婚約者を奪われた伯爵令嬢、そろそろ好きに生きてみようと思います

矢野りと

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1巻

1-2

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 そう分かっていたから、私は友人たちにお礼を言ったあとは曖昧あいまいに笑って誤魔化ごまかす。

「「善は急げよ、頑張ってメアリー!」」

 私の事情を知らない友人たちは、そう言って力強く背中を押してくる。
 彼女たちは私のことを心から思ってくれている。だからこそ行かないと言える雰囲気ではなく、私は姉に会いに行くしかなかった。
 自分から姉たちに注意するつもりはなかったけれど、会いに行ったという事実を作るために姉の教室に足を運ぶ。
 しかし、姉は教室にいない。昼食ちゅうしょくを食べている生徒に姉の所在を尋ねると「ギルバート様と一緒に中庭に向かった」と教えてくれた。
 急いで中庭に行くと、そこには想像した通り仲睦なかむつまじく昼食ちゅうしょくを食べている二人がいた。
 そんな二人の邪魔になると思うと気まずくなり、声をかけるのを躊躇ちゅうちょしてしまう。
 すると、私に気づいた姉が嬉しそうに声をかけてきた。

「あら、メアリー。あなたも天気が良いから中庭にご飯を食べに来たの?」
「いいえ、違います。ちょっと通っただけで」

 この中庭は、外で昼食ちゅうしょくを食べる生徒しか来ない。
 自分でも不自然な返事だと思ったけれど、姉は気にしなかった。きっと私の言葉なんて、ちゃんと聞いていないのだろう。

「ほらメアリーも座って! あなたの婚約者であるギルバート様がいるんだから、話したいことだってあるでしょう。遠慮しないで、さぁどうぞ」

 そう言って姉は私のために詰めて座り、私が座る場所を作ってくれる。
 だがいた場所は、ギルバート様の隣ではなく姉の隣だった。
 彼の横には、当然のように姉が座り、いているところをポンポンと軽く叩きながら微笑ほほえんでいる。
 この場合、婚約者である私に真ん中の席をけるのが普通だが、姉はそんなことは考えもしないらしい。
 ギルバート様も何も言ってこない。

「……ありがとう、お姉様」

 私はそう言って、そのはしの席に座った。
 そして、私の隣で姉とギルバート様の楽しげな会話が始まる。
 婚約者と話したいことがあるでしょうと言っておきながら、姉は私に話すを与えてはくれない。二人の会話は同学年にしか分からない話題ばかりで、学年が違う私は会話に加わることが難しい。
 それでもこの空気を壊す訳にはいかないと思い、微笑ほほえみながらうなずいて楽しげなふりをする。
 ……もういいわよね、だいぶ時間が経ったわ。
 姉に言ってきたわって顔をして、友人の元に戻ろうと考える。
 そう思って腰を上げようとすると、姉が私の方を見て話しかけてきた。

「そう言えば最近、おかしなうわさを聞いたのよ。私とギルバートの距離が近すぎるって言うの。彼はメアリーの大切な婚約者であって、私の未来の義弟ぎていなのだから、距離が近いのは当たり前なのに……」

 まるで自分は被害者だというように、姉は悲しげな表情を浮かべる。
 それからすぐに悲しげな表情を消し去り、続けて強めの口調くちょうで訴える。

「私がいろいろと大変だから守ってくれているだけなのに、そんな失礼な見方をする人がいるなんて信じられないわ。私にだって、メアリーにだって失礼な話よ! メアリーもそう思うでしょう?」
「えっ、ええ……」

 姉は悪びれた様子もなく、ギルバート様と距離が近いのは当たり前だと言う。
 そして当然のように私も姉の意見に賛成するはずだと思っている。
 だが、私は姉の言葉にうなずくことは出来なかった。
 どうして姉はそんなふうに思えるのだろう。
 賛成なんて出来ないわ。
 私の気持ちなんて全然分かっていない、私の立場になって考えようともしてくれない。
 ……ギルバート様は、いったいどう考えているのだろう?
 彼とは幼い頃から、婚約者としてお互い尊重そんちょうし合う関係を築いてきたと思っている。
 夫となる彼は私の気持ちに寄り添ってくれるかもとかすかな望みをいだく。
 そもそも彼は、姉の護衛をやめたがっているかもしれない。
 うわさになっているのだから、彼だっていい気分ではないはずだ。
 きっと、婚約者である私のことだって気にかかっているだろう。
 彼から「護衛をやめたい」と姉に言ってほしい。
 だが、姉の隣に座っている彼の口がひらくことはない。
 それは彼も姉の意見に同意しているからだろうか。それとも自分からは言い出しづらいのか。
 彼の表情からは何も分からない。
 黙ったままの彼に、少し勇気を出して私は話しかける。

「ギルバート様は大丈夫ですか? うわさで嫌な思いをしていませんか?」

 彼のことを心配している言葉を使って、さり気なく本心を聞こうとする。
 彼は私の置かれている立場を考えたうえで返事をしてくれるはずだと思いながら言葉を待つ。
 しかしギルバート様が口をひらくより先に、姉が笑い出した。

「メアリーったら何を言っているの。私が悪意ある視線やうわささらされないようにギルバート様は守ってくれているだけよ。それは彼が一番よく分かっているわ。だから私も彼も、つまらないうわさまどわされる訳がないでしょう」

 姉にとっては、つまらないうわさなのだろう。
 でも、私とギルバート様にとっては違う。
 そう思いながらも、話し続ける姉に耳を傾ける。

「一部の人は誤解しているようだけれど、構わないわ。私に新しい婚約者が出来たら、すぐにこんなくだらない勘違いはなくなるもの。何より、メアリーとギルバート様が仲睦なかむつまじく過ごしていたら、誰も邪推じゃすいしなくなる。だから、もっとメアリーがギルバート様との時間を取る努力をしたほうがいいんじゃないかしら。メアリーったら本当に困った子ね、変なことを言いだして」

 姉は笑いながら、そう言う。
 私がうわさで嫌な思いをしているなんて、ちっとも考えていないようだ。
 だから構わないと平気で言えるのだろう。
 そもそも姉は、自分のことしか考えていなかった。
 私とギルバート様との時間を、姉自身が奪っていることにすら考えが及んでいない。
 きっと婚約解消されたことで姉は傷つき、冷静な判断が出来ないのだろう。
 そう思い私はすがるように、黙ったままのギルバート様を見る。
 彼は、困ったような表情を浮かべていた。
 あっ、この表情は……
 昔、聞き分けの良い子になる前の私に、両親がよく見せていた表情と同じものだった。

「ねえメアリー。そもそも私とカサンドラは、同学年の学友だから近しい存在なんだ。特別に仲が良いという訳ではなく、友人として守っているだけだよ。うわさなんて暇な奴らが言っていることだ。カサンドラが言っていた通り、そんな些細ささいなことは気にしないよ。気にしすぎるのは愚かなことだ」

 彼はそう言うと、私から視線をらす。
 そしてその視線の先には、彼の言葉に笑みを浮かべてうなずいている姉がいた。

「だから心配してくれるのはありがたいけど、その……メアリーの言うような心配は必要ないかな。それにそんなに心配してくれるなら、つまらないうわさが出ないように、君自身でやるべきことがもっとあると思うよ」

 突き放すような口調くちょうでギルバート様は、私に告げる。
 私は彼の言葉が信じられなかった。
 ……あれが、ただの友人との距離だと言うのね。
 もし姉が男性なら、あの距離感でも何も言われず、友人と言っても通じるだろう。
 でもギルバート様は婚約者のいる子息しそくで、姉は婚約者のいない令嬢れいじょうだ。
 その二人があんな態度を取っていて友人と言い張っても、周りの人々は理解しないだろう。
 まだ学生の身だからと言って許される範囲をとうに超えているのに、それすら二人は分かっていない。
 さらに悪意あるうわさから姉を守るために行動しているギルバート様が、うわさを気にしすぎるな、と言うのは矛盾している。
 彼も私の家族と同じで、姉の味方になってしまっていた。
 ……以前の彼は違ったのに。
 私の淡い期待は無残むざんに消えていく。
 彼らの言葉に、私はうなずくことしか出来なかった。
 これ以上、彼らの勝手な言い分を聞きたくなくて、再び去ろうとする。

「変なことを聞いてしまってごめんなさい。ギルバート様の言う通り、私がもっと自分の行動に気をつけるようにするわ。友人たちと一緒に復習をする約束をしているので、そろそろ教室に戻ります」

 そう言って立ち上がった私に、姉はさらなる追い打ちをかける。

「もし、もしもだけれど、このうわさでメアリーが苦しんでいるのなら、私の本意ではないわ。ひとりでこのつらい状況に耐えられるか分からないけど、……ギルバート様にはナイト役をお断りするわ。可愛い妹のために、姉である私が耐えるのは当たり前ですもの。メアリー、それでいいかしら?」


 目に涙を溜めながら、身を引こうとする健気けなげな姉の言葉に嘘はない。
 ……お姉様はいつもそう。
 周りの人にどんな影響を及ぼすか考えないで、安易に思ったことを口にする。
 その無自覚むじかくな行為が、さらに私を追い込むことをちっとも分かっていない。
 涙をこぼす姉に、ギルバート様はハンカチを渡し、厳しい表情で私に話しかける。

「メアリー。これは君も了承していたことだろう? それなのに今さら傷ついている姉を見捨てるような真似をするのかい? それは優しい君らしくないよ、私の婚約者はもっと優しいはずだ。周りに流されて判断を誤ってはいけないよ」

 ……むなしかった。
 姉は勝手に悲劇のヒロインになり、ギルバート様は言ってもいないことで私を責める。
 もっと優しい? それはもっと都合が良いということですか。
 流されているのはギルバート様のほうで、判断を間違えているのはお二人ではないでしょうか。
 同じ言語を話しているのに、彼らには私の話は通じない。
 私の婚約者であるなら、姉より私を一番に見てくれるだろうという淡い期待は粉々に砕け散る。 
 これからともに歩んでいく彼も、姉が絡むと結局は両親と同じになった。
 最初から彼に期待なんてしなければ良かった。
 何も望まなければ傷つかずにすんだのに。
 所詮しょせん、私は誰の一番にもなれないのね……
 もう私のなかには、彼にすがる勇気はひと欠片かけらも残っていなかった。
 だからいつものように良い子の仮面を被り、望まれている態度を演じることにした。

「お姉様、ギルバート様。私はお姉様にそんなひどいことを望んではいません。私の言葉が足りなかったから、そんなふうに誤解をさせてしまったんですね。本当に申し訳ありませんでした。ギルバート様、これからも大切な姉をどうかよろしくお願いします」

 私はちゃんと微笑ほほえんで、謝罪した。
 これが、彼らが求める優しいメアリーだろう。

「いいのよ、メアリー。あなたに悪気わるぎがないのはちゃんと分かっているから。気にしないでちょうだい」
「いいんだ、誰だって間違えることはあるだろう。私も少しばかり口調くちょうがきつくなってしまい、すまない。だがメアリー、君のことを思っての言葉だったんだ」

 そう言って二人は寛大な心で、なんの非もないはずの私を許してくれる。
 もちろん彼らがそのことに疑問を持つことはない。
 私は急いでいるふりをして、すぐにその場をあとにした。
 何事もなかったかのように楽しげに話し始める二人の声が耳に入ってきたけれど、一度たりとも振り返りはしなかった。


 このやり取りがあったあとも、彼らの態度はまったく変わらず、学園内で楽しげに二人で過ごしている。
 そのうえ、休日も気晴らしをしたいという姉の要望を受け、彼は姉と一緒にさまざまなところに出かけるようになっていた。
 私のことを思い出したときは誘ってくれたが、それは姉と出かけるついででしかない。
 いつしかギルバート様は姉と一緒にいることが当たり前となった。
 家族も元気を取り戻した姉に喜ぶだけで、私のことを考えてくれる人は誰もいなかった。
 私は本当の気持ちを隠して、喜んでいる妹を演じ続ける。言いたいことを心の奥にしまい込み、平気なふりをする。
 だって、理想の家族の一員でいるためには、必要でしょう?
 家族でいられなくなってしまうのが私は怖かった。
 平気なふりをすることは慣れているはずなのに、今は苦しくて仕方がない。
 姉に新しい婚約者が決まる気配はまだなく、この状況に終わりが見えないことが何よりもつらかった。
 静かな夜に部屋にひとりでいると、思い出したくもない幼かった頃の自分が頭に浮かんでくる。
 必死になって考えないようにしても無駄だった。
 楽しいこともあったはずなのに、思い出すのはつらかったことばかり。
 両親にとっては兄や姉や弟が主役で、私はいつも脇役にしかなれなかった。
 笑顔の両親と兄や姉や弟のことを、一生懸命に笑いながら少し離れて見ていた。
 自分なりに見つけた居場所で、理想の家族の一員になれたのだから幸せなんだと思っていた。
 あのときは、まだ幼くて分からなかった。
 でも今なら分かる。私は、可哀想かわいそうな子でしかなかった。
 そして、今も変わっていない。
 それどころか、もっとみじめになっている。
 私の心はどんどん家族やギルバート様から離れていくが、彼らはそんな些細ささいなことには気づかない。優秀な兄でもなく、美しい姉でもなく、天真爛漫てんしんらんまんな弟でもなく、私だからだ。
 そう、彼らにとって私は気にもならない存在なのだろう。
 ……やっぱり私は、いらない真ん中のボタン。
 以前なら平気でいられたのに、今は無理だった。
 夜になると、ひとりで声を押し殺して、枕を濡らしながら眠りにつく。
 そして、少し赤く腫れた目で朝を迎える。
 泣いていたことを知られたくなくて、急いで水で冷やすけれど、すぐには元に戻らない。
 朝の挨拶あいさつをする私を見て、家族は私の目が赤くなっていることに気づく。

「あら、少し目が赤くなっているわ。メアリー、また遅くまで本でも読んでいたの? 夜更よふかしは体に良くないから、夢中になり過ぎないでね」

 優しい口調くちょうで母はそう言い、私の体調を心配する。

「課題でもしていたのかな? 勉強も大切だが、ほどほどにしなさい」

 その表情から父も私のことを案じていることが伝わってくる。
 それに続けて、無邪気むじゃきに笑いながら姉は、私をからかってくる。

「あら、そんな寝不足の顔をしていると、可愛い顔が台なしだわ。睡眠はちゃんと取るようにしないとね。素敵な婚約者に振られちゃっても知らないわよ」

 姉の言葉をとがめる人はいない。それはただの冗談で悪意のない言葉だから。

「ありがとう……気をつけるわ」

 私は微笑ほほえみながら、そう答える。
 一見いっけんすると、思いやりに満ちた温かい家族の朝の会話。
 でも、この会話には何かが欠けている。
 ねえ、どうして誰も「どうしたの? 何かあったの?」と理由を聞かないの?
 聞いてくれたら、本当のことを言えるかもしれないのに……
 いつだって、そうだった。誰も私自身には何も聞かない。
 それぞれが紡ぎたい言葉を、私に投げかけてくるだけ。
 見たいものだけを見て、話したいことだけを話す。
 完璧かんぺきで理想の家族。
 そこに私の気持ちは、必要ないのだろう。
 今日もまた、私のことを見ない日が始まる。
 ……きっと明日も、そして明後日あさっても続いていくのだろう。



     第二章 小さな温もり


 数週間後。学園では、以前とは明らかに違う視線を感じるようになった。
 知りたくもないのに、その視線の意味を読み取ってしまう。

「婚約者に見向きもされなくて可哀想かわいそうに……」
「あんなに美しい姉がいたら、仕方がないのかしら……」

 聞こえてもない声が心の隙間に入り込み、心をえぐっていく。
 もちろんすべての人が、そんな視線を向けてくる訳ではない。
 心配してくれる友人や、今まで通りに接してくれる人たちもいる。
 それでも私は、どうしても悪い方に考えてしまう。
 はぁ……、何も考えずにいたい。
 何かをやっている間は嫌なことを忘れられるため、学園にいるときは自分が出来ることを積極的に引き受けるようにしていた。
 ある日、仲の良い友人が頼み事をしてきた。

「メアリー、今日から一週間だけ、放課後の図書委員の仕事を代わってくれないかしら? 母の具合が悪くて、なるべく早く帰ってあげたいの。本来は先輩と二人でやるから、用事があるときは休んでもいいのだけど、その先輩も今週は来られないようなの。だから先生から、お互いに代理を立てるようにと言われてしまって……」

 友人は申し訳なさそうな表情で、頭を下げる。
 彼女の母の具合が悪いことは、以前から聞いていた。だから私で役に立てるなら、と引き受ける。
 それに時間を潰すことが出来るのは、ありがたかった。

「もちろん構わないわ。お母様についてあげて。お大事にしてくださいと伝えてね」
「ありがとう、メアリー! 本当に助かるわ」

 彼女は笑みを浮かべながらそう言って、私は一週間だけ図書委員の代理をすることになった。
 彼女から任された仕事は、放課後の三時から六時まで図書室で本の整理をするという簡単なものだった。担当時間を分け、前半が私で、後半がもうひとりの代理らしい。
 静かな図書室では、必要最低限の会話しかなく、人もそう多くないので視線も気にならない。
 今の私には、うってつけの場所だった。
 図書室で過ごす放課後は、思っていた以上に居心地が良くてわずらわしいことを考えずにいられる。
 私は黙々と作業を進めた。
 毎回、返却された本を正しく棚に戻したり修繕したりする。そして帰る前に、どこまで仕事を終えたのか次の人に分かるように日誌を書く。名前の欄は、代理なので友人の名を記した。
 単純な作業だが、積み上げられた本があるべき場所に収まっていくのは気持ちがよく、成果が形として目に見えるのもなんだか嬉しかった。
 もうひとりの代理は、とても忙しい人のようで、その人は先生に許可をもらい毎回三十分遅れて来ることになっているようだ。だからその人と顔を合わせることはない。
 私は真面目まじめな性格なので、片付けていない本を残したまま帰るのは申し訳なく思い、半分やればいいところをほとんど終わらせてから初日は帰った。


 翌日、図書室に来ると、私が今日やるべき仕事がほとんど済ませてあった。
 えっ? これって私が昨日帰るときに先生から頼まれたもののはず。
 あんなにたくさんあったのに。
 一体誰がやってくれたの?
 図書室担当の先生は、私の疑問を表情から読み取ったようで答える。

「ああそれはね、メアリーが帰ったあとに来た生徒がやってくれたわ。メアリーが頑張ってほとんど本を片付けてくれたでしょう。だからその子が『他の仕事をやります』って言ってくれたから頼んだの。二人は代理なのに、よくやってくれて助かるわ、ありがとう」
「いいえ、そんなことないです。もうひとりの方がすごいんです。私なんてただ言われたことをやっているだけですから」
「そんなことないわ、二人とも他の人の倍は働いてくれているもの。他の子だったら与えられた仕事以上のことはしないわ。本当に感謝しているのよ。はい、これ引き継ぎの日誌よ。読んで続きから始めてちょうだいね」

 先生が手渡してきた日誌には、丁寧な文字で仕事の進捗しんちょくと『ありがとう、助かりました』と私へのお礼が書いてあった。名前の欄には、代理としか書いてない。
 その何気ない言葉が、私は嬉しかった。短い言葉で、ありがとう以上の深い意味なんてない。
 でもいろいろと考えすぎてしまう今の私には、心に染みる言葉だった。
 なんか、いいな。……温かい気持ちになる。
 今日は日誌に進捗しんちょくだけではなく、『昨日はありがとうございます』と最後に小さく書き足す。そしてもうひとりの代理の真似をして、名前の欄には『代理』と書いてみた。
 顔を合わせることのない相手と日誌でのやり取りが続く。
 仕事の進捗しんちょく以外で書いていることは、お互いに短いお礼の言葉のみ。
 でもその言葉と相手を思いやった仕事の進め具合に、いつしか親近感しんきんかんのようなものを覚えていく。
 会ったことがない人からのちょっとした気遣いに癒やされる。
 こんなことは初めてで、不思議な感覚だった。
 いつの間にか、放課後に図書室へ行くのが楽しみになっていく。
 どんな人なんだろう? 機会があれば話してみたいな。
 だんだんとそんな思いをいだくようになる。
 代理の人の名前どころか、性別だって知らない。分かっていることと言えば、綺麗な字を書く人ということだけ。


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