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25. 神の声は聞こえたでしょうか②
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お願い、お願い、誰も傷つかないで……!
必死の祈りにも関わらず、馬車の外で争う声と剣を合わせる高い音が聞こえる。うめき声とドサッという何か重たいものが落ちる音。
……ううん。ものじゃない、人だわ……!
馬車はすごいスピードで走っている。フレディ様と先生は何も言わず、窓の外を見ていた。
白い塔のある森の手前で、フレディ様の話していた家が遠くに小さく見えた。もう少し、と思ったところで先生が舌打ちする。と、同時に馬が大きくいななき馬車が止まった。
緊張感が漂う。ごく、と喉を鳴らした時、音を立てて扉が開いた。
「フレデリック・ホルス・ブラックウッドはいるか」
空気がチリッとした。ブラックウッドはフレディ様の養父の名前で、ナジェンラの王となることが決まっているフレディ様をその名で呼ぶのはとても失礼なことだ。わざと怒りを引き出そうとしている。顔を隠すために頭から被せられた白いケープのフードの下からチラリと二人を窺うと、無表情を保っている。私も平静を保たなければ。震えを押さえつけ、フードの影から扉の所に立つ男を見た。
長めの赤毛を乱し、胸元には鎖帷子をつけている。いかにも軍人のいで立ち。年齢は先生より下だろう。壮年に差し掛かるよりも前といったところ。全体的にうす汚れた、崩れた感じの男だった。
「ああ失礼。フレデリック・ホルス・アイザック三世陛下、でしたか。養父を見捨て、自分だけがリングオーサへ逃れて王権の復活を狙った汚い国王陛下」
嘲る口調で言って、ふさぐように立っていた扉から身を引いた。
「さあ、あなたに用がある。来てもらおう」
フレディ様は外に出て、ようやく口を開いた。
「中の二人は関係ない。解放してくれ」
「陛下を大人しくするのに必要なら、一緒に来てもらおうと思っていたんですがね」
「何が目的なんだ」
「……陛下はリングオーサの王太子と仲がいいって聞いてね。ちょっと口を利いて欲しいんですよ」
「私にそんな力はない」
「ハッ!そのおかげでお前は王になれたんだろう?」
外に複数の人間の気配。スカートをギュッと握る。
「……まあいい。傷つけたりはするなよ。大事な交渉材料だ。おい、お前たちも降りろ」
ドクン、と心臓が強く打った。先に先生が降り、次に私だ。フレディ様の足に鎖がかけられているのが見えた。多分手にも。縄などではない。囚人を拘束するためのものだ。あれをかけられてしまったら逃げられない。
「でかいなこいつは……。やっぱり無理か。じゃあ先に」
先生にかけようとした手枷の金具が小さかったようで、赤毛の男は私に向き直るとおや、というように眉を上げた。
「おい、こいつは……」
「やめろ、触るな!」
フレディ様の声とともに、私の被っていたフードが外された。男たちは一斉に息をのむ。私は素早く人数を数えた。見えているだけで7人。私の前には赤毛の男と、もう一人小柄で茶色い髪の若い男がいた。金具を手に持ちぽかんと口を開けて私を見ている。
「こいつはすげえ……とんでもない上玉だ」
「やめろ、触るな!お前たちが触れて良いような方じゃないんだ!」
「そんなこと言われりゃ尚更触りたくなるじゃねえか。まあでもちょっと……こわいくらいの別嬪だな。おい、手枷をかけろ」
若い男がハッとして、私の両手に金具をかけた。
「悪いな。あんたのことをどうするかは後で決めさせてもらうが……この肌。裸に剥いたらさぞや……」
手の甲で頬を撫でられてゾッとする。ウィリアムに抱かれた私は、この男が何を言っているのかが良く分かった。悲鳴を上げそうになるのを懸命に堪える。と、その時。
「グ……ッ」
「ガァっ……」
私の周囲で風が舞った。何が起こったのかと瞬く私の隣で先生が素早く動く。赤毛の男の腰にあった剣を抜き取りながら回し蹴りで倒し、若い男の腹を剣の柄で打つ。それを見て残りの男たちも切りかかってくる。先生は私を背にかばいながら男たちを蹴り、剣でいなした。
「行け、逃げろ!」
フレディ様が叫ぶ。先生も小声で「小屋に向かって走って。必ず後から行きます」と言った。
ガクガクする足で必死に駆け出す。背後から「追いかけろ!」と声が聞こえ、すぐにまた殴打の音が響いた。フレディ様、先生、ごめんなさい。サー・アントニー、お願いですから家に居て!
走る。走る。息が苦しい。森の中に入った。足元が途端に悪くなる。ゴツゴツする木の根とふわふわする落ち葉が交互に足に触れる。走る。走る。両手首を鎖で繋がれているから走りづらい。喉が焼けそう。走る。泣いている場合じゃないのに涙で視界が曇った。
「あ!」
転んだ時に靴が脱げた。後ろを振り返るのが怖くて、立ち上がるとそのまま走り出す。足が痛い。心臓が破けそう。まだ、まだサー・アントニーの家には辿りつかない……!
「あぅっ!」
「ハーッ、ハーッ……全く、手間かけさせやがって…」
赤毛の男が肩で息をしながら私の髪を掴み、捻り上げた。痛みで首が動かせない。と、ウエストに手をまわされてグイッと引き寄せられた。
「いヤっ!」
「大人しくしろ!痛い目に遭わされたくないだろう。おい、暴れるな!」
拘束されたままの手を振り回し足をバタつかせる。大人しくなどしていられない。
「はなして!いやぁっ!」
「だから大人しくしろって…お前、ほんとに綺麗だな…すげえいい匂いする…」
髪を掴んでいた手を放し、後ろから両腕で強く抱かれた。全身に鳥肌が立つ。
「いや、いやッ!やめて、はなして!」
「そんな嫌がらなくてもいいじゃないか。気持ちよくしてやるから……ほら」
左胸をギュッと掴まれた。涙が溢れる。ウィル、ウィル、助けて!
「だめぇ、いやーっ!はなしてお願い!」
「……女に無理やりとか、考えたことなかったのに結構そそるな。おい、お前のそれ逆効果だぞ。もっと泣かせたくなる」
スカートの上から太もももの間に手を差し込まれた。いや、いや!
「ウィル!助けて!」
叫ぶと同時にガスッと音がして、押さえつけていた腕の力が緩んだ。泣きながら地面を這って進み後ろを振り返ると、剣を片手に傷だらけの先生が立っていた。
「大丈夫ですか?」
血のついた手を差し出しながら掛けられた言葉に、答えることもできない。嗚咽する私の頭をなで「よかった」と言うと、頭から血を流して倒れている赤毛の男を力いっぱい蹴った。思わず目を閉じた私の耳には、呻き声ひとつ聞こえない。
「しばらくは起き上がれないでしょう」
薄目を開けた私に、苦笑しながら先生が「……もう、人を殺めることはしないと決めたのです」と言い、腰が抜けてしまった私を抱き上げ歩き始めた。ぐったりと寄りかかる。
「サー・アントニーの家に行きましょう。すぐそこです」
ゆらゆら揺られながら鼻をすする。
「先生、ありがとう。……フレディ様は」
「無事ですよ。離れてついていた護衛が一人いたのです。私がほとんど叩きのめした後にやってきましたがね。フレデリック様のことは任せてきましたから、安心してください」
「よかった……」
止めどなく涙がこぼれた。先生は黙って私を泣かせてくれる。でも。
「どうしました?」
泣き顔とは違う、眉を下げた変な顔の私に先生が尋ねた。
「私、昨日から泣いてばっかり。……しかも、いつも先生の服をハンカチ替わりに」
「……」
先生もようやく頬を緩めた。殴られた跡とあちこち血がついた顔だけどちっとも怖くない。私は多分、目と鼻が真っ赤でみっともない顔をしていることだろう。それでも二人して、こうして無事でいられることに心の底から感謝した。
「サー・アントニー!いらっしゃいませんか?」
私を抱きかかえたまま扉を叩き大きな声で呼ぶ。
「居ないようですね……。窓を割って入るか」
「その必要がありますか?ここで待っていても……」
「いや。賊がどうなったか確認する前に殿下を追ってきたのです。万が一のことがあってはいけません。私が窓を割りますから、ほんの少しだけここで待っていてください」
先生はそう言って、玄関のすぐ横にある木の下に私を座らせた。
「……レオノア殿下、それは」
視線を辿ると私の手枷のところ。走ったり暴れたりで擦れたらしく、痣のように赤くなりところどころ血が滲んでいた。
「大丈夫です。走るときにこすっちゃったみたい」
「しかし、足も」
「……転んで靴が脱げてしまったから……」
足の裏からも血が出ている。自覚したとたん痛みを感じた。
「申し訳ありません。こんな……誰よりも大切にしなければならない方なのに」
「先生。誰よりも、なんてそんな。私は王女だけどただの人です。それをナジェンラに来て学びました。一人一人それぞれに、一番大切な人がいることも。……だから、大丈夫。ただのかすり傷です」
先生は驚いた顔をした後、顔をクシャッとさせた。笑いたいような、泣きたいような顔。そして立ち上がりながら私の手首が痛まないよう二の腕をそっと掴んだ。
「後で手当てをしましょう。手枷の鍵が見つかるといいのですが」
「はい。ちゃんとここで待ってますから、後で一緒に」
探しましょう、と言いかけた時にキィー……ン、と空気が鳴った。あまりにも甲高いその音に肩を竦める。と同時に声が聞こえた。誰よりも何よりも聞きたかった声。
「レオノア!!!!」
ウィリアムがそこに立っていた。あの白い塔のすぐ下。後ろにも何人か。……エドワードお兄さまと、フィリップお兄さま?
「ウィル!」
すぐに駆け寄って抱きしめてくれると信じて名前を呼ぶ。それなのに……何?怖い顔してる……。
「レオノアを放せ」
低い声でウィリアムが言った。何?何で?
「レオノアから離れろ!!」
エドワードお兄さままで。フィリップお兄さまはフラフラしながら立ち上がり、頭をブルブル振っている。
なぜ?二人とも何を言っているの?
私は先生を見上げた。すると、穏やかな瞳に理解の色を浮かべた先生は、小さな声ですみません、と言った。
「近寄るな!」
先生が大声で叫び、私に剣を向けた。同時にウィリアムたちから炎のように怒りと殺気が立ち上る。
「……レオノアに剣を向けるなど………」
エドワードお兄さまが吐き捨てるように言った。違う、違うエド兄さま!私は首を振るばかりで言葉が出せない。ここにいるのは先生なの。私のことを、命をかけて守ってくれた。娘と同じ歳だと。抱きしめていいかと。違うの兄さま!
「何が望みなんだ」
唯一冷静な顔のフィリップお兄さまが訊く。ウィリアムは今にも先生を殺してやろうという目で、でも私が側にいるからそれができないと、きっとそう思っている。
「お前たちの国は、常に自分たちのことしか考えていない。自分たちだけが平和で、富み、幸せに暮らせばいいと、そう思っている。だから私たちが攻め込まれ大勢の人が死んでも、何一つしようとしなかった!」
「何を言う!」
言い返したのはエドワードお兄さまだ。
「ナジェンラが言い出したことだ。リングオーサのように富み、強い軍を持っている国と下手に軍事協力してしまえばいつ侵攻されるか分からん、交易のみに止めると」
「そのような理屈、我々市民が納得できると思うか!お前たちが力を貸してくれさえしていたら……それなら、私の娘はあのような無残な姿で死ぬことはなかったのだ!」
先生は泣いていた。今になってようやく私は気づく。剣を片手に持ち血に塗れ傷だらけの先生が、泣きはらした顔の、手枷をつけた私の二の腕を持っている。その姿がウィリアムたちにどう映った?そして、先生の心の傷。すみません、というさっきの言葉。私に剣を向けた理由。先生は言っていた。
『努力をしても、その人が心のどこかで救われたくないと思っていたのなら、神はその人を救わないということです』
『最も憎むべきは私自身なのですから』
『……もう、人を殺めることはしないと決めたのです』
先生は死のうとしている……?自分で自分を殺すことはできないから、誰かに殺されることを願っているの?
「ウィル!違うの、先生は悪くない、私を助けてくれた!」
「……レオニー。じっとして」
ウィリアムが近づくと、同じだけ先生も下がっていく。私の二の腕を掴んでいた先生の手が離れた。
「だめ!だめなのウィル!先生を傷つけないで!わざとなの。死のうとしているのよ!」
ウィリアムはもう何も言わない。私の左前に立ち、ゆっくりと右手を上げた。魔術を使う気だ!私の右前に立つ先生は剣を下ろし、どこかホッとしたような顔をしている。
私はもう一度叫ぼうとして立ち上がった。それを見つけたのは全くの偶然。低い位置から立ち上がるその動作で見つけた、遠くの藪の中に潜むもの。
「団長!それ違います!!別のやつです!!!」
全てがひどくゆっくりに思えた。ウィリアムの前に飛び出す。時間がゆっくり流れる。ウィルの黒髪が風になびいてとてもきれい。マントも。いつもと同じように素敵だけれど、何だかちょっと疲れているみたい。飛び出した私に驚く顔のウィル。かわいらしくて笑ってしまった。
「レオノア!!!」
感じたのは衝撃と熱。痛みはない。ゆっくりと下を向くと、弓矢が胸を貫いていた。
必死の祈りにも関わらず、馬車の外で争う声と剣を合わせる高い音が聞こえる。うめき声とドサッという何か重たいものが落ちる音。
……ううん。ものじゃない、人だわ……!
馬車はすごいスピードで走っている。フレディ様と先生は何も言わず、窓の外を見ていた。
白い塔のある森の手前で、フレディ様の話していた家が遠くに小さく見えた。もう少し、と思ったところで先生が舌打ちする。と、同時に馬が大きくいななき馬車が止まった。
緊張感が漂う。ごく、と喉を鳴らした時、音を立てて扉が開いた。
「フレデリック・ホルス・ブラックウッドはいるか」
空気がチリッとした。ブラックウッドはフレディ様の養父の名前で、ナジェンラの王となることが決まっているフレディ様をその名で呼ぶのはとても失礼なことだ。わざと怒りを引き出そうとしている。顔を隠すために頭から被せられた白いケープのフードの下からチラリと二人を窺うと、無表情を保っている。私も平静を保たなければ。震えを押さえつけ、フードの影から扉の所に立つ男を見た。
長めの赤毛を乱し、胸元には鎖帷子をつけている。いかにも軍人のいで立ち。年齢は先生より下だろう。壮年に差し掛かるよりも前といったところ。全体的にうす汚れた、崩れた感じの男だった。
「ああ失礼。フレデリック・ホルス・アイザック三世陛下、でしたか。養父を見捨て、自分だけがリングオーサへ逃れて王権の復活を狙った汚い国王陛下」
嘲る口調で言って、ふさぐように立っていた扉から身を引いた。
「さあ、あなたに用がある。来てもらおう」
フレディ様は外に出て、ようやく口を開いた。
「中の二人は関係ない。解放してくれ」
「陛下を大人しくするのに必要なら、一緒に来てもらおうと思っていたんですがね」
「何が目的なんだ」
「……陛下はリングオーサの王太子と仲がいいって聞いてね。ちょっと口を利いて欲しいんですよ」
「私にそんな力はない」
「ハッ!そのおかげでお前は王になれたんだろう?」
外に複数の人間の気配。スカートをギュッと握る。
「……まあいい。傷つけたりはするなよ。大事な交渉材料だ。おい、お前たちも降りろ」
ドクン、と心臓が強く打った。先に先生が降り、次に私だ。フレディ様の足に鎖がかけられているのが見えた。多分手にも。縄などではない。囚人を拘束するためのものだ。あれをかけられてしまったら逃げられない。
「でかいなこいつは……。やっぱり無理か。じゃあ先に」
先生にかけようとした手枷の金具が小さかったようで、赤毛の男は私に向き直るとおや、というように眉を上げた。
「おい、こいつは……」
「やめろ、触るな!」
フレディ様の声とともに、私の被っていたフードが外された。男たちは一斉に息をのむ。私は素早く人数を数えた。見えているだけで7人。私の前には赤毛の男と、もう一人小柄で茶色い髪の若い男がいた。金具を手に持ちぽかんと口を開けて私を見ている。
「こいつはすげえ……とんでもない上玉だ」
「やめろ、触るな!お前たちが触れて良いような方じゃないんだ!」
「そんなこと言われりゃ尚更触りたくなるじゃねえか。まあでもちょっと……こわいくらいの別嬪だな。おい、手枷をかけろ」
若い男がハッとして、私の両手に金具をかけた。
「悪いな。あんたのことをどうするかは後で決めさせてもらうが……この肌。裸に剥いたらさぞや……」
手の甲で頬を撫でられてゾッとする。ウィリアムに抱かれた私は、この男が何を言っているのかが良く分かった。悲鳴を上げそうになるのを懸命に堪える。と、その時。
「グ……ッ」
「ガァっ……」
私の周囲で風が舞った。何が起こったのかと瞬く私の隣で先生が素早く動く。赤毛の男の腰にあった剣を抜き取りながら回し蹴りで倒し、若い男の腹を剣の柄で打つ。それを見て残りの男たちも切りかかってくる。先生は私を背にかばいながら男たちを蹴り、剣でいなした。
「行け、逃げろ!」
フレディ様が叫ぶ。先生も小声で「小屋に向かって走って。必ず後から行きます」と言った。
ガクガクする足で必死に駆け出す。背後から「追いかけろ!」と声が聞こえ、すぐにまた殴打の音が響いた。フレディ様、先生、ごめんなさい。サー・アントニー、お願いですから家に居て!
走る。走る。息が苦しい。森の中に入った。足元が途端に悪くなる。ゴツゴツする木の根とふわふわする落ち葉が交互に足に触れる。走る。走る。両手首を鎖で繋がれているから走りづらい。喉が焼けそう。走る。泣いている場合じゃないのに涙で視界が曇った。
「あ!」
転んだ時に靴が脱げた。後ろを振り返るのが怖くて、立ち上がるとそのまま走り出す。足が痛い。心臓が破けそう。まだ、まだサー・アントニーの家には辿りつかない……!
「あぅっ!」
「ハーッ、ハーッ……全く、手間かけさせやがって…」
赤毛の男が肩で息をしながら私の髪を掴み、捻り上げた。痛みで首が動かせない。と、ウエストに手をまわされてグイッと引き寄せられた。
「いヤっ!」
「大人しくしろ!痛い目に遭わされたくないだろう。おい、暴れるな!」
拘束されたままの手を振り回し足をバタつかせる。大人しくなどしていられない。
「はなして!いやぁっ!」
「だから大人しくしろって…お前、ほんとに綺麗だな…すげえいい匂いする…」
髪を掴んでいた手を放し、後ろから両腕で強く抱かれた。全身に鳥肌が立つ。
「いや、いやッ!やめて、はなして!」
「そんな嫌がらなくてもいいじゃないか。気持ちよくしてやるから……ほら」
左胸をギュッと掴まれた。涙が溢れる。ウィル、ウィル、助けて!
「だめぇ、いやーっ!はなしてお願い!」
「……女に無理やりとか、考えたことなかったのに結構そそるな。おい、お前のそれ逆効果だぞ。もっと泣かせたくなる」
スカートの上から太もももの間に手を差し込まれた。いや、いや!
「ウィル!助けて!」
叫ぶと同時にガスッと音がして、押さえつけていた腕の力が緩んだ。泣きながら地面を這って進み後ろを振り返ると、剣を片手に傷だらけの先生が立っていた。
「大丈夫ですか?」
血のついた手を差し出しながら掛けられた言葉に、答えることもできない。嗚咽する私の頭をなで「よかった」と言うと、頭から血を流して倒れている赤毛の男を力いっぱい蹴った。思わず目を閉じた私の耳には、呻き声ひとつ聞こえない。
「しばらくは起き上がれないでしょう」
薄目を開けた私に、苦笑しながら先生が「……もう、人を殺めることはしないと決めたのです」と言い、腰が抜けてしまった私を抱き上げ歩き始めた。ぐったりと寄りかかる。
「サー・アントニーの家に行きましょう。すぐそこです」
ゆらゆら揺られながら鼻をすする。
「先生、ありがとう。……フレディ様は」
「無事ですよ。離れてついていた護衛が一人いたのです。私がほとんど叩きのめした後にやってきましたがね。フレデリック様のことは任せてきましたから、安心してください」
「よかった……」
止めどなく涙がこぼれた。先生は黙って私を泣かせてくれる。でも。
「どうしました?」
泣き顔とは違う、眉を下げた変な顔の私に先生が尋ねた。
「私、昨日から泣いてばっかり。……しかも、いつも先生の服をハンカチ替わりに」
「……」
先生もようやく頬を緩めた。殴られた跡とあちこち血がついた顔だけどちっとも怖くない。私は多分、目と鼻が真っ赤でみっともない顔をしていることだろう。それでも二人して、こうして無事でいられることに心の底から感謝した。
「サー・アントニー!いらっしゃいませんか?」
私を抱きかかえたまま扉を叩き大きな声で呼ぶ。
「居ないようですね……。窓を割って入るか」
「その必要がありますか?ここで待っていても……」
「いや。賊がどうなったか確認する前に殿下を追ってきたのです。万が一のことがあってはいけません。私が窓を割りますから、ほんの少しだけここで待っていてください」
先生はそう言って、玄関のすぐ横にある木の下に私を座らせた。
「……レオノア殿下、それは」
視線を辿ると私の手枷のところ。走ったり暴れたりで擦れたらしく、痣のように赤くなりところどころ血が滲んでいた。
「大丈夫です。走るときにこすっちゃったみたい」
「しかし、足も」
「……転んで靴が脱げてしまったから……」
足の裏からも血が出ている。自覚したとたん痛みを感じた。
「申し訳ありません。こんな……誰よりも大切にしなければならない方なのに」
「先生。誰よりも、なんてそんな。私は王女だけどただの人です。それをナジェンラに来て学びました。一人一人それぞれに、一番大切な人がいることも。……だから、大丈夫。ただのかすり傷です」
先生は驚いた顔をした後、顔をクシャッとさせた。笑いたいような、泣きたいような顔。そして立ち上がりながら私の手首が痛まないよう二の腕をそっと掴んだ。
「後で手当てをしましょう。手枷の鍵が見つかるといいのですが」
「はい。ちゃんとここで待ってますから、後で一緒に」
探しましょう、と言いかけた時にキィー……ン、と空気が鳴った。あまりにも甲高いその音に肩を竦める。と同時に声が聞こえた。誰よりも何よりも聞きたかった声。
「レオノア!!!!」
ウィリアムがそこに立っていた。あの白い塔のすぐ下。後ろにも何人か。……エドワードお兄さまと、フィリップお兄さま?
「ウィル!」
すぐに駆け寄って抱きしめてくれると信じて名前を呼ぶ。それなのに……何?怖い顔してる……。
「レオノアを放せ」
低い声でウィリアムが言った。何?何で?
「レオノアから離れろ!!」
エドワードお兄さままで。フィリップお兄さまはフラフラしながら立ち上がり、頭をブルブル振っている。
なぜ?二人とも何を言っているの?
私は先生を見上げた。すると、穏やかな瞳に理解の色を浮かべた先生は、小さな声ですみません、と言った。
「近寄るな!」
先生が大声で叫び、私に剣を向けた。同時にウィリアムたちから炎のように怒りと殺気が立ち上る。
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エドワードお兄さまが吐き捨てるように言った。違う、違うエド兄さま!私は首を振るばかりで言葉が出せない。ここにいるのは先生なの。私のことを、命をかけて守ってくれた。娘と同じ歳だと。抱きしめていいかと。違うの兄さま!
「何が望みなんだ」
唯一冷静な顔のフィリップお兄さまが訊く。ウィリアムは今にも先生を殺してやろうという目で、でも私が側にいるからそれができないと、きっとそう思っている。
「お前たちの国は、常に自分たちのことしか考えていない。自分たちだけが平和で、富み、幸せに暮らせばいいと、そう思っている。だから私たちが攻め込まれ大勢の人が死んでも、何一つしようとしなかった!」
「何を言う!」
言い返したのはエドワードお兄さまだ。
「ナジェンラが言い出したことだ。リングオーサのように富み、強い軍を持っている国と下手に軍事協力してしまえばいつ侵攻されるか分からん、交易のみに止めると」
「そのような理屈、我々市民が納得できると思うか!お前たちが力を貸してくれさえしていたら……それなら、私の娘はあのような無残な姿で死ぬことはなかったのだ!」
先生は泣いていた。今になってようやく私は気づく。剣を片手に持ち血に塗れ傷だらけの先生が、泣きはらした顔の、手枷をつけた私の二の腕を持っている。その姿がウィリアムたちにどう映った?そして、先生の心の傷。すみません、というさっきの言葉。私に剣を向けた理由。先生は言っていた。
『努力をしても、その人が心のどこかで救われたくないと思っていたのなら、神はその人を救わないということです』
『最も憎むべきは私自身なのですから』
『……もう、人を殺めることはしないと決めたのです』
先生は死のうとしている……?自分で自分を殺すことはできないから、誰かに殺されることを願っているの?
「ウィル!違うの、先生は悪くない、私を助けてくれた!」
「……レオニー。じっとして」
ウィリアムが近づくと、同じだけ先生も下がっていく。私の二の腕を掴んでいた先生の手が離れた。
「だめ!だめなのウィル!先生を傷つけないで!わざとなの。死のうとしているのよ!」
ウィリアムはもう何も言わない。私の左前に立ち、ゆっくりと右手を上げた。魔術を使う気だ!私の右前に立つ先生は剣を下ろし、どこかホッとしたような顔をしている。
私はもう一度叫ぼうとして立ち上がった。それを見つけたのは全くの偶然。低い位置から立ち上がるその動作で見つけた、遠くの藪の中に潜むもの。
「団長!それ違います!!別のやつです!!!」
全てがひどくゆっくりに思えた。ウィリアムの前に飛び出す。時間がゆっくり流れる。ウィルの黒髪が風になびいてとてもきれい。マントも。いつもと同じように素敵だけれど、何だかちょっと疲れているみたい。飛び出した私に驚く顔のウィル。かわいらしくて笑ってしまった。
「レオノア!!!」
感じたのは衝撃と熱。痛みはない。ゆっくりと下を向くと、弓矢が胸を貫いていた。
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