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19.あの男の想い人(ミネルバ視点)
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勧められるままお茶に口をつけるレティシアを、私――ミネルバは観察する。
可愛らしい雰囲気を持っているけれど平凡な容姿で、利に繋がる会話を提供する気配もない。
なぜこの子なのかと、ここにいない人物の顔を思い浮かべる。彼女はトウヤ・マール――あの冷酷な男が心を寄せている唯一の相手。
彼女を誘ったのは、あの男の弱みを握りたいから。
――持ち札は多いほどいい。
今日は開放されている温室だが、庭園の端にあるため私達だけしかいない。彼女を見極める時間はある。
「ホグワル侯爵夫人と不仲だからといって、レティシア様を甚振る趣味はありませんから安心してください。友人からあなたのことを聞いて、お話してみたくなっただけですから」
「ご友人とは誰のことでしょうか?」
「ふふ、共通の友人よ」
彼女は名前を挙げていく。けれど、そこに彼の名は入っていなかった。
友人にすらなれていないと知ったら、あの男はどんな顔をするかしら。いつだって優位に立つ彼が悔しがる姿を想像すると笑えてくる。
彼女は私の笑みを好意的に受け取っている。
……やはり普通の子ね。
「あなたと友人になりたいと思っているの。だから、私とホグワル侯爵夫人とのことを話すわね。気になるでしょ?」
嘘――私に友人など必要ない。
「私が聞いてもよろしいのでしょうか……」
若い子は知らなくとも、あの頃学園に在籍していた者達はみんな知っていることだ。
周知の事実だからと前置きして話し始める。
「彼女が好意を寄せていた人が、私のことを綺麗な子と言ったの。彼女は学園で目立つ存在だったから取り巻きも多くてね。分かるでしょ? 男爵令嬢だった私は誰からも相手にされなくなった。婚約も解消されたわ」
簡潔に言ったけれど、事実はこんなものではなかった。淫売と噂を流され、この容姿も相まって周囲は信じた。『結婚する前に君の正体が分かって良かったよ』と吐き捨てたのは婚約者だった人。
あの頃の私は弱くて、ただ泣くことしか出来なかった。
今は違う。
「年の離れた男に嫁いだけど離縁されて苦労したわ。二年前公爵と再婚した際、彼女はおめでとうございますと笑顔で言ったのよ」
彼女は綺麗さっぱり忘れていたから丁寧に教えてあげた。そうしたら、彼女は青ざめて”公爵夫人という身分”に謝罪していた。
本当に嫌な女、昔も今もその目に私を映さない。
この手の話を聞けば、大抵の人は同情するふりをする。お辛かったでしょうにと。……当時自分が傍観者の一人だったことを都合よく忘れている。
その当時を知らない人は『私だったらお助けしたのに』と立派な言葉を吐いて媚びる。
――なぜなら今の私は公爵夫人だから。
あなたはどう媚びるのかしらと心の中で嘲笑いながら、私は目元の黒子を少し下げ、悲しげな顔をしてみせる。
「もしレティシア様だったら、止めてくれたかしら?」
「……申し訳ございません、難しかったと思います」
嘘を吐くのは簡単なのに、彼女はそうしなかった。彼女は今の私――公爵夫人に媚びるのではなく、過去の私――男爵令嬢に向き合っている。
あの頃の私は孤独だった。巻き込まれるのを恐れた下位の者からも無視されて、誰の目にも映らなくなった。
彼女はあの時の私をその心にいま映している。
あの時の私が彼女に問い掛ける。
「もし鉛筆を落としたら拾ってくれたかしら?」
「はい、拾いました」
彼女の声音は柔らかい。
「もし私が挨拶をしたら返してくれたかしら?」
「はい、必ずしていたと思います」
彼女の声音に胸が締め付けられる。
あの当時、誰もやってくれなかったことを、レティシアはやると言う。
口先だけの言葉かもしれない。なのに、彼女の言葉がすっと私の心に入ってくるのはなぜだろう。
”君じゃない人”だと調べて知っていた……だからかも知れない。
無力で幼かったあの頃の私が、少しだけ笑っている気がした。
――良かったね、やっと見てくれる人が現れて……。
マールがどこに惹かれたのか分かった気がする。
私達はどっぷり染まることで這い上がり、彼女は無垢な心を保つことで評価されずにいる。
彼女は社交界の華になることはないだろう。
彼女の価値は貴族社会では好まれない。染まらずにいる者は築き上げた秩序を乱すからだ。
賢い生き方しているのは私のほうだと胸を張って言える。でも。
……このまま変わらないで欲しい。
そう願うのは私の我儘だろうか。
「レティシア様。こんな私ですが友人になってもらえますか」
「はい、喜んで。ミネルバ様」
何十年か振りに出来た友人とお喋りを楽しんでいると、こちらに向かって歩いてくるあの男の姿が目に映る。
はっ、射殺されそうだわ。
勿論その視線は私にしか向けられていない。
彼女と話すことは事前に彼には伝えてはいなかった。知っていたら邪魔されていたはず。私と彼は友人ではなくて、お互いに利用し合うだけ。必要ならば平気で裏切る。
いいえ、そもそも信用していないのだから裏切りにすらならない。
「レティシア様、先ほどお話しした共通の友人がやって来ますわ」
彼女は私の視線の先を辿って振り返ると、ふわっと嬉しそうに微笑む。
どうやらマールは辛うじて友人枠に入れているようだ。悔しがる姿を見れなくて惜しいと思う。
「マール先生、診察以外でお会いするのは初めてですね。なんか不思議な感じです」
「レティシア様、ここで会えるとは奇遇ですね。お招きいただき有り難うございます、ミネルバ様」
招待した覚えは……もちろんない。
「お忙しいのに足を運んでくださり、こちらこそ光栄ですわ。マール伯爵」
レティシアが振り返った瞬間、彼の殺気は消え失せた。その代わりに、笑みを浮かべて彼女を見る。
――それは作り笑いではなく、初めて目にする彼の本当の笑顔。
こんな顔で笑えるのね、あんな男でも。
そう思いながら鼻で笑っていると、彼は一瞬だけこちら見て不敵に笑う。
そうか、私もなのね……。
久しぶりにちゃんと笑っている自分に気がついた。彼女の価値は底知れないものがある。
レティシアを囲んで和んでいると、侍女がただならぬ様子で私のもとにやって来た。
可愛らしい雰囲気を持っているけれど平凡な容姿で、利に繋がる会話を提供する気配もない。
なぜこの子なのかと、ここにいない人物の顔を思い浮かべる。彼女はトウヤ・マール――あの冷酷な男が心を寄せている唯一の相手。
彼女を誘ったのは、あの男の弱みを握りたいから。
――持ち札は多いほどいい。
今日は開放されている温室だが、庭園の端にあるため私達だけしかいない。彼女を見極める時間はある。
「ホグワル侯爵夫人と不仲だからといって、レティシア様を甚振る趣味はありませんから安心してください。友人からあなたのことを聞いて、お話してみたくなっただけですから」
「ご友人とは誰のことでしょうか?」
「ふふ、共通の友人よ」
彼女は名前を挙げていく。けれど、そこに彼の名は入っていなかった。
友人にすらなれていないと知ったら、あの男はどんな顔をするかしら。いつだって優位に立つ彼が悔しがる姿を想像すると笑えてくる。
彼女は私の笑みを好意的に受け取っている。
……やはり普通の子ね。
「あなたと友人になりたいと思っているの。だから、私とホグワル侯爵夫人とのことを話すわね。気になるでしょ?」
嘘――私に友人など必要ない。
「私が聞いてもよろしいのでしょうか……」
若い子は知らなくとも、あの頃学園に在籍していた者達はみんな知っていることだ。
周知の事実だからと前置きして話し始める。
「彼女が好意を寄せていた人が、私のことを綺麗な子と言ったの。彼女は学園で目立つ存在だったから取り巻きも多くてね。分かるでしょ? 男爵令嬢だった私は誰からも相手にされなくなった。婚約も解消されたわ」
簡潔に言ったけれど、事実はこんなものではなかった。淫売と噂を流され、この容姿も相まって周囲は信じた。『結婚する前に君の正体が分かって良かったよ』と吐き捨てたのは婚約者だった人。
あの頃の私は弱くて、ただ泣くことしか出来なかった。
今は違う。
「年の離れた男に嫁いだけど離縁されて苦労したわ。二年前公爵と再婚した際、彼女はおめでとうございますと笑顔で言ったのよ」
彼女は綺麗さっぱり忘れていたから丁寧に教えてあげた。そうしたら、彼女は青ざめて”公爵夫人という身分”に謝罪していた。
本当に嫌な女、昔も今もその目に私を映さない。
この手の話を聞けば、大抵の人は同情するふりをする。お辛かったでしょうにと。……当時自分が傍観者の一人だったことを都合よく忘れている。
その当時を知らない人は『私だったらお助けしたのに』と立派な言葉を吐いて媚びる。
――なぜなら今の私は公爵夫人だから。
あなたはどう媚びるのかしらと心の中で嘲笑いながら、私は目元の黒子を少し下げ、悲しげな顔をしてみせる。
「もしレティシア様だったら、止めてくれたかしら?」
「……申し訳ございません、難しかったと思います」
嘘を吐くのは簡単なのに、彼女はそうしなかった。彼女は今の私――公爵夫人に媚びるのではなく、過去の私――男爵令嬢に向き合っている。
あの頃の私は孤独だった。巻き込まれるのを恐れた下位の者からも無視されて、誰の目にも映らなくなった。
彼女はあの時の私をその心にいま映している。
あの時の私が彼女に問い掛ける。
「もし鉛筆を落としたら拾ってくれたかしら?」
「はい、拾いました」
彼女の声音は柔らかい。
「もし私が挨拶をしたら返してくれたかしら?」
「はい、必ずしていたと思います」
彼女の声音に胸が締め付けられる。
あの当時、誰もやってくれなかったことを、レティシアはやると言う。
口先だけの言葉かもしれない。なのに、彼女の言葉がすっと私の心に入ってくるのはなぜだろう。
”君じゃない人”だと調べて知っていた……だからかも知れない。
無力で幼かったあの頃の私が、少しだけ笑っている気がした。
――良かったね、やっと見てくれる人が現れて……。
マールがどこに惹かれたのか分かった気がする。
私達はどっぷり染まることで這い上がり、彼女は無垢な心を保つことで評価されずにいる。
彼女は社交界の華になることはないだろう。
彼女の価値は貴族社会では好まれない。染まらずにいる者は築き上げた秩序を乱すからだ。
賢い生き方しているのは私のほうだと胸を張って言える。でも。
……このまま変わらないで欲しい。
そう願うのは私の我儘だろうか。
「レティシア様。こんな私ですが友人になってもらえますか」
「はい、喜んで。ミネルバ様」
何十年か振りに出来た友人とお喋りを楽しんでいると、こちらに向かって歩いてくるあの男の姿が目に映る。
はっ、射殺されそうだわ。
勿論その視線は私にしか向けられていない。
彼女と話すことは事前に彼には伝えてはいなかった。知っていたら邪魔されていたはず。私と彼は友人ではなくて、お互いに利用し合うだけ。必要ならば平気で裏切る。
いいえ、そもそも信用していないのだから裏切りにすらならない。
「レティシア様、先ほどお話しした共通の友人がやって来ますわ」
彼女は私の視線の先を辿って振り返ると、ふわっと嬉しそうに微笑む。
どうやらマールは辛うじて友人枠に入れているようだ。悔しがる姿を見れなくて惜しいと思う。
「マール先生、診察以外でお会いするのは初めてですね。なんか不思議な感じです」
「レティシア様、ここで会えるとは奇遇ですね。お招きいただき有り難うございます、ミネルバ様」
招待した覚えは……もちろんない。
「お忙しいのに足を運んでくださり、こちらこそ光栄ですわ。マール伯爵」
レティシアが振り返った瞬間、彼の殺気は消え失せた。その代わりに、笑みを浮かべて彼女を見る。
――それは作り笑いではなく、初めて目にする彼の本当の笑顔。
こんな顔で笑えるのね、あんな男でも。
そう思いながら鼻で笑っていると、彼は一瞬だけこちら見て不敵に笑う。
そうか、私もなのね……。
久しぶりにちゃんと笑っている自分に気がついた。彼女の価値は底知れないものがある。
レティシアを囲んで和んでいると、侍女がただならぬ様子で私のもとにやって来た。
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