16 / 43
16.悪いお医者様①
しおりを挟む
ロイドが出発してまだ二日目。視察の予定は一週間だけれども、なにかあれば臨機応変に対応するので滞在が伸びることもある。
少しでも空いている時間があれば、温室に足を運びピアノを引いている。
音色で気を紛らわそうとしているけれど、やはり考えてしまう――何がいけなかったのかと。
視察の件がなくとも、彼とはいずれああなっていた気がする。私達の関係がこの先どうなるかは分からない。まずは彼が私と向き合ってくれないと何も始まらない。
だから、考えてしまうのは彼ではなく義母のこと。
彼女が未熟な私を歯痒く思っているのは知っていた。でも、憎まれていると感じたことはなかった。
なぜ、いつからと、そんな言葉ばかり頭に浮かんで鍵盤を叩く指が止まってしまう。
「はぁ……」
「どうしましたか? レティシア様」
声に驚き振り向くとここにいないはずの人――マールが立っていた。後ろのほうにメルアの姿が見える。彼女に案内されてここに来たのだろう。
「確か診察日は今日ではなかったはずでは?」
「ホグワル侯爵の定期健診で来ました。そうしたら、ついでにレティシア様も診るようにと頼まれましてお受けしました」
マールは申し訳無さそうな顔をして私を見ている。
診察は二週間毎の約束になっていたけれど、義父はまだ結果を出せない私がもどかしいのだろう。
私は窓際に置いてあるピアノから離れて、中央へと彼と一緒に歩いていく。テーブルの上にはすでにメルアが淹れたお茶が置かれていて、私達はそれぞれ椅子へと座る。
「ご予定があったのではないですか? 義父が無理を言って申し訳ございません」
「レティシア様が謝ることはありません。たまたま予定が空いていました。では、診察を始めますね」
「はい、よろしくお願いします」
短い診察を終えると、いつものように他愛もない話を始めた。でも、今日の私はどこか上の空になってしまい、会話に集中出来なかった。
「……なにが悪かったんでしょうか、私は……。あっ、申し訳ございません! 今の失言は忘れてください、マール先生」
無意識に呟いてしまい、私は慌ててしまう。
意味深なことを言っておきながら、話を終わらせるなんて失礼な振る舞いだ。でも、話すことは出来ない。
「レティシア様は悪くはありませんよ」
彼は何も聞かずに断言する。予想外の反応にどう言葉を返せばいいのか戸惑ってしまった。彼はそんな私に柔らかく笑い掛ける。
「今日、あなたの診察を頼まれた時、私はホグワル侯爵に法外な診察料を要求しました」
「……?」
いきなり話が変わって私が更に戸惑っていると、彼は口元を緩めて嬉しそうに両手を胸の前で広げて見せる。
「なんと、いつもの十倍です」
「……っ……」
我が家の使用人の一ヶ月分の給金に匹敵する額に、私は驚いて言葉が出なかった。
「次の予定をキャンセルすると言って、迷惑料という名目で毟り取りました。あっ、誤解しないでください。本当に予約は入っていなかったので、レティシア様が気に病むことはありませんから」
「はい……」
……気に病んではいません。ただ、この先どんな展開が続くのか気になっているだけです。
秘するべき裏事情をとても楽しそうに明かすマール。なんだか、こちらまでつられて頬が緩んでくるから不思議だ。 話している内容と場の雰囲気が全然合っていない。
次に彼は人差し指を唇の前で立ててみせる。
「これは内緒なのですが、実はこの手口は初めてではありません。隙あらばこうして取れるところから取っています。平民を診る良心的な医者ではなく、私は悪い医者なんですよ。計算して損をしないようにしている。幻滅しましたか? レティシア様」
「いいえ、そんなことありません! マール先生はご立派です」
診察料は医者が定めて良いことになっている。だから、彼がいくら請求しようと法に触れない。だが、この裏話を知ったら、貴族達は悪徳医者だと彼を罵るだろう。
私は信念を持ってやっている彼を尊敬する。手を差し伸べない理由を見つけるのは簡単だけど、実際に行動するのは大変なことだ。
診療には器具、薬、時間、人手がいる。先立つものが必要で、善行は善意だけでは成り立たない。
「そう言ってもらえて安心しました。あなたに嫌われたら堪えますから。見方、立場、考え方で、良くも悪くもなる。大体そういうものです。何を悩んでいるかは存じませんが、気に病むことはありません。私が知っているあなたは悪い人ではありません」
「お気遣いありがとうございます。ですが、先生は私のことをあまりご存じないですから……」
彼はお世辞を言っているわけじゃないと思う。
でも、私のことを知ったら告げる言葉は変わるかもしれない。彼との付き合いはまだ半年足らずで、私は次期侯爵夫人としての顔しか見せていないから。
そう思うと、素直に聞けない私がいた。
「”君じゃない人”と呼んでいました」
彼はまっすぐに私を見ながら、唐突にそう告げて来た。
少しでも空いている時間があれば、温室に足を運びピアノを引いている。
音色で気を紛らわそうとしているけれど、やはり考えてしまう――何がいけなかったのかと。
視察の件がなくとも、彼とはいずれああなっていた気がする。私達の関係がこの先どうなるかは分からない。まずは彼が私と向き合ってくれないと何も始まらない。
だから、考えてしまうのは彼ではなく義母のこと。
彼女が未熟な私を歯痒く思っているのは知っていた。でも、憎まれていると感じたことはなかった。
なぜ、いつからと、そんな言葉ばかり頭に浮かんで鍵盤を叩く指が止まってしまう。
「はぁ……」
「どうしましたか? レティシア様」
声に驚き振り向くとここにいないはずの人――マールが立っていた。後ろのほうにメルアの姿が見える。彼女に案内されてここに来たのだろう。
「確か診察日は今日ではなかったはずでは?」
「ホグワル侯爵の定期健診で来ました。そうしたら、ついでにレティシア様も診るようにと頼まれましてお受けしました」
マールは申し訳無さそうな顔をして私を見ている。
診察は二週間毎の約束になっていたけれど、義父はまだ結果を出せない私がもどかしいのだろう。
私は窓際に置いてあるピアノから離れて、中央へと彼と一緒に歩いていく。テーブルの上にはすでにメルアが淹れたお茶が置かれていて、私達はそれぞれ椅子へと座る。
「ご予定があったのではないですか? 義父が無理を言って申し訳ございません」
「レティシア様が謝ることはありません。たまたま予定が空いていました。では、診察を始めますね」
「はい、よろしくお願いします」
短い診察を終えると、いつものように他愛もない話を始めた。でも、今日の私はどこか上の空になってしまい、会話に集中出来なかった。
「……なにが悪かったんでしょうか、私は……。あっ、申し訳ございません! 今の失言は忘れてください、マール先生」
無意識に呟いてしまい、私は慌ててしまう。
意味深なことを言っておきながら、話を終わらせるなんて失礼な振る舞いだ。でも、話すことは出来ない。
「レティシア様は悪くはありませんよ」
彼は何も聞かずに断言する。予想外の反応にどう言葉を返せばいいのか戸惑ってしまった。彼はそんな私に柔らかく笑い掛ける。
「今日、あなたの診察を頼まれた時、私はホグワル侯爵に法外な診察料を要求しました」
「……?」
いきなり話が変わって私が更に戸惑っていると、彼は口元を緩めて嬉しそうに両手を胸の前で広げて見せる。
「なんと、いつもの十倍です」
「……っ……」
我が家の使用人の一ヶ月分の給金に匹敵する額に、私は驚いて言葉が出なかった。
「次の予定をキャンセルすると言って、迷惑料という名目で毟り取りました。あっ、誤解しないでください。本当に予約は入っていなかったので、レティシア様が気に病むことはありませんから」
「はい……」
……気に病んではいません。ただ、この先どんな展開が続くのか気になっているだけです。
秘するべき裏事情をとても楽しそうに明かすマール。なんだか、こちらまでつられて頬が緩んでくるから不思議だ。 話している内容と場の雰囲気が全然合っていない。
次に彼は人差し指を唇の前で立ててみせる。
「これは内緒なのですが、実はこの手口は初めてではありません。隙あらばこうして取れるところから取っています。平民を診る良心的な医者ではなく、私は悪い医者なんですよ。計算して損をしないようにしている。幻滅しましたか? レティシア様」
「いいえ、そんなことありません! マール先生はご立派です」
診察料は医者が定めて良いことになっている。だから、彼がいくら請求しようと法に触れない。だが、この裏話を知ったら、貴族達は悪徳医者だと彼を罵るだろう。
私は信念を持ってやっている彼を尊敬する。手を差し伸べない理由を見つけるのは簡単だけど、実際に行動するのは大変なことだ。
診療には器具、薬、時間、人手がいる。先立つものが必要で、善行は善意だけでは成り立たない。
「そう言ってもらえて安心しました。あなたに嫌われたら堪えますから。見方、立場、考え方で、良くも悪くもなる。大体そういうものです。何を悩んでいるかは存じませんが、気に病むことはありません。私が知っているあなたは悪い人ではありません」
「お気遣いありがとうございます。ですが、先生は私のことをあまりご存じないですから……」
彼はお世辞を言っているわけじゃないと思う。
でも、私のことを知ったら告げる言葉は変わるかもしれない。彼との付き合いはまだ半年足らずで、私は次期侯爵夫人としての顔しか見せていないから。
そう思うと、素直に聞けない私がいた。
「”君じゃない人”と呼んでいました」
彼はまっすぐに私を見ながら、唐突にそう告げて来た。
493
お気に入りに追加
2,936
あなたにおすすめの小説

【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

【本編完結】独りよがりの初恋でした
須木 水夏
恋愛
好きだった人。ずっと好きだった人。その人のそばに居たくて、そばに居るために頑張ってた。
それが全く意味の無いことだなんて、知らなかったから。
アンティーヌは図書館の本棚の影で聞いてしまう。大好きな人が他の人に囁く愛の言葉を。
#ほろ苦い初恋
#それぞれにハッピーエンド
特にざまぁなどはありません。
小さく淡い恋の、始まりと終わりを描きました。完結いたします。

貴方が側妃を望んだのです
cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。
「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。
誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。
※2022年6月12日。一部書き足しました。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
史実などに基づいたものではない事をご理解ください。
※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。
表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。
※更新していくうえでタグは幾つか増えます。
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

王命を忘れた恋
須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』
そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。
強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?
そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

【完結】元婚約者の次の婚約者は私の妹だそうです。ところでご存知ないでしょうが、妹は貴方の妹でもありますよ。
葉桜鹿乃
恋愛
あらぬ罪を着せられ婚約破棄を言い渡されたジュリア・スカーレット伯爵令嬢は、ある秘密を抱えていた。
それは、元婚約者モーガンが次の婚約者に望んだジュリアの妹マリアが、モーガンの実の妹でもある、という秘密だ。
本当ならば墓まで持っていくつもりだったが、ジュリアを婚約者にとモーガンの親友である第一王子フィリップが望んでくれた事で、ジュリアは真実を突きつける事を決める。
※エピローグにてひとまず完結ですが、疑問点があがっていた所や、具体的な姉妹に対する差など、サクサク読んでもらうのに削った所を(現在他作を書いているので不定期で)番外編で更新しますので、暫く連載中のままとさせていただきます。よろしくお願いします。
番外編に手が回らないため、一旦完結と致します。
(2021/02/07 02:00)
小説家になろう・カクヨムでも別名義にて連載を始めました。
恋愛及び全体1位ありがとうございます!
※感想の取り扱いについては近況ボードを参照ください。(10/27追記)

好きだと言ってくれたのに私は可愛くないんだそうです【完結】
須木 水夏
恋愛
大好きな幼なじみ兼婚約者の伯爵令息、ロミオは、メアリーナではない人と恋をする。
メアリーナの初恋は、叶うこと無く終わってしまった。傷ついたメアリーナはロメオとの婚約を解消し距離を置くが、彼の事で心に傷を負い忘れられずにいた。どうにかして彼を忘れる為にメアが頼ったのは、友人達に誘われた夜会。最初は遊びでも良いのじゃないの、と焚き付けられて。
(そうね、新しい恋を見つけましょう。その方が手っ取り早いわ。)
※ご都合主義です。変な法律出てきます。ふわっとしてます。
※ヒーローは変わってます。
※主人公は無意識でざまぁする系です。
※誤字脱字すみません。

裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる