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32. 許嫁の王太子

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「エド兄さまみて!木の葉が赤くなってすごく綺麗!」
「この辺りは標高が高いからね。ほら見てごらん、あっちも」
「ほんとう!すごいわ!」

レオノアが車窓から見える木々の色づきにはしゃいでいる。それを見て楽しんでいたエドワードは、自分の顎の下にある小さな後頭部が何て可愛らしいんだろうと、そう思っていた。

「エミリーも!ね?すごいでしょう?」
「素晴らしいですね。リングオーサくにではなかなか見られない景色ですわ」

エミリーはレオノア側の窓に近寄ると、入り込む冷気を感じて自席に戻り、準備していた暖かな布をレオノアの膝にかけた。

「ありがとう」

花のような笑顔。どんな頑なな人の心でも容易く融かすような。エドワードはこの一瞬一瞬がどれだけかけがえないものかを、自分の望む以上によく理解していた。

「レオノア、寒くない?」
「ええ、大丈夫よ。兄さまは?」
「僕は大丈夫だ。……こっちにおいで」

肩を抱き寄せる。素直に身を任せてきた体温と重み、そして柔らかなその肌から香る匂い。身の内に潜む雄がうごめく。

「……肩にもかけておこうか。せっかく元気になったのに、風邪をひいては大変だからね」
「兄さまも一緒に。……ふふっ。あったかい……」

ふわ……と、布の内側からあおられた空気が上がって鼻孔をくすぐる。その甘い香りを胸の奥まで吸い込んだ。

自分がレオノアの…………神話の王女の婚約者の生まれ変わりだと気づいたのはいつだったか。
母の腕に抱かれたレオノアを初めて見た時。開かれた瞼の下の、あの鮮やかな緑の瞳を見た時。レオノアが僕に向かって微笑んだ時…………。

いや。奇跡のように誕生したレオノアをこんなに愛しく思うのは妹だからだと、ずっとそう思っていた。その愛くるしさ。誰とも比較することなど出来はしない、唯一無二の存在。
自分についた護衛に向かい、妹というのはこんなに可愛いものなのかと、つくづく話したことがある。下級貴族の次男だったその男は驚いた顔をした。恐れながら、私の妹は生意気で全く可愛げなどございません。しかしながらレオノア殿下であれば、そのように思われるのも無理からぬことでございましょうと。それもそうか。納得して言葉を飲んだ。やはり僕のレオノアは特別だ。一人で悦に入る。

神話の王女であると頭で知る前に、自分が王女の許嫁だったと気づく前に、心が分かっていた。自分の手で愛し庇護すべき対象だということが。叶うなら誰にも触れさせることなく、永遠にこの手の中で。

狭い箱庭の中の暮らし。父と母がいて、自分とフィル、そしてレオノア。それだけで完璧だった。ずっと続くと思っていたのに、それを破る異物の存在がエドワードを苛立たせる。

「父上!私は反対です。レオノアはまだ3つなのですよ。あのように幼い子に、なぜ公爵家の子息との面会が必要なのですか!」
「………エドワード。お前の考えは尋ねていない。これは父としてではなく、王として決めたことだ」

11歳のエドワードは唇を噛んで黙るしかなかった。第一王子だ、王太子だともてはやされ、常に次期国王としての振る舞いを強いられている。懸命に帝王学を学んでいる自分が滑稽に思えた。王として決めたこと?これほど嫌だと言っているのに一顧だにされないなんて、自分の存在とは一体何なのか。虚しさを感じた。

果たして、嫌な予感は当たった。レオノアはすっかり公爵家の跡取りに心を許し、懐いている。ウィリアム・マグナス・キングズレー。エドワードよりも一つ年下で、黒い髪と計り知れない魔力の持ち主。あんな奴に会うなと、何度喉元まで出かかったか。しかし父がそれを許している以上阻むことはできなかった。

忌々しい。その姿が目に入る度に衝動がこみ上げる。叩きのめしてやりたい。自分とレオノアの前に二度と姿を見せるなと、そう言えたらどんなに爽快だろうか。黒い想像を詳細に思い描き、頭の中で何度も繰り返した。

やがてレオノアは成長し、あの男と会うこともなくなった。ああ!ようやく分かってくれたのか。どこか寂し気な様子には気づかないふりをする。僕と一緒に居ればいい。どんなことからも守ってあげるから。

「……兄さま?」

優しい呼び声に数度瞬いてから目線を墜とす。

「……どうした?」
「ううん。なんでもないけれど……何だかちょっと……」
「なに?変な顔をしていた?」
「変な顔なんてしていないわ。ただ……」
「うん?」
「………寂しそうだったから」

胸を突かれた。エドワードを見上げるその瞳。あの祝勝会から――ウィリアムがレオノアの降嫁を申し出た日から――何度も夢で見た、過去世の記憶が交差する。一緒に庭を散歩し、お気に入りの花を見せてくれた。頬を染めながら説明してくれた言葉なんて、ろくに耳には入らない。だって君の横顔があんまり綺麗だったから。拗ねたように尖らせた口にサッと唇を重ねた。ほんの一瞬の、かすめるようなキス。あの時のかぐわしい吐息をまざまざと思い出した。

「…………おいで」

抱きしめてつむじに口づける。ウィリアムが反魂の術を使うと言ったとき、エドワードに自分の命を惜しむ気持ちは全く無かった。あの場で口にした言葉に嘘はない。だがそれを断られ、ほんの僅か心を過った思いがある。あの男が死んで、レオノアが蘇れば。そうすれば僕は――。

「兄さま、見て」

エドワードの手を握っていたレオノアが、掛けていた布の下から二人の手を出した。

「ねえ、そっくりでしょ?」

目をやれば、手を並べて前にかざしている。

「エド兄さまと私の指の形。ほら、爪も。フィル兄さまの手は父さまに似て、ちょっとゴツゴツしているのに」

すんなりと細い指に、形の良い爪。確かに似ている。

「お二人とも、よく似ておいでですよ」

エミリーの言葉は、手の形のことを指しているのではなかった。

「そう?髪色も、目の色も違うのに」
「いえ、全体的なお顔の雰囲気ですとか、佇まいがとてもよく似てらっしゃいます」
「ふふ。嬉しい」

エドワードの腕の中にすっぽり収まりながら、兄と似ていると言われたことを喜んで、可愛らしく微笑むレオノア。
胸の痛みとともに言い聞かせる。レオノアが矢で射られ、命を失ったあの時に思い知らされた。前世での王女の最期と同じことが起きて、自分に一体何ができたのか。何も変わっていない。ただ、茫然と立ち尽くしていただけだ。それに引きかえあの男は、いつ、どんなことが起ころうともレオノアを救うために――前世と同じことを繰り返さずに済むように、それこそ血反吐を吐く思いで努力してきたに違いない。王太子へ強いられた帝王学など児戯に等しいほど。エドワードはもう一度レオノアを強く抱きしめた。

「ああ………寂しいな」
「………どうして?」
「だってそうだろう?戻ればレオノアは………嫁いでいってしまう。寂しいに決まってるよ」
「わたし、兄さまに会いに来るわ。また来たのかって言われちゃうくらい」
「…………いや、いいんだ。君には君の人生がある。まずそれを大切にして」

精一杯の強がりだ。もう一度つむじに口づけ、頭に頬を押し当てた。僕のお姫さま。ずっと、永遠にたった一人だけの。









馬車がようやく止まった。今夜中に国境を超えることも考えていたが、レオノアの体調を考え、国境近くの領主の館に宿泊することになっている。

レオノアは疲れていたのだろう。すっかり眠り込んでいた。両腕で抱き上げてからエミリーに目配せし、寒くないよう布でくるんだ。身を屈めながら馬車の扉をくぐり外へ出ると、ぴたりとついてきていたもう一台の馬車が馬のいななきとともに止まった。

思わず笑いが漏れる。あの狭い空間に男三人。しかも、ナジェンラを発つ前に煽ったおかげでさぞ空気が悪かっただろう。その証拠に、降り立ったウィリアムは苛立ちと焦燥を全身から立ち上らせている。その後ろからは疲れ切った顔の二人が続いた。オスカーなどは疲労困憊といった様子だ。

荒々しく歩み寄ったウィリアムは、安らかに眠るレオノアを見てほんの僅か瞳に温かさを宿らせた後、また厳しい顔つきでエドワードを睨みつけた。その、余りの余裕の無さがおかしくてたまらない。笑顔になったエドワードにウィリアムは怒りを募らせ、フィリップとオスカーは顔を青ざめさせている。

「僕の代わりにレオノアを守ってくれ」

ウィリアムが口を開く前に言った。

「お前以外には託せない。レオノアを慰め、愛してやってくれ」

驚いた顔のウィリアムにレオノアを差し出す。優しい仕草で受け取りながら、真意を探るように見ているウィリアムへ言葉をつづけた。

「たとえ僕が居たとしても、この世で最もレオノアを大切にしてくれるのはお前だ。頼んだぞ。泣かせたりしたら承知しない」

あの遺言のような言葉をそっくりそのまま返し、さらに付け加えた。最後の嫌がらせも成功した。後は………ただ願うだけだ。レオノアの幸せを、兄として。

腕の力が強まったのか、茫然とした様子のウィリアムに抱かれていたレオノアが目を覚ました。

「…………ん………兄さま?……」
「どうした?もう着いたよ。夕食の支度が整うまで、もうしばらくお休み」

前髪を触りながら囁くと、小さく返答してウィリアムの胸に顔をすり寄せた。それを見下ろしていた二人は、もう一度視線を合わせる。

「…………命に代えましても」

レオノアを抱いていなければ、騎士の礼をとっていただろう。頭を下げたウィリアムを促し、館へと歩を進める。腕の中が物足りなく寒い。はあ、と息をつくと、フィリップがぐいと肩に腕を回してきた。何だよ、と言っても離れていかない。ほんの少し笑い、磨かれた靴先を見ながら思う。それでも、人生は続いていくと。
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