幸せな番が微笑みながら願うこと

矢野りと

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56.別れ②

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※残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


****************************************


 
グリッ、ブチッチ…、ビシャリ……。

左の眼孔からは血が滴り落ち、もうそこにはさきほどまであった竜眼はなかった。
痛みに僅かばかり顔を顰めるが、それよりもアンの眠りを妨げずに済んだことに安堵を覚える。

 アン、今から始めるからな。
 目覚めた時には心が引き裂かれるようなことはなにもない。
 あと少しだけ…耐えてくれ。



取り出したばかりの血に塗れた竜眼を手の平に乗せ、遥か昔に廃れた言葉を使い禁術の詠唱を行う。

「グアリナウ”クァポウツ:’ヴィザブア………」

アンの顔から一刻も目を離すことなどしない。残り少ない時間をすべてアンに捧げたい、この目に焼き付けておきたいから。

安らかに眠るアンの呼吸は落ち着いている。このままいけば何も問題なく終わるだろう。

‥‥そして永遠に私を忘れてしまう。

心は安堵と喪失が渦巻くが、詠唱を止めることはない。


グシャ…ポツン、ポタリ‥‥。
言葉を紡ぎながら竜力を絞り出すように手の平にある竜眼を握り潰していく。血と体液が滴り落ち生臭い臭いが漂ってくる。
あと少しで詠唱が終わる…というまさにその時、アンの瞼が微かに震えた。

 ああ‥‥、あと少しだからな。
 それまで眠っていてくれ。
 苦しい気持ちのまま起きなくていいんだ。
 アン、もう少しだから…。


詠唱を続けながらアンを抱き締める力が自然と強くなる。
そしてアンの目が緩やかに開き、私を見る。

その目に宿っているのはあの時の狂気でもなく絶望でもなかった、そこにあったのは番に向ける純粋な愛そのもの。

アンは無邪気に笑いながら、

「…エドガなの。これは夢…?愛しているわ、私のエドガ」

と言い私に強請るように両の手を伸ばしてくる。


 …っあ、アン?
 いまなんて…愛して、い…るって‥。
 エドガ…っと呼んでくれた…のか。
 あ、あああ…、こころが戻っ‥いるっ…。


だがそれと同時に術は完了した、すべてが完璧に…。

アンの目が静かに閉じていく、私を求めてくれている瞳が瞼によって見えなくなっていく。
伸ばされた手は無情にも力を失い垂れ下がり、私に届くことはなかった。

そしてアンは再び眠りに落ちた…。



『う、う‥うぉーーーー、アンーーー!』


アンの身体を抱き締めながら声にならない叫びを上げ続ける。喉が裂け血が噴き出しても慟哭が止まることはない。
右目だけでなく、眼球を抉り出し左目からも血の涙が止めどなく流れ落ちる。

自我が崩壊せずに済んでいるのは、腕に抱くアンの温もりがあるからだ。


 ああ、あ‥‥‥。
 アンはあの時、私を見ていた…のか?
 分かっていた?じゃあ…。
 グゥッ…私は‥‥あっ、あああ…。


身体の震えが止まらない、『もしかしたら…』という考えに心が悲鳴を上げ続ける。
ただただ、後戻りできない暗闇を彷徨い続けるしかなかった。すでに何もかも遅かったのだ。




どれくらいの時間をそうしていたのか分からない。



すでに外は日が落ちているので数時間は経過したのだろうか。
腕の中で大切に抱き締めているアンの身体が動き、その目がはっきりと開かれ私のほうを見てくる。

それは『エドガ』と呼んでくれたあの時と違って、初めてあった人に向ける眼差しだった。覚悟はしていたが、鋭利な刃を突き立てられたような衝撃に息が止まる。


「あなたはだあれ?ここはどこなの?わたしなにしているのかな‥‥」

怯えることなく首を傾げながら困ったような顔をするアンは6歳の頃に心が戻っていた。

戻ってしまっていた、術は成功していたのだ。


「……大丈夫だ。今から家族が待っているところに連れて行くから」

震えそうになる声を必死に誤魔化し微笑みながらそう答える。アンを不安がらせないように出来ているつもりだった。

 

「お兄さんどうしたの、どこいたいの?目をけがしたの…。だいじょうぶ?」

心配気に聞いてくるアンはもう私を番として求めてはくれない。
それは他人に向ける優しさでしかない。

‥‥そうしたのは他でもないこの私だ。


「大丈夫だよ、もう痛くないから」

そう言うとアンの手を取り家族が待つ王宮へと歩いて行く。

『きれいなところね』といいながら無邪気に笑うアンを見ながら、自分がなんて答えたのか覚えていない。優しく微笑んでいたとは思うが、記憶が曖昧で…、気づけばすべて滞りなく完了していた。


‥‥もうアンはいない。

言い知れぬ喪失感だけが私の心を埋め尽くしている。


すべては完璧に終わってしまっていた。もう二度と戻ることなど出来ない。

私がすべてを始めすべてをこの手で終わらせた。

間違えたのは最初からまでだったのだろうか…。

その答えはもう永遠に知ることはない。

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