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17.悪いお医者様②
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「誰をでしょうか?」
「レティシア様のことです。随分と失礼な呼び名ですが付けたのは私ではありません。ですが、一部の者は親しみを込めてそう呼んでいたんですよ。在学中、あなたは誰に対しても”君”という言い方はしなかったと聞いています」
聞けば、彼は兄やロイドと同学年だという。
初耳だと伝えると、彼らは覚えていなかったようなので、あえて言いませんでしたと告げてきた。知り合いだからと優遇されたくなかったらしい。普通ならコネを利用しようとするものが多いけれど、やはり彼は他の人とは違う。
「はい、当たり前のことですから。ですが、そんなふうに呼ばれていたのは知りませんでした」
「知って不快に思いましたか?」
私は答える前に、ふふと笑う。
「いいえ、ちっとも。マール先生がそう呼んだ時の声音がとても優しかったので、他の人達も同じだったのかなと、なんだか嬉しいです。知らぬ間に友人が増えて? 得した気分です」
「レティシア様らしい返事ですね」
彼は続けて、私のことを図書室で見かけたことがあると教えてくれた。学年が違ったので、直接話す機会はなかったそうだ。それを聞いてほっとした。兄達のように忘れていたら失礼過ぎるから。
「図書室では高位の者は当然のごとく良い場所を譲らせる。何も言わずに机のそばに来て、下位の者はそそくさと移動する。ですが、あなたは最初から空いている席に向かってましたね」
「早い者勝ちですから」
不文律のようなものがあるのは知っていた。でも、身分を笠に着るのは違うと思ったから普通にしていただけ。特別なことはしていない。
「そう思わない者が殆どでした。高位も下位も学園の色に染まっていきます。そのほうが楽ですから。あなただけは染まらなかった。私はあなたのことを存外知っているのですよ。その私が言います――あなたは悪くない」
彼はまっすぐに私の目を見て言う。
穏やかな口調なのに力強く感じる――人を安心させる声音。
悩みについては何も話していないのに、とても気が楽になっていた。……彼はとても不思議なお医者様だ。普通の医者とは全然違う。
「マール先生のお薬はよく効きますね」
「法外な診察料を取っていますので、それなりに。それと心苦しいのですが、更に上乗せをお願いしてもいいでしょうか?」
まさかまた要求されるとは思っていなかったので少し驚く。彼の顔は真剣そのものだったから、平民の診察に力を入れたいのかもしれない。助けて貰っているのだから、協力できることはしたい。
「私に払える金額でしたら……」
私が頷くと、彼は間髪を入れず言葉を発する。
「お金ではなく、肉体労働でお願いします」
「…………」
体力には自信がないのだけど大丈夫かしら?
まさかの要求でキョトンとする私に、彼は眉を八の字にして話し出す。
「この温室に来るまでに、たくさんの者達から叱られました。間を置かずに診察とは若奥様の負担を考えろと。藪医者、金の亡者とコソコソ囁いていましたね。温室までの道のりは針の筵でした。そうでないとみんなに伝えてくれませんか? ざっと二十人以上から言われたので大変な作業――まさしく肉体労働です」
「そんなに……」
「睨んでいただけの者も数えたらそれ以上です。レティシア様をお慕いしている者は多いですから。ほら、」
彼が指差した先には磨りガラス越しにたくさんの人影があった。
侍女に、庭師に、御者まで。あの帽子は……そう、料理長だわ。
普段はこの時間、ここにいるはずがない人達が不自然に行ったり来たりしている。
彼は独特な言い回しで、彼らの優しさを私に伝えてくれた。彼らに、そしてマールの気遣いに胸が熱くなる。
「そうだ、金の亡者は訂正しなくて構いません」
「誤解されたままでいいのですか? マール先生」
「本当のことですので。レティシア様に嘘を吐かせたと分かったらまた叱られます。それだけは勘弁です」
彼が口元を緩めて声を出さずに笑うと、私は声を上げて笑う。
南側に面した温室の窓は今日、開かれている。私の楽しげな声は外にも届いていることだろうから、きっと肉体労働は必要ないはず。
彼はどうしてこんなにも薬の処方が上手なんだろうか。これから待ち受けている困難を、私でも乗り越えられる気がしていた。
「レティシア様のことです。随分と失礼な呼び名ですが付けたのは私ではありません。ですが、一部の者は親しみを込めてそう呼んでいたんですよ。在学中、あなたは誰に対しても”君”という言い方はしなかったと聞いています」
聞けば、彼は兄やロイドと同学年だという。
初耳だと伝えると、彼らは覚えていなかったようなので、あえて言いませんでしたと告げてきた。知り合いだからと優遇されたくなかったらしい。普通ならコネを利用しようとするものが多いけれど、やはり彼は他の人とは違う。
「はい、当たり前のことですから。ですが、そんなふうに呼ばれていたのは知りませんでした」
「知って不快に思いましたか?」
私は答える前に、ふふと笑う。
「いいえ、ちっとも。マール先生がそう呼んだ時の声音がとても優しかったので、他の人達も同じだったのかなと、なんだか嬉しいです。知らぬ間に友人が増えて? 得した気分です」
「レティシア様らしい返事ですね」
彼は続けて、私のことを図書室で見かけたことがあると教えてくれた。学年が違ったので、直接話す機会はなかったそうだ。それを聞いてほっとした。兄達のように忘れていたら失礼過ぎるから。
「図書室では高位の者は当然のごとく良い場所を譲らせる。何も言わずに机のそばに来て、下位の者はそそくさと移動する。ですが、あなたは最初から空いている席に向かってましたね」
「早い者勝ちですから」
不文律のようなものがあるのは知っていた。でも、身分を笠に着るのは違うと思ったから普通にしていただけ。特別なことはしていない。
「そう思わない者が殆どでした。高位も下位も学園の色に染まっていきます。そのほうが楽ですから。あなただけは染まらなかった。私はあなたのことを存外知っているのですよ。その私が言います――あなたは悪くない」
彼はまっすぐに私の目を見て言う。
穏やかな口調なのに力強く感じる――人を安心させる声音。
悩みについては何も話していないのに、とても気が楽になっていた。……彼はとても不思議なお医者様だ。普通の医者とは全然違う。
「マール先生のお薬はよく効きますね」
「法外な診察料を取っていますので、それなりに。それと心苦しいのですが、更に上乗せをお願いしてもいいでしょうか?」
まさかまた要求されるとは思っていなかったので少し驚く。彼の顔は真剣そのものだったから、平民の診察に力を入れたいのかもしれない。助けて貰っているのだから、協力できることはしたい。
「私に払える金額でしたら……」
私が頷くと、彼は間髪を入れず言葉を発する。
「お金ではなく、肉体労働でお願いします」
「…………」
体力には自信がないのだけど大丈夫かしら?
まさかの要求でキョトンとする私に、彼は眉を八の字にして話し出す。
「この温室に来るまでに、たくさんの者達から叱られました。間を置かずに診察とは若奥様の負担を考えろと。藪医者、金の亡者とコソコソ囁いていましたね。温室までの道のりは針の筵でした。そうでないとみんなに伝えてくれませんか? ざっと二十人以上から言われたので大変な作業――まさしく肉体労働です」
「そんなに……」
「睨んでいただけの者も数えたらそれ以上です。レティシア様をお慕いしている者は多いですから。ほら、」
彼が指差した先には磨りガラス越しにたくさんの人影があった。
侍女に、庭師に、御者まで。あの帽子は……そう、料理長だわ。
普段はこの時間、ここにいるはずがない人達が不自然に行ったり来たりしている。
彼は独特な言い回しで、彼らの優しさを私に伝えてくれた。彼らに、そしてマールの気遣いに胸が熱くなる。
「そうだ、金の亡者は訂正しなくて構いません」
「誤解されたままでいいのですか? マール先生」
「本当のことですので。レティシア様に嘘を吐かせたと分かったらまた叱られます。それだけは勘弁です」
彼が口元を緩めて声を出さずに笑うと、私は声を上げて笑う。
南側に面した温室の窓は今日、開かれている。私の楽しげな声は外にも届いていることだろうから、きっと肉体労働は必要ないはず。
彼はどうしてこんなにも薬の処方が上手なんだろうか。これから待ち受けている困難を、私でも乗り越えられる気がしていた。
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