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17.予期せぬ再会①〜エラ視点〜
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刺繍を施した商品が並べられてある店内はいつも女性客で溢れている、ここは私が2年前に開いた『エラの刺繍店』だ。
離縁当初は依頼があったら物や服に刺繍をして生計を立てていたが、友人達や家族が宣伝を兼ねて刺繍を施した小物を持ち歩いてくれたお陰で依頼が殺到するようになり、こうして小さな店まで持てるようになった。
いいえ、正直に言うとそれだけではない…離縁の時に持ち出した蓄えのお陰でもあった。
私は結婚当初から刺繍の腕を活かし内職をして家計の足しにしていた。だが数年もするとその技術力を評価され通常よりも高値で刺繍を買い取って貰えるほどになっていた。
夫の収入だけでやり繰り出来るようになると、私の内職で得たお金は食事会など緊急な出費がある時に困らないようにと蓄えておくようにしていた。
そして夫の不貞を知り別れようと決めた時には、蓄えは結構な金額になっていた。
このお金は彼との結婚生活を続けているなかで貯めたものなので、半分は彼に渡すつもりだった。
離縁の理由がどんなものだろうともそれが筋だと思っていたから。
だから出て行く前にこの蓄えについてトウイに話し、後腐れなく半分だけを持って息子と家を出ていくつもりだった。
けれども息子からの告白を聞いて考えは変わった。
ライは私の知らないところで父親の不貞を目撃し一人で悩み苦しんでいた。父親の不貞から母親を守ろうと必死で考え続けて…。
辿り着いた答えは優しすぎる言葉。
『僕がいるから大丈夫だよ、母さん』
声を震わせながらそう言ってくるライを抱きしめた。
『こんなに悩んでいたのに気が付かなくてごめんね、もう大丈夫だからね』
そう囁きながら何度もライの小さな背中を撫でた。
『母さん、母さん…母さん…』
泣きながらそう叫び続けるライ。
どれほどの苦しかったのだろうか。
いつも笑っていたのに、心では泣き叫んでいたのだから。
たった12歳の子供が経験することではなかった。
…こんな経験はさせてはいけなかった。
裏切りを知って別れようと決めた時でさえ夫に怒りは感じなかった。
薄情かもしれないが『もういいわ…』と素直に思えていた。
でもライがこんなにも苦しんでいたと知った今は怒りが湧き上がってくる。
どうでもいい夫に大切なライを傷つけられた。
許せないと思った。まさか自分がかつて愛した人をこんなにも憎めるとは…。
他の愛を見つけても許せたわ。
勝手な人だけどもういいと思えたの。
でも息子であるライをこんな形で巻き込んだことだけは許せない。
それは息子を傷つけてまでも優先することなの?
真実の愛ってそんなものなの?
我が子を踏みつけて笑っていられるなんて…。
愚かな人になったのね。
この時点で私は本当の意味で夫であるトウイ・アロークを見限った。
13年間も連れ添ったのにもうひと欠片の情もなくなってしまった。
あなたに対して最低限の礼儀も必要ないわよね。
だって大切な息子を平気で傷つけたのだから。
夫であることをやめるのは自由かもしれない。
でも父親であることを忘れてはいけなかった。
…馬鹿な人…。
私は蓄えていたお金を夫に知らせることなく持って出ていくことを決めた。
新しい生活を一から築くのにはお金は掛かる、本当は少しくらいの苦労はと思っていたがライにはこれ以上の苦労なんて掛けたくないし離縁後は養育費や援助という名の夫との繋がりを一切なくしたかった。
もう迷いはなかった。
着々と進めていく離縁の準備に夫が気づくことはなかった。
ライが望んだ離籍の手続き、二人で住む家、新しい仕事、ライが通う学校の手配など新しい生活に必要なものを全てを整える作業で慌ただしくなる。必要経費は蓄えから出せるので予定よりスムーズに事が進んで行く。
本来なら一緒に生活している家族なら異変を感じてもおかしくはなかった。だが浮気相手との逢瀬で忙しい彼は気づかなかった。
笑ってしまうくらいに。
そして準備が全て整った頃に夫から『離縁したい』と言われた。喜びを抑え戸惑う妻を演じると彼は真実の愛について語り始めた。
それはもう真剣な表情で…。
呆れるしかなかった、不貞を堂々と真実の愛だなんて言えるなんて頭がどうかしているとしか思えない。
私が愛した夫はどこに行ってしまったのだろうか?
ライが尊敬していた父親は…?
誠実で真っ直ぐな人だったはずなのになぜ。
思い浮かんだ疑問に未練は一切なかった。
そうね、真っ直ぐで純粋だから騙されたのね。
誠実を今は馬鹿正直と履き違えている?
あなたは今、良い気分でしょうね。
この状況に酔っているのだから。
でもいずれ酔いも覚めるでしょう。
残るのは現実だけ。
その時に真実の愛とやらはどうなるのかしら。
もう関係ないけど。
『離縁を受け入れます』とだけ言ってその場を離れた。もう彼には掛ける言葉はなかったから。
いろいろあったけど今となっては元夫に感謝さえしている。あれほど酷い行いしてくれたお陰で『あの時は…』と昔を振り返り別れを後悔することもないし、蓄えを持って出たことへの罪悪感もほとんどない。
ある意味元夫に対して負の感情はなくなったかもしれない。最低のまま別れてくれたからこそ、今の幸せがあるのだから。
今は笑って『元気かな?』と話題にすることも出来るだろう。まあ…そんな暇もないくらいに幸せだけど。
本当に人生は不思議だ。
なぜか珍しく元夫のことを思い出しているとリーゼが元気な声で話し掛けてくる。
「エラさん、注文の品を隣町まで届けてきますね」
屋敷で働いていた侍女のリーゼとは離縁後は友人として付き合いを続けていたが私が店を構えた後に従業員として働いてくれるようになっていた。
「ありがとう、リーゼ。その届け物が終わったら店に戻らずに真っ直ぐ家に帰っていいわ。今日は早めに店を閉めるつもりだから」
「ではお言葉に甘えて真っ直ぐに帰らせてもらいますね。行ってきます」
「気をつけて行ってらっしゃい」
有り難いことに刺繍の評判も良く経営も軌道に乗っている。もっと店を大きくしたらどうかと周りから進められてもいるが、私は家族との時間を大切にしたいのでこの小さな店のままでいいと断っている。
最近は15歳になったライも学校が休みの日には積極的に店番をしてくれている。家族が気軽に店に顔を出すこの状況が家庭的な雰囲気だと予想外に『エラの刺繍店』の売りにもなっている。
夕方近くになり店には珍しくお客様の姿が途絶えている。こんな日は早くに店を閉め家族の時間を大切にすることにしている。街ではそんな店は潰れてしまうかもしれないがこの土地ではそんな緩さも好意的に受け入れられている。
今日は早仕舞いにしましょう。
家族揃ってゆっくりと外で食事をしようかしら。
それとも腕によりをかけて何か作ろうかな。
ふふふ、楽しみだわ。
店の商品を整理整頓しながら器用にやんちゃな弟の面倒も見てくれているライに声を掛ける。
「ライ、今晩は何が食べたい?」
「あーうー、ぶぅー」
兄であるライの代わりに1歳になるカルアがライの服に涎を垂らしながら一生懸命に返事をしてくる。
「おいおい、カルア。兄ちゃんの服びしょびしょだぞ、まったく困った奴だな。
母さん、今日は久しぶりに家族揃って外食しようよ」
そう言いながらライは弟の額にキスをしてあげた後に、カルアが大好きな高い高いをしてあげて『きゃっきゃっ、あぅー』と喜ばせている。年の離れた弟を溺愛しているライはどんなことでもカルアを許してしまう。
困った兄である。
母親である私が『我儘になってしまうわよ』と心配すると『俺が甘やかす分、母さんと父さんが叱れば問題ないよ』と笑って言う始末だ。
楽しそうにじゃれ合っているライとカルアは誰から見ても仲の良い兄弟だ。
あの時の決断は間違ってなかったと心から思える日々。
可愛い子供達を見ながら閉店の準備を始めていると外から店の中を窺っている人物に気がついた。
最初は誰だか分からなかったが、三年前とは雰囲気が違っているけどよく見れば元夫トウイ・アロークのようだった。
離縁当初は依頼があったら物や服に刺繍をして生計を立てていたが、友人達や家族が宣伝を兼ねて刺繍を施した小物を持ち歩いてくれたお陰で依頼が殺到するようになり、こうして小さな店まで持てるようになった。
いいえ、正直に言うとそれだけではない…離縁の時に持ち出した蓄えのお陰でもあった。
私は結婚当初から刺繍の腕を活かし内職をして家計の足しにしていた。だが数年もするとその技術力を評価され通常よりも高値で刺繍を買い取って貰えるほどになっていた。
夫の収入だけでやり繰り出来るようになると、私の内職で得たお金は食事会など緊急な出費がある時に困らないようにと蓄えておくようにしていた。
そして夫の不貞を知り別れようと決めた時には、蓄えは結構な金額になっていた。
このお金は彼との結婚生活を続けているなかで貯めたものなので、半分は彼に渡すつもりだった。
離縁の理由がどんなものだろうともそれが筋だと思っていたから。
だから出て行く前にこの蓄えについてトウイに話し、後腐れなく半分だけを持って息子と家を出ていくつもりだった。
けれども息子からの告白を聞いて考えは変わった。
ライは私の知らないところで父親の不貞を目撃し一人で悩み苦しんでいた。父親の不貞から母親を守ろうと必死で考え続けて…。
辿り着いた答えは優しすぎる言葉。
『僕がいるから大丈夫だよ、母さん』
声を震わせながらそう言ってくるライを抱きしめた。
『こんなに悩んでいたのに気が付かなくてごめんね、もう大丈夫だからね』
そう囁きながら何度もライの小さな背中を撫でた。
『母さん、母さん…母さん…』
泣きながらそう叫び続けるライ。
どれほどの苦しかったのだろうか。
いつも笑っていたのに、心では泣き叫んでいたのだから。
たった12歳の子供が経験することではなかった。
…こんな経験はさせてはいけなかった。
裏切りを知って別れようと決めた時でさえ夫に怒りは感じなかった。
薄情かもしれないが『もういいわ…』と素直に思えていた。
でもライがこんなにも苦しんでいたと知った今は怒りが湧き上がってくる。
どうでもいい夫に大切なライを傷つけられた。
許せないと思った。まさか自分がかつて愛した人をこんなにも憎めるとは…。
他の愛を見つけても許せたわ。
勝手な人だけどもういいと思えたの。
でも息子であるライをこんな形で巻き込んだことだけは許せない。
それは息子を傷つけてまでも優先することなの?
真実の愛ってそんなものなの?
我が子を踏みつけて笑っていられるなんて…。
愚かな人になったのね。
この時点で私は本当の意味で夫であるトウイ・アロークを見限った。
13年間も連れ添ったのにもうひと欠片の情もなくなってしまった。
あなたに対して最低限の礼儀も必要ないわよね。
だって大切な息子を平気で傷つけたのだから。
夫であることをやめるのは自由かもしれない。
でも父親であることを忘れてはいけなかった。
…馬鹿な人…。
私は蓄えていたお金を夫に知らせることなく持って出ていくことを決めた。
新しい生活を一から築くのにはお金は掛かる、本当は少しくらいの苦労はと思っていたがライにはこれ以上の苦労なんて掛けたくないし離縁後は養育費や援助という名の夫との繋がりを一切なくしたかった。
もう迷いはなかった。
着々と進めていく離縁の準備に夫が気づくことはなかった。
ライが望んだ離籍の手続き、二人で住む家、新しい仕事、ライが通う学校の手配など新しい生活に必要なものを全てを整える作業で慌ただしくなる。必要経費は蓄えから出せるので予定よりスムーズに事が進んで行く。
本来なら一緒に生活している家族なら異変を感じてもおかしくはなかった。だが浮気相手との逢瀬で忙しい彼は気づかなかった。
笑ってしまうくらいに。
そして準備が全て整った頃に夫から『離縁したい』と言われた。喜びを抑え戸惑う妻を演じると彼は真実の愛について語り始めた。
それはもう真剣な表情で…。
呆れるしかなかった、不貞を堂々と真実の愛だなんて言えるなんて頭がどうかしているとしか思えない。
私が愛した夫はどこに行ってしまったのだろうか?
ライが尊敬していた父親は…?
誠実で真っ直ぐな人だったはずなのになぜ。
思い浮かんだ疑問に未練は一切なかった。
そうね、真っ直ぐで純粋だから騙されたのね。
誠実を今は馬鹿正直と履き違えている?
あなたは今、良い気分でしょうね。
この状況に酔っているのだから。
でもいずれ酔いも覚めるでしょう。
残るのは現実だけ。
その時に真実の愛とやらはどうなるのかしら。
もう関係ないけど。
『離縁を受け入れます』とだけ言ってその場を離れた。もう彼には掛ける言葉はなかったから。
いろいろあったけど今となっては元夫に感謝さえしている。あれほど酷い行いしてくれたお陰で『あの時は…』と昔を振り返り別れを後悔することもないし、蓄えを持って出たことへの罪悪感もほとんどない。
ある意味元夫に対して負の感情はなくなったかもしれない。最低のまま別れてくれたからこそ、今の幸せがあるのだから。
今は笑って『元気かな?』と話題にすることも出来るだろう。まあ…そんな暇もないくらいに幸せだけど。
本当に人生は不思議だ。
なぜか珍しく元夫のことを思い出しているとリーゼが元気な声で話し掛けてくる。
「エラさん、注文の品を隣町まで届けてきますね」
屋敷で働いていた侍女のリーゼとは離縁後は友人として付き合いを続けていたが私が店を構えた後に従業員として働いてくれるようになっていた。
「ありがとう、リーゼ。その届け物が終わったら店に戻らずに真っ直ぐ家に帰っていいわ。今日は早めに店を閉めるつもりだから」
「ではお言葉に甘えて真っ直ぐに帰らせてもらいますね。行ってきます」
「気をつけて行ってらっしゃい」
有り難いことに刺繍の評判も良く経営も軌道に乗っている。もっと店を大きくしたらどうかと周りから進められてもいるが、私は家族との時間を大切にしたいのでこの小さな店のままでいいと断っている。
最近は15歳になったライも学校が休みの日には積極的に店番をしてくれている。家族が気軽に店に顔を出すこの状況が家庭的な雰囲気だと予想外に『エラの刺繍店』の売りにもなっている。
夕方近くになり店には珍しくお客様の姿が途絶えている。こんな日は早くに店を閉め家族の時間を大切にすることにしている。街ではそんな店は潰れてしまうかもしれないがこの土地ではそんな緩さも好意的に受け入れられている。
今日は早仕舞いにしましょう。
家族揃ってゆっくりと外で食事をしようかしら。
それとも腕によりをかけて何か作ろうかな。
ふふふ、楽しみだわ。
店の商品を整理整頓しながら器用にやんちゃな弟の面倒も見てくれているライに声を掛ける。
「ライ、今晩は何が食べたい?」
「あーうー、ぶぅー」
兄であるライの代わりに1歳になるカルアがライの服に涎を垂らしながら一生懸命に返事をしてくる。
「おいおい、カルア。兄ちゃんの服びしょびしょだぞ、まったく困った奴だな。
母さん、今日は久しぶりに家族揃って外食しようよ」
そう言いながらライは弟の額にキスをしてあげた後に、カルアが大好きな高い高いをしてあげて『きゃっきゃっ、あぅー』と喜ばせている。年の離れた弟を溺愛しているライはどんなことでもカルアを許してしまう。
困った兄である。
母親である私が『我儘になってしまうわよ』と心配すると『俺が甘やかす分、母さんと父さんが叱れば問題ないよ』と笑って言う始末だ。
楽しそうにじゃれ合っているライとカルアは誰から見ても仲の良い兄弟だ。
あの時の決断は間違ってなかったと心から思える日々。
可愛い子供達を見ながら閉店の準備を始めていると外から店の中を窺っている人物に気がついた。
最初は誰だか分からなかったが、三年前とは雰囲気が違っているけどよく見れば元夫トウイ・アロークのようだった。
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