報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜

矢野りと

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29.天に帰った小さな命

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……あの子が天に帰ってしまってから半月が過ぎた。


私が倒れたあの日から、お腹の中であの子は懸命に頑張ってくれた。でも、私が守りきれなくて一週間後にはいなくなった。


もうあの子はいないというのにお腹に手を当ててしまう。まだ膨らんでもいなかったから以前とまったく変わらない。
でも、この喪失感があの子が確かに私の中にいたのだと教えてくれる。

 ごめんね、守ってあげられなくて……。


天に向かって言うべきなのかもしれないけれど、お腹に向かって話し掛けてしまう。
あの子を失った日から何も手につかず、こうして部屋に引きこもって過ごしている。

周囲の人達は、こんな私をそっとしておいてくれる。……ロイド以外は。


流産したあと、ロイドは私のもとに駆けつけた。

『レティ、本当に辛かったな。だが、気に病むことはないから。君のせいじゃない、お腹の子が弱かっただけだ』

 ……なにを言って……るの……。

ベッドの上で上半身を起こしていた私は、手に触れたシーツを強く握りしめた。

『初期の流産は珍しいことではないと聞いたよ。また、授かるさ』

彼は私を励ましているつもりだったのだろう。実際、私もマール先生からそう説明されていた。

だから、この後に続いた言葉が、天に帰った子を悲しむものだったならば、悪気はなかったのだと思えたかもしれない。
でも、彼が続けた言葉はそうじゃなかった。

『たった一回だけだったんだ。君と仲違いしたまま出発したから宿で深酒してしまった。そして、酩酊した私をアリーチェが看病してくれて……。酔った勢いだったんだ』

彼は悲痛な表情で言い訳を始めたのだ。


――そんなこと、どうでもいい。

 ねえ、あの子のことを悲しんで……。

私は唇を噛みしめ俯いた。彼に涙なんて見せたくなかったから。

『アリーチェは補佐役としか思っていない。だが、ホグワル候爵家は当主が絶対だから逆らえない。本当にすまない。けれど、形だけの愛人だから。信じて欲しい、レティ』

彼の口からは、最後まであの子のことは出てこなかった。生まれて初めて、彼に憎しみを覚えた。
 
『…………てください』

『レティ?』

『……出ていってください』

『ロイド様、若奥様は体調が悪いのです。どうか退出願います!』

彼を追い出してくれたのは、その場に控えていたメルアだった。

そのあとも毎日、彼は私のもとに足を運んでいるけれど、あの日から一度も顔を合わせてはいない。

『安静にと、マール先生から言付かっております。ですから誰もお通しすることは出来ません』と扉越しに誰かが告げているからだ。
それはメルアだったり他の侍女だったり、その時で違う。でも、みんな体を張って私を守ってくれている。……私はそれに甘えていた。

 
現実と向き合わなければいけないのは分かっている。ロイドとのこと、アリーチェのこと、義父母とのこと……。


でも、あと少しだけあの子のことだけを想っていたい。

 ねえ、赤ちゃん。あなたは今、どうしているの……。そこは寒くない? 寂しくない? ひとりで泣いていない……。


だって、私だけだから。あの子の父親は悲しんでもくれなかった。






◇ ◇ ◇


「若奥様、マール先生がお見えになりました」

「お通ししてちょうだい、メルア」

私は身支度を整えてから、扉で続いている隣の応接室へ向かう。

今、私がいるのは自室ではない。あの部屋は夫婦の部屋と続いていたから居たくなかった。安静にする必要があるという理由で、ここ――以前、診察に使った部屋――に移っている。

本当は毎日診てもらう必要はなかった。
マールもまた、私のために”安静”が必要な状況を作ってくれているのだ。


「こんにちは、レティシア様。食事は取れていますか?」

「はい、取っております」

「いいえ、マール先生。若奥様はあまり召し上がっておりません」

後ろで控えているメルアが口を挟む。普段なら決してこんなことはしない。食事を残してしまう私を、案じているからだろう。
彼は私を見ながら、メルアと会話する。

「そのようですね。顔色がよくないですから。メルアさん、なにか食べやすいもの……そうですね、果物を持ってきてもらえますか?」

「すぐにご用意いたします」

応接室から出ていこうとする彼女に『その必要はないわ』と止める。食欲はないから無駄になってしまうだけだから。

でも、彼女は私ではなく彼に、どうするべきかと視線で問い掛ける。私を軽んじているのではなく、医者の判断を優先すべきだと思ったのだ。

「私が食べたいんです。実は昼食が足りなかったようで、お腹が空いているんですよ。ですから、腹ペコの私に付き合ってくださいませんか? レティシア様」

「では、お腹が空いたマール先生のためにお持ちしますね、若奥様」


ふたりは私のために優しい嘘を吐く。

彼らに心配をかけてしまっているのが心苦しい。しっかりしなければと思うけれど、なかなか以前と同じようには戻れない。

メルアがいなくなると、彼はいつものように薬を処方し始める。以前はあんなに効いていたのに、今の私には効果がない。彼の話に適当に相槌を打つだけで終わってしまう。
どこか上の空の私に対して、彼は唐突に告げた。

「レティシア様、そろそろ吐き出してみませんか?」

彼の声音はいつもの優しいものではなく、厳しいものだった。鋭い眼差しで、真っ直ぐに私を見つめてくる。

「なにをですか? マール先生」

「ここに、ひとりで抱えているものです。レティシア様」

彼は自分の胸を指でトントンと叩きながらそう告げてきた。



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