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19.伝染する痛み

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私の隣でアティカはすやすやと寝息を立てている。口を少し開けた可愛らしい寝顔に頬が緩む。

二人だけの秘密に安心したのもあるだろうけど、きっと歩き疲れていたのだ。念のために膝掛けを持ってきて正解だった。起こさないようにそっとアティカに掛ける。

それとほぼ同時に枯れ草を踏む音が聞えた。

「……お待たせしました」
「はい、どうぞ」

私は持ってきた昼食を彼に差し出す。
彼は頭を下げてそれを受け取ると、アティカを起こさないように静かにその隣に座り、左手を使って食べ始める。
慣れた手付きで元から左利きだったようにしか見えない。でも、私が知る彼は右利きだったので違和感を覚える。

どちらも口を開かず沈黙が続く。

ザインは言葉をあまり紡がないので、一緒に暮らしていた時も私が話さなければ、こんな感じだった。

でもあの頃は、沈黙さえも二人で築いた心地よい時間だった。同じ空間にいて、同じ空気を吸って、お互いの息遣いを耳で拾うことに、幸せを感じていた。

今は同じ沈黙なのに、気まずさしか感じない。

 なんか腹が立ってきたな……。

どうして私が気を遣わなくてはいけないのだ、そんな義理はない。

確かにアティカの前では大人げない態度は控えるべきだけど、今はそのアティカは寝息を立てている。

すぐ近くで土牛がブフォーと雄叫びを上げているけど、起きる気配はない。小声で話す分には起きることはないだろう。

「私が目覚める可能性は低かったから、二年前のことは仕方がなかったのかなと、今は思ってる。許していないけど」
「…………」

食事を終えたザインは黙って聞いている。返事なんて期待していないので、そのまま独り言のように言葉を紡いでいく。

「でもね、アティカの存在は堪えたわ。ずっと前から裏切り続けていた証だから。ザイン、あなた、最低よ」

彼は何食わぬ顔をして私と毎日のように肌を重ねていた。そして、私は彼の裏切りに気づかずに、彼に愛を囁いていたのだ。

彼は私から目を逸らさない。無口だけど、目の前のことから逃げないのは昔と同じ。

「ねえ、一つだけ教えてちょうだい。アティカの母親とは一夜の過ちだったの?」

裏切りがあったことは事実。
でも、アティカが出来て責任を取ったのではないかと思っていた。あの頃の時間がすべて偽りだったとは思えなかったから……。


「心から愛していました。今でも愛しています」

ザインは言葉を惜しむことなく紡いだ――アティカの母親への愛を。

私との関係は惰性だったのだと知る。

アティカが過ちの結果でなかったことに、私は安堵していた。

 だってあの子に罪はない……。

天使の笑顔を曇らせる事実は少ないほうがいい。

その一方で、幸せだった過去をすべて否定された私は、やるせない気持ちになる。彼に未練はなくとも、言いようがない苛立ちに心が乱される。

 よしっ、綺麗に終わらせよう!

「一発だけ殴ってもいい?」

彼が頷いたのを確認すると、私は右の拳を手加減無しで彼の頬に打ち込んだ。

「……痛っ……」

私は痛みに悶えながら拳を解いた。人を拳で殴ると、殴ったほうもこんなに痛いとは知らなかった。

右手の甲が見る見る間に赤く腫れ上がっていく。彼の頬も腫れてはいないものの、赤く染まっていた。

痛いのは体だけのはずなのに、なぜか心まで痛くて仕方がない。心の不調は体に現れることもあるけど、その逆もあるのだと初めて知った。

 彼も同じなのだろうか……。

ザインは持っていた手拭いに水を垂らすと、私に顔を向けた。

「……手を」

その言葉に従うと、彼は左手だけ使って器用に、腫れ上がった私の右手に巻いてくれる。いろいろなことに対しての、彼なりの贖罪なのだと思った。

それから暫くしてアティカが目覚めると、私達は何事もなかったのように振る舞った。




◇ ◇ ◇


四日目もあっという間に終わってしまった。

僕――アティカはベッドに入っていて、その隣にはお父さんがいた。

お父さんは毎晩本を読んでくれて、僕が眠るまで隣にいてくれる。
正確には紙魔鳥がお話をして、お父さんは僕の背中を規則正しく叩き続けてくれる。

いつもならその手の温もりですぐに眠ってしまい、最後までお話を聞けたことはない。
でも今日はお話が終わっても、僕は起きていた。

「……ティカ」

お父さんがどうしたんだ? と僕を見ている。

お父さんは僕のことを『ティカ』と呼ぶ。これはお母さんのアイディアだと教えてもらった。
あまり話すのが得意ではないお父さんが、僕のことをいっぱい呼べるようにと。

……今、僕のことを『ティカ』と呼んでくれるのはお父さんだけ。

赤くなったお父さんの頬に、僕は手をあてる。

あの時、僕は途中から寝たふりをしていた。ドキドキしながら、もしかしたらと期待しながら……。
でも、胸のドキドキはすぐにギュッに変わった。



「お父さんのほっぺから、いたい、いたいの、飛んでけー」

これはお母さんが教えてくれた魔法の呪文。魔力を紡がないのに、なぜか痛くなくなる。

 お母さんのように上手くできるといいな……。

お父さんの頬が少し動く。これは嬉しいって顔。
ちゃんと効いてほっとしていると、お父さんは僕の胸の上に手をあて、僕がやったのと同じ仕草をする。

「ティカもです」
「…おとぅ……さん、うぅっ、うわぁーん……」

お母さんと呼びたい、昔のようにまた『ティカ』と優しく呼んでもらいたいのにっ……。


「ティカ、帰りますか?」

僕が頷けば、お父さんは仕事を放りだして王都に戻ってくれる。僕のことを誰よりも大切に思っているから。
 
「……だいじょうぶです」

お父さんはもうそれ以上何も言わなかった。いつもなら別々に寝るのに、その夜は僕を左手で抱きしめたまま、ずっと隣にいてくれた。




――夢の中で、お師匠さまが僕のことを『ティカ』と優しく呼んでくれた。


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