」
私達の声に反応するように、ブフォー、ブフォーと土牛が鳴いてくれた。
「……ひっく、モウモウ、モウ」
「上手ね、その調子よ。モウモウ」
振り返るのをやめた。でも、まだ低い声で泣いている。
もうちょっと頑張ろうね、アティカ。
「モウモウ、ひっく……モウウっ……モウ」
一生懸命に頑張っている――私が生きているから。
それなら、もっと声を弾ませてみよう。元気だと、全然平気なのだと伝わるように。
「モウッ、モウッ♪ モウモウだぞ~」
「モゥモ…、モウ…ゥ…」
泣かずに頑張れたね。
アティカを連れた土牛の群れがニーダルの森へと入っていった。
後ろから、バチバチと魔力が爆ぜる音がした。すぐに術式を紡いで衝撃に備えたが、次の瞬間には私は地面に倒れていた。ロザリーが敵わなかった相手に、私の術式など無意味だった。
「手間を掛けさせやがって。おい、子供はどこだ?」
「知らないわ、子供なんて」
「さっきまで一緒にいただろっ」
遠ざかっていく土牛の鳴き声が聞こえてくる。
土牛はニーダルにしかいない珍しい動物だった。初めて見た者は恐ろしい見た目から凶暴だと思い込む。あそこにアティカがいるとは気づいていない。
――バシッ。
男は容赦なく手を上げてきた。鉄の味が口の中に広がって気持ちが悪い。でも、まだやれる。
私は空に向かって声の限りに叫んだ。
「モウモウー、モウモウッ!」
まだ生きてるから、大丈夫だから、お願い振り向かないで! もっと遠くへ行くのよ、アティカ。
牛の鳴き真似をする気狂いと、周りを囲んでいる男達は嘲笑う。好きなだけ笑えばいい、可愛い弟子が戻ってこなければそれでいいのだから。
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