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番外編
夫婦というもの⑭
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ウィルに大嫌い、って、言っちゃった……。
王城の部屋の窓から空を見上げる。分厚い雲に覆われて辺りは暗い。心細くなって俯くと、足先にぽつんと水滴が落ちた。
「やだ。私ったら泣いてばっかり」
笑って言うけれど、エミリーの目は簡単には誤魔化せない。それはそうよね。だって、ずっと一緒にいたんだもの。
「そろそろお帰りになってはいかがですか?もう十日になりますし、あちらでもご心配のことと思いますが」
「…………いいの!」
「姫さま」
気づかわし気な呼び声を無視するのは気が咎めて、言い訳のような言葉を続けた。
「お義母さまだって、お手紙をくださったもの。城でゆっくりと過ごしてウィルを懲らしめてやりなさい、って。それに…………」
言い淀んだ私に、エミリーはため息をついてみせた。
「分かりました。要するに、ウィリアム様にお迎えに来ていただきたいと、そういうことですね」
「………………」
図星を指されてまた俯いてしまう。でも今回は私、悪くないと思うの。その、ほんの少しだけ、ひどいことを言ってしまった自覚はあるけれど。
「だってウィルったら、私があんなに心配していたのにぜーんぶ無視していたのよ?そればかりか交流試合なんて受けて。意識のないウィルを見て、心臓が止まるかと思ったんだから!」
「……確かに、ウィリアム様は仕事中毒なところがおありですね。でも、本当にお忙しかったようですわ。第三騎士団の幹部二人が同時に負傷して、そちらを兼務しながら第一騎士団の運営をなさるとは。他の誰にもできないことだと皆が口々に言っていましたもの」
「…………分かっているわ。ウィルは完璧主義者だから、仕事の手を抜けないんだって」
私が城に戻ってからしばらくは浮かれていたお父さまも、五日を過ぎた辺りから少し心配そうに声をかけてくれるようになった。「ウィリアムに仕事を任せすぎて苦労をかけてしまったのが申し訳ない」って。すごく不本意そうな顔で、「お前も不満はあるだろうが、男には面子というものがある。立ててやりなさい」とまで言っていた。
お父さまの言うことは分からないでもない。お仕事が大変なのも、私が心配するからって手を抜いたりできないのも分かっている。分かっているけれど……。
コンコン、と扉を叩く音がした。エミリーが対応して、ちょっと驚いた顔をしている。何かあったのかしら。
「姫さま、お客様が来られたと先触れが」
「お客様?どなたなの?」
「それが、キングズレー公爵家から」
ドキっとした。
「お通しして!」
「ですが、」
「いいの。お通ししてちょうだい」
「……かしこまりました。では、応接室にご案内いたします」
…………応接室?ウィリアムなら居室に通してもらって構わないのに。ああでも急いで着替えて、髪も整えなくちゃ。そう考えると応接室でよかったのかもしれない。
「エミリー、着替えを手伝ってもらえる?」
少しでも早くウィリアムに会いたい。私の気持ちを察したのか、エミリーはにこりと微笑んだ。
「もちろんですとも。姫さま、さあこちらへ」
「義姉上」
「……ジェフリー」
いそいそと応接室へ向かった私を待っていたのは、ウィリアムの弟のジェフリーだった。
お義母さまとよく似た穏やかな顔立ちに、お義父さまやウィリアムと同じ銀色の髪。体格は二人に及ばないけれど、まだ私と同じ十六歳だから、これから体つきも変わっていくのだろう。
「参ったな。そんなあからさまにガッカリしないでくださいよ」
ハッとした。そんなに顔に出ていたかしら。
「ご、ごめんなさい!つい」
「ははっ。つい、って何ですか。酷いなあ」
笑うジェフリーに腰掛けるよう勧めてから、エミリーが淹れてくれたお茶を飲む。ん。やっぱりエミリーのお茶は美味しい。なかなかこの味が出せないのよね。
「突然お邪魔して申し訳ありません。城でゆっくりとお過ごしかと思いましたが……どうやらそうでもなさそうですね」
「どうしてそう見えるの?」
「失礼ながら、目の下のクマが隠しきれておりません」
「…………!!!!」
なんてこと!未だかつてこんなに明け透けに容姿を貶されたことは一度もない。確かに、ウィリアムのことを考えて眠れない日々を過ごしているから、クマができているのは知っていたけれど。
赤くなったり青くなったりする私を見て、ジェフリーはまたハハハと声を出して笑う。
「大丈夫です。もっと酷い状態の人が我が家にはおりますので。……ところで義姉上。そろそろお帰りになっていただけませんか?もう気が済んだのでは?」
そう言われて少しムッとした。気が済んだ、ってなに?私の我儘みたいな言い方をしないでほしい。
「嫌よ。だってこのまま戻ったら、ウィルはまた同じように無茶なことをするかもしれないんだもの」
ツンと横を向きながら言った。そうよ。いくら本当はウィリアムのことが大好きで、今すぐ会いたいと思っていても。
「それが些か薬が効きすぎたようなんですよね……」
「え?何て仰ったの?」
「いえ、何も。…………そうですか。では、義姉上はこのままガルバートスクエアにお戻りになる気はないと、そういうことでしょうか」
「それは……」
微塵も考えていないことを言われ、驚いてジェフリーを見た。真剣な顔で私を見ながらさらに続けて言う。
「義姉上のお心が兄から離れてしまったのであればやむを得ません。幸いお互いまだ若い。いくらでもやり直しはできますからね。兄はあの見目ですし、何と言っても筆頭公爵家の嫡男です。リングオーサでこれ以上の嫁ぎ先はなかなかありません。ましてや、結婚してから女性に対する態度が柔らかくなったともっぱらの噂のようです。義姉上ももちろん………失礼しました。王女殿下もこのお美しさだ。二人とも再婚相手には事欠かないでしょう」
では早速、と立ち上がったジェフリーが一礼して立ち去ろうとしたところで、驚きすぎて止まっていた思考が動きだした。
「待って!」
貴婦人らしからぬ素早さで立ち上がった私に、ジェフリーが向き直る。
「どうなさいました?」
「待ってちょうだい。私、離縁するなんて一言も言っていないわ」
「でも、お戻りになる気はないんでしょう?」
「…………だって、」
「はーん。さては、兄上の仕事のこととは別に、気になることがおありなんですね。……第三騎士団のグレンダ様のこと、ですか」
易々と言い当てられてカーッと顔が赤くなる。
「兄は義姉上に首ったけです。それこそ、義姉上の歩いた地面をも拝むでしょう。それでも浮気をしていると、そうお疑いなのですか?」
「そんなこと、ちっとも思っていないわ。でも……お仕事をグレンダ様が助けてくれている、って紹介されて……。私とはちっとも会えないのに、いつも一緒にお仕事してるのかと思うと何だかすごく胸がモヤモヤしたの」
思いがけず優しく聞かれて、心の奥に隠していた言葉が零れ落ちる。
「そんなこと言っちゃいけないと思って我慢していたときに、グレンダ様を庇って怪我をしたと聞いて。頭と胸の中がぐちゃぐちゃになって、とうとう爆発しちゃった………。ウィルに酷いことを言っちゃったわ。だから、合わせる顔がないの」
成程、と頷きながら聞いてくれたジェフリーは、いたずらっ子みたいな顔で笑った。
「義姉上、面白いものをお見せいたしましょう。きっとご満足いただけるとお約束いたします」
キラキラと輝く瞳で言われるのに、何だかジェフリーの後ろに悪魔の尻尾が見える気がして簡単に頷くことができない。私は思わずごくんと喉を鳴らした。
私はそわそわしながら扉の陰に身を潜めた。ここは、本邸にある私たちの寝室だ。ジェフリーが私に向かって「ここで隠れてお待ちください。絶対に姿を現してはいけませんよ」と言いおいて、どこかに行ってしまってしばらく経つ。
こんなところにいたら、そのうちウィルが帰ってきちゃうんじゃないかしら。そう思ってあちこち歩き回っていたとき、居間の扉が予告なく開かれた。
「一体何の用だ。あんなところまで迎えに来て。話があるなら執務室で話せばよかっただろう」
「僕のような若輩者が、兄上の職場でうろつくのは申し訳ないと思いまして。それに、もう仕事の山は越えたんですよね?それなのになぜお戻りにならないのですか?」
「…………」
「義姉上の不在に耐えられないから、ずっと泊まり込みで?」
ドサッと音がした。こっそり覗き込むと、寝室に背を向ける形で置かれている長椅子にウィリアムが座っている。久しぶりのウィリアムの姿に、後ろ姿でもドキドキしてじっと見つめてしまった。
「そんなになるのなら、なぜ迎えに行かないのです?きっと義姉上もお待ちですよ」
「…………お前に何がわかる」
低く唸るような声だけれど、何だか力がない。疲れているのかしら。でも、さっき仕事の山は越えたってジェフリーが言っていた。それならなぜ――?
「確かに僕には何も分かりません。ですので、今日城へ行って義姉上にお会いしてきました」
膝の上に肘をついて両手で抱えられていた頭が勢いよく上がる。
「…………っ、それで、」
「お元気そうでしたよ。少なくとも兄上よりはずっと。お帰りにならないのかお聞きしましたが『嫌だ』とはっきり仰っていました」
がっくりと項垂れる。はーっ……、と大きなため息をついてまた頭を抱えた。
「迎えに行けばいいではありませんか。何を躊躇っておいでなのです」
「…………会って、もらえないかもしれない」
泣きそうな声で言う言葉に驚いた。ウィルったら、そんなことを心配しているの?
「まさか!兄上はどうお考えか分かりませんが、義姉上は兄上にベタ惚れですよ。歓迎こそすれ会わずに追い返すなんてあり得ない!」
ジェフリー!扉の陰であたふたして顔を赤くした。いくら本当のことだからと言って、こんなにあっけらかんと言うものじゃないわ!
「…………」
「……そうですか。では仕方ありません。義姉上は私がもらいます」
「…………は?」
ウィリアムと私は、揃って同じようにぽかんとした顔をしていたはずだ。それくらい思いがけない言葉だった。
「いいでしょう?義姉上は戻らないと言う。兄上は迎えに行かないと言う。このまま時を過ごしてどうなるのですか。ましてや義姉上は王家の宝です。離縁して戻すようなことになれば、公爵家とてただでは済まないでしょう」
ジェフリーは唖然とするウィリアムの向かいに、落ち着き払って腰掛けた。
「その代わり、公爵位は私が継ぎます。義姉上の夫として恥ずかしくない身分を手に入れなければなりませんからね」
「ふざけるな!」
ジェフリーと入れ違いに立ち上がると、さっきまでの弱々しい声が嘘のような大声で怒鳴った。
「そんなこと、許すわけにはいかない!」
「許す?誰の許しが必要なんですか。兄上は、迎えに行かないことでその権利を放棄しました。後は義姉上が――いえ、レオノアが許しさえしたら問題はないはずです。両方ともいただきますよ、レオノアも、公爵位も」
「爵位などいくらでもくれてやる。だが、レオノアは、レオノアだけは………絶対に渡さない!」
「……へえ。そんなに大切なんですか、レオノアが?」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
「はいはい。義姉上、ですね。で、そんなに?」
「レオノアは俺の全てだ。それを奪うというのなら、俺を倒してからにしろ!」
ビリビリと窓が震える。「うわっ、兄上待ってください!」とジェフリーが焦っているけれど、ついには家具までガタガタ揺れだした。魔力を使ってる!
「ウィル!」
「……レオノア?どうしてここに……」
姿を現すなという注意も忘れて飛び出した。ウィリアムは驚いているけれど、私も心底びっくりして足が止まる。
ウィリアムのその顔――。頬はこけ、顔色は青白く唇はカサカサだ。髪の毛もどこか艶を失ってパサついて見える。
私がいないせいで、こんなにぼろぼろになったの?私に会いたいと、そう思ってくれていた?
両手で口を押えていないと泣いちゃいそう。立ち止まったままの私のところに、ウィリアムが風のような速さでやってきた。こわごわと手を伸ばしてくるからそれを捕まえて、そっと頬に押し当てる。……あたたかい。嬉しくなって頬を何度もこすりつけた。
「…………ッ、レオニー!」
きつく抱きしめられる。目と鼻の奥がツンと痛くなって、瞼の下に涙が溜まっているのが分かった。ウィリアムの背中に手をまわして抱きかえす。ウィル、ウィル……!
「ああよかった。これでようやく元の鞘に収まりましたね」
ぱちりと目を開けた。そ、そうだった。ジェフリーがまだ部屋に……!
恥ずかしさに顔が熱くなる。抱擁から逃れようともがいても、がっちり捉えられて抜け出せない。それに気づいたジェフリーから「どうぞ僕にお構いなく、そのままで結構ですよ」と言われたけれど、そんなこと言われたって恥ずかしさは無くならない。
「兄上も義姉上も、夫婦でありながらお互いに自分のいいところしか見せてませんでしたよね。思っていることはちゃんと言葉にして伝えないと。これから長い人生を一緒に過ごすんですから」
そのとおりだ。私が遠慮して言わなかった思いは、無くなった訳じゃなくて心の奥に溜まっていた。小さなそれがだんだん積み重なり、ついに噴出してしまったのだ。ジェフリーの含蓄のある言葉に感心していると、ウィリアムが冷ややかに言った。
「参謀は親父か」
「ばれましたか。父上からは、兄上が妻の前で格好をつけているから揺さぶってやれと」
「対価は」
「僕が一目惚れした、素晴らしい葦毛の馬を」
はーっとまた大きく息をついて、ウィリアムは疲れた声で言った。
「全く……お前と親父は本当にそっくりだよ」
王城の部屋の窓から空を見上げる。分厚い雲に覆われて辺りは暗い。心細くなって俯くと、足先にぽつんと水滴が落ちた。
「やだ。私ったら泣いてばっかり」
笑って言うけれど、エミリーの目は簡単には誤魔化せない。それはそうよね。だって、ずっと一緒にいたんだもの。
「そろそろお帰りになってはいかがですか?もう十日になりますし、あちらでもご心配のことと思いますが」
「…………いいの!」
「姫さま」
気づかわし気な呼び声を無視するのは気が咎めて、言い訳のような言葉を続けた。
「お義母さまだって、お手紙をくださったもの。城でゆっくりと過ごしてウィルを懲らしめてやりなさい、って。それに…………」
言い淀んだ私に、エミリーはため息をついてみせた。
「分かりました。要するに、ウィリアム様にお迎えに来ていただきたいと、そういうことですね」
「………………」
図星を指されてまた俯いてしまう。でも今回は私、悪くないと思うの。その、ほんの少しだけ、ひどいことを言ってしまった自覚はあるけれど。
「だってウィルったら、私があんなに心配していたのにぜーんぶ無視していたのよ?そればかりか交流試合なんて受けて。意識のないウィルを見て、心臓が止まるかと思ったんだから!」
「……確かに、ウィリアム様は仕事中毒なところがおありですね。でも、本当にお忙しかったようですわ。第三騎士団の幹部二人が同時に負傷して、そちらを兼務しながら第一騎士団の運営をなさるとは。他の誰にもできないことだと皆が口々に言っていましたもの」
「…………分かっているわ。ウィルは完璧主義者だから、仕事の手を抜けないんだって」
私が城に戻ってからしばらくは浮かれていたお父さまも、五日を過ぎた辺りから少し心配そうに声をかけてくれるようになった。「ウィリアムに仕事を任せすぎて苦労をかけてしまったのが申し訳ない」って。すごく不本意そうな顔で、「お前も不満はあるだろうが、男には面子というものがある。立ててやりなさい」とまで言っていた。
お父さまの言うことは分からないでもない。お仕事が大変なのも、私が心配するからって手を抜いたりできないのも分かっている。分かっているけれど……。
コンコン、と扉を叩く音がした。エミリーが対応して、ちょっと驚いた顔をしている。何かあったのかしら。
「姫さま、お客様が来られたと先触れが」
「お客様?どなたなの?」
「それが、キングズレー公爵家から」
ドキっとした。
「お通しして!」
「ですが、」
「いいの。お通ししてちょうだい」
「……かしこまりました。では、応接室にご案内いたします」
…………応接室?ウィリアムなら居室に通してもらって構わないのに。ああでも急いで着替えて、髪も整えなくちゃ。そう考えると応接室でよかったのかもしれない。
「エミリー、着替えを手伝ってもらえる?」
少しでも早くウィリアムに会いたい。私の気持ちを察したのか、エミリーはにこりと微笑んだ。
「もちろんですとも。姫さま、さあこちらへ」
「義姉上」
「……ジェフリー」
いそいそと応接室へ向かった私を待っていたのは、ウィリアムの弟のジェフリーだった。
お義母さまとよく似た穏やかな顔立ちに、お義父さまやウィリアムと同じ銀色の髪。体格は二人に及ばないけれど、まだ私と同じ十六歳だから、これから体つきも変わっていくのだろう。
「参ったな。そんなあからさまにガッカリしないでくださいよ」
ハッとした。そんなに顔に出ていたかしら。
「ご、ごめんなさい!つい」
「ははっ。つい、って何ですか。酷いなあ」
笑うジェフリーに腰掛けるよう勧めてから、エミリーが淹れてくれたお茶を飲む。ん。やっぱりエミリーのお茶は美味しい。なかなかこの味が出せないのよね。
「突然お邪魔して申し訳ありません。城でゆっくりとお過ごしかと思いましたが……どうやらそうでもなさそうですね」
「どうしてそう見えるの?」
「失礼ながら、目の下のクマが隠しきれておりません」
「…………!!!!」
なんてこと!未だかつてこんなに明け透けに容姿を貶されたことは一度もない。確かに、ウィリアムのことを考えて眠れない日々を過ごしているから、クマができているのは知っていたけれど。
赤くなったり青くなったりする私を見て、ジェフリーはまたハハハと声を出して笑う。
「大丈夫です。もっと酷い状態の人が我が家にはおりますので。……ところで義姉上。そろそろお帰りになっていただけませんか?もう気が済んだのでは?」
そう言われて少しムッとした。気が済んだ、ってなに?私の我儘みたいな言い方をしないでほしい。
「嫌よ。だってこのまま戻ったら、ウィルはまた同じように無茶なことをするかもしれないんだもの」
ツンと横を向きながら言った。そうよ。いくら本当はウィリアムのことが大好きで、今すぐ会いたいと思っていても。
「それが些か薬が効きすぎたようなんですよね……」
「え?何て仰ったの?」
「いえ、何も。…………そうですか。では、義姉上はこのままガルバートスクエアにお戻りになる気はないと、そういうことでしょうか」
「それは……」
微塵も考えていないことを言われ、驚いてジェフリーを見た。真剣な顔で私を見ながらさらに続けて言う。
「義姉上のお心が兄から離れてしまったのであればやむを得ません。幸いお互いまだ若い。いくらでもやり直しはできますからね。兄はあの見目ですし、何と言っても筆頭公爵家の嫡男です。リングオーサでこれ以上の嫁ぎ先はなかなかありません。ましてや、結婚してから女性に対する態度が柔らかくなったともっぱらの噂のようです。義姉上ももちろん………失礼しました。王女殿下もこのお美しさだ。二人とも再婚相手には事欠かないでしょう」
では早速、と立ち上がったジェフリーが一礼して立ち去ろうとしたところで、驚きすぎて止まっていた思考が動きだした。
「待って!」
貴婦人らしからぬ素早さで立ち上がった私に、ジェフリーが向き直る。
「どうなさいました?」
「待ってちょうだい。私、離縁するなんて一言も言っていないわ」
「でも、お戻りになる気はないんでしょう?」
「…………だって、」
「はーん。さては、兄上の仕事のこととは別に、気になることがおありなんですね。……第三騎士団のグレンダ様のこと、ですか」
易々と言い当てられてカーッと顔が赤くなる。
「兄は義姉上に首ったけです。それこそ、義姉上の歩いた地面をも拝むでしょう。それでも浮気をしていると、そうお疑いなのですか?」
「そんなこと、ちっとも思っていないわ。でも……お仕事をグレンダ様が助けてくれている、って紹介されて……。私とはちっとも会えないのに、いつも一緒にお仕事してるのかと思うと何だかすごく胸がモヤモヤしたの」
思いがけず優しく聞かれて、心の奥に隠していた言葉が零れ落ちる。
「そんなこと言っちゃいけないと思って我慢していたときに、グレンダ様を庇って怪我をしたと聞いて。頭と胸の中がぐちゃぐちゃになって、とうとう爆発しちゃった………。ウィルに酷いことを言っちゃったわ。だから、合わせる顔がないの」
成程、と頷きながら聞いてくれたジェフリーは、いたずらっ子みたいな顔で笑った。
「義姉上、面白いものをお見せいたしましょう。きっとご満足いただけるとお約束いたします」
キラキラと輝く瞳で言われるのに、何だかジェフリーの後ろに悪魔の尻尾が見える気がして簡単に頷くことができない。私は思わずごくんと喉を鳴らした。
私はそわそわしながら扉の陰に身を潜めた。ここは、本邸にある私たちの寝室だ。ジェフリーが私に向かって「ここで隠れてお待ちください。絶対に姿を現してはいけませんよ」と言いおいて、どこかに行ってしまってしばらく経つ。
こんなところにいたら、そのうちウィルが帰ってきちゃうんじゃないかしら。そう思ってあちこち歩き回っていたとき、居間の扉が予告なく開かれた。
「一体何の用だ。あんなところまで迎えに来て。話があるなら執務室で話せばよかっただろう」
「僕のような若輩者が、兄上の職場でうろつくのは申し訳ないと思いまして。それに、もう仕事の山は越えたんですよね?それなのになぜお戻りにならないのですか?」
「…………」
「義姉上の不在に耐えられないから、ずっと泊まり込みで?」
ドサッと音がした。こっそり覗き込むと、寝室に背を向ける形で置かれている長椅子にウィリアムが座っている。久しぶりのウィリアムの姿に、後ろ姿でもドキドキしてじっと見つめてしまった。
「そんなになるのなら、なぜ迎えに行かないのです?きっと義姉上もお待ちですよ」
「…………お前に何がわかる」
低く唸るような声だけれど、何だか力がない。疲れているのかしら。でも、さっき仕事の山は越えたってジェフリーが言っていた。それならなぜ――?
「確かに僕には何も分かりません。ですので、今日城へ行って義姉上にお会いしてきました」
膝の上に肘をついて両手で抱えられていた頭が勢いよく上がる。
「…………っ、それで、」
「お元気そうでしたよ。少なくとも兄上よりはずっと。お帰りにならないのかお聞きしましたが『嫌だ』とはっきり仰っていました」
がっくりと項垂れる。はーっ……、と大きなため息をついてまた頭を抱えた。
「迎えに行けばいいではありませんか。何を躊躇っておいでなのです」
「…………会って、もらえないかもしれない」
泣きそうな声で言う言葉に驚いた。ウィルったら、そんなことを心配しているの?
「まさか!兄上はどうお考えか分かりませんが、義姉上は兄上にベタ惚れですよ。歓迎こそすれ会わずに追い返すなんてあり得ない!」
ジェフリー!扉の陰であたふたして顔を赤くした。いくら本当のことだからと言って、こんなにあっけらかんと言うものじゃないわ!
「…………」
「……そうですか。では仕方ありません。義姉上は私がもらいます」
「…………は?」
ウィリアムと私は、揃って同じようにぽかんとした顔をしていたはずだ。それくらい思いがけない言葉だった。
「いいでしょう?義姉上は戻らないと言う。兄上は迎えに行かないと言う。このまま時を過ごしてどうなるのですか。ましてや義姉上は王家の宝です。離縁して戻すようなことになれば、公爵家とてただでは済まないでしょう」
ジェフリーは唖然とするウィリアムの向かいに、落ち着き払って腰掛けた。
「その代わり、公爵位は私が継ぎます。義姉上の夫として恥ずかしくない身分を手に入れなければなりませんからね」
「ふざけるな!」
ジェフリーと入れ違いに立ち上がると、さっきまでの弱々しい声が嘘のような大声で怒鳴った。
「そんなこと、許すわけにはいかない!」
「許す?誰の許しが必要なんですか。兄上は、迎えに行かないことでその権利を放棄しました。後は義姉上が――いえ、レオノアが許しさえしたら問題はないはずです。両方ともいただきますよ、レオノアも、公爵位も」
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「……へえ。そんなに大切なんですか、レオノアが?」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
「はいはい。義姉上、ですね。で、そんなに?」
「レオノアは俺の全てだ。それを奪うというのなら、俺を倒してからにしろ!」
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「ウィル!」
「……レオノア?どうしてここに……」
姿を現すなという注意も忘れて飛び出した。ウィリアムは驚いているけれど、私も心底びっくりして足が止まる。
ウィリアムのその顔――。頬はこけ、顔色は青白く唇はカサカサだ。髪の毛もどこか艶を失ってパサついて見える。
私がいないせいで、こんなにぼろぼろになったの?私に会いたいと、そう思ってくれていた?
両手で口を押えていないと泣いちゃいそう。立ち止まったままの私のところに、ウィリアムが風のような速さでやってきた。こわごわと手を伸ばしてくるからそれを捕まえて、そっと頬に押し当てる。……あたたかい。嬉しくなって頬を何度もこすりつけた。
「…………ッ、レオニー!」
きつく抱きしめられる。目と鼻の奥がツンと痛くなって、瞼の下に涙が溜まっているのが分かった。ウィリアムの背中に手をまわして抱きかえす。ウィル、ウィル……!
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恥ずかしさに顔が熱くなる。抱擁から逃れようともがいても、がっちり捉えられて抜け出せない。それに気づいたジェフリーから「どうぞ僕にお構いなく、そのままで結構ですよ」と言われたけれど、そんなこと言われたって恥ずかしさは無くならない。
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そのとおりだ。私が遠慮して言わなかった思いは、無くなった訳じゃなくて心の奥に溜まっていた。小さなそれがだんだん積み重なり、ついに噴出してしまったのだ。ジェフリーの含蓄のある言葉に感心していると、ウィリアムが冷ややかに言った。
「参謀は親父か」
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はーっとまた大きく息をついて、ウィリアムは疲れた声で言った。
「全く……お前と親父は本当にそっくりだよ」
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