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第四章

邂逅

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 プリシラはそわそわとしながら鏡の中の自分を見つめた。
 淡い珊瑚色のドレスは、伯母であるザカリー伯爵夫人から二十歳の誕生日にプレゼントされたものだ。貴族令嬢として社交界へ出るのに恥ずかしくない装いをと、張り切った伯母から贈られた大量のドレスとアクセサリー。今まで日の目を見ることがなかったそれを、プリシラは今日初めて身に着けていた。

 よそ行きの顔をした自分が、鏡越しにこちらを見ている。ハンナの手で髪を巻かれ、薄い化粧まで施した顔は見違えるようだ。
 
 ――侯爵様は……いえ、ジャスティン様は、どうお思いになるかしら。

 頭に浮かんだ思いを心が理解した途端、頬が熱くなる。ちらりと見た鏡の中の顔が赤い。もしハンナがここにいたら絶対に揶揄われていた。プリシラは胸の中に溜まった熱を逃がすように、ふうと大きく息を吐く。

 授業を終え、急いで家に戻ったプリシラをハンナはすぐに見咎めた。ルーカスが不在だと伝えたところ、それならば泊まり込むと主張するハンナを宥め、自分一人――とカイン――だけなら手伝いは不要だと説得したときのことだ。

「お嬢様。何かお約束でもおありなのですか?」

 内心ぎくりとしながら「あら、なぜ?」と返せば、ハンナはきらりと目を光らせた。

「ほら、やっぱり。何もない方は質問に対して『なぜ?』なんて言ったりしませんよ。そのお返事だけで何かあると言っているようなものです。それに、お嬢様は隠し事があると瞬きが多くなるんですよ。元々が素直なお方ですからね」

 お世辞にも上手とはいえないウインクをパチリと決められ、プリシラは赤面するしかない。

「まあ、今日はそれでなくても分かったと思います。だって、お顔の色が違いますから」
「顔の色?」

 思わず頬に手を当てる。

「ええ。とても綺麗なバラ色をしてらっしゃいます。やっぱり、恋をすると肌の色艶が違ってきますからね」
「ハンナ!」

 真っ赤になったプリシラを揶揄いながらハンナの追及は続き、結局プリシラは洗いざらい――ジャスティンと会う約束をしていること、彼が迎えに来てくれることを打ち明ける羽目になった。おかげで何だかんだと世話を焼かれ、今まで袖を通す機会のなかったドレスを纏っているわけだ。

 ハンナは客の訪問に備え、一階で待機している。冷やかされるのに懲りたプリシラだけが一人、鏡の前に立っていた。

 ハンナの言葉どおり、鏡の中のプリシラの頬は上気し勿忘草色の瞳は輝いている。いつもの自分とは違うその様子を、プリシラは不思議な気持ちで見つめた。

 ――今日、私はブラックバーン侯爵様と……ジャスティン、と会う。

 キュッと唇を引き結んだ。
 昨日聞かされた話を、あれから幾度も思い返している。
 余りにもプリシラの想像を超えた、残酷な物語だった。
 常識的に考えれば荒唐無稽な作り話だ。吸血鬼だの半吸血鬼だの、子供を怖がらせ、言うことを聞かせるために、大人が声音で話すただの物語。もしくは退廃的な魅力を漂わせる吸血鬼とそれに襲われる美女といった、官能的に色づけされた淫靡な話か、そのどちらかだろう。
 
 だが、ジャスティンが語って聞かせたのはそんなものではなかった。
 愛が余りにも無力で、得体の知れない悪意に傷つけられた結果の、酸鼻を極めた痛ましい物語だ。
 
 もしもあの話が真実なのであれば、ジャスティンは三百年も前から生き続ける吸血鬼で、しかもゼルダの人々をたった一人で皆殺しにしたことになる。

 ――怖い? 彼のことが。
 
 プリシラは鏡の中の自分に問いかけた。
 不思議だ。数えきれない人々を殺したと告白されてなお、彼を恐れる気持ちにはなれなかった。
 では、あの告白を信じていないから、怖くないのだろうか。

 ……正直なところ、よく分からない。

 常識に照らせばあり得ない話だ。だが、話していたジャスティンの言葉に嘘はなかったと思う。少なくとも彼自身は自分の話を真実だと思っている。そうでなくて、あれほど真に迫った話はできないだろう。

 昨日からずっと、プリシラの身体のどこかが何か言いたげだ。むずむずとしたその感覚は、異様な焦燥となり彼女を煽り続けている。
 おかげで心がざわついて落ち着かず、今日は一日中気もそぞろだった。生徒たちからも、体調が悪いのかと尋ねられたほどだ。

 何をしていても、ずっと彼のことが頭から離れない。それは、恋を自覚した時以上の強さでプリシラを攻め立てる。何をすればいいのか、彼に対してどう対処すべきなのか幾度も考えたが、答えはまだ出せていない。だが、たった一つだけ決めたことがある。

 ジャスティンを一人にしてはならない。
 聞かされた話の真偽。自分の気持ちの行方。決着をつけられず、自分自身にすら説明できない思いの中で、それだけははっきりしていた。

 今日彼に会ったら、一緒にいたいと言おう。そして、同じ時間を過ごしながら、ゆっくりと自分の気持ちを考えればいい。とにかくジャスティンを一人にしないこと。それが今のプリシラにとって、最も重要なことだ。

 だって――彼はあんなにも、寂しそうだった。
 
 ルーカスの不在を有難いと思う自分は非常識なのだろう。貴族だろうが平民だろうが、成人男性に対して未婚の女性が望むべきことではない。だが、もうそんなことはどうでもよかった。今まで培ってきたはずの社会的なルールや常識、娘同然に可愛がってくれた伯父夫婦や従兄たちへの申し訳なさを超えた、プリシラの決意だ。
 
 プリシラは鏡に右手を当てた。ちょうど心臓の部分を覆い隠すように置いた手の熱が、冷たい鏡面を人肌に変えていく。
 
 ――彼の悲しみが癒える時はくるのかしら。

 ジャスティンの胸の内にある悲しさと苦しみが、少しでも軽くなるように。
 いつになるか分からないその日まで、彼に寄り添い、自分にできる精いっぱいのことをしていきたい。

 控えめなノックの音がしたのは、そろそろ約束の時間だとプリシラが振り返るのと同時だった。

「お嬢様」
「お見えになったの?」
「いいえ、あの……」

 ハンナは渋い顔で言い淀んでいる。その理由は、階下に降りたらすぐに分かった。




「ミスター・スティール。本日はどのようなご用件でしょうか」

 応接室の壁にかけてある絵を眺めるノーマンと、一番座り心地のいい椅子に腰掛けてハンナの淹れたお茶を飲んでいるバージニア親娘を前に、プリシラは尋ねた。
 もうすぐジャスティンがやってくる。また妙な揉め事に発展すると予想できるだけに、ここで鉢合わせるのは避けたかった。

 できるだけ早くお帰りいただきたいが、そんな素振りを見せたが最後居座られるのは分かっている。
 プリシラは両親の死以降、伯父夫婦の尽力にもかかわらず様々な場面で陰湿な陰口に晒されてきた。辛い記憶ではあるが、その経験のおかげで少々のことでは取り乱すことはない。何度勧めても座ろうとしないノーマンはそのままに、ブリシラはバージニアの向かいに腰掛けた。

「今日はあの子供はおらんのか」

 ノーマンの言葉に、プリシラは思わず眉根を寄せた。
 カインのことを指していると察せられても、侯爵家の関係者に対して余りにも無礼な物言いだ。プリシラはもうずっと前からカインを子ども扱いしていない。見た目はともかく、彼の内面が大人びていることを十分に理解していた。

「今は外出しておいでです」

 昨日、ジャスティンと別れてからカインの様子はおかしかった。元々口数の多いほうではなかったが、考え込んでいる様子で黙り込み、先ほど学校から戻ってからは姿を消している。

 もちろん、そんなことをノーマンに告げる気はない。カインがプリシラの護衛だとは思っていないだろうが、余計な情報を与えたくはなかった。

「私の娘に向かって妙な術を使っていたというが、それは本当なのか」

 プリシラは、父の言葉など知らぬ顔で茶を飲むバージニアをチラリと見た。カインに切り落とされた巻き毛は整えられ、形よく結われている。だが、唇の端が楽しそうに持ち上がったのをプリシラは見逃さなかった。
 プリシラは冷静な態度でノーマンに向き直った。

「妙な術、ですか」
「手も使わずに娘の髪を切り落としたのだろう。それが妖しい術でなくて何だというんだ」
「髪の毛? そんなことがありましたかしら。生憎私には何のことだかさっぱり分かりません」

 静かな受け答えが癇に障ったのか、ノーマンは忌々しげにプリシラを睨んでから短く告げた。

「お前はくびだ。もう学校には行かなくていい」

 呼吸が止まる。しばらく絶句したプリシラは、信じられない思いでようやく口を開いた。

「くび? 教職をですか?」
「そうだ」
「まさかそんな! 子供たちが――」
「後任はもう決まった。長くアカデミーで教鞭を執っていた教授が引退し、今後は児童教育に尽力したいと申し出てくれたのだ。その教授は平民にこそ教育の機会を与えるべきだとお考えの方だから、今度こそ子供たちのために働いてくださるはずだ。分かったか、お前はもう必要ない」

 プリシラは唾を飲んだ。
 何の権限があってそんな、と言おうとしたが、目の前の男にその権限の一端があることを今更ながらに思い出した。

「委員会の皆さんの同意は……」

 地区の有力者で作られた委員会では、様々なことが諮られ決定される。プリシラの教える学校の教員の選定もそうだ。そしてノーマンも、その権威ある有力者の一人として委員会に名を連ねている。
 分かり切ったことであっても、プリシラは聞かずにいられなかった。ノーマンは口角をグッと下げ、ぎょろりとした目玉でプリシラを見ている。今までもプリシラには決して友好的とは言えなかったが、こうまで無礼な態度を取られるのは初めてだった。

「皆、もろ手を挙げて賛成していたとも。当然だろう、アカデミーの教授と高等教育を修めた訳でもないお前とでは比べものにならん。それに」

 ノーマンはようやくバージニアの隣に腰掛けた。雇い主と従業員のような位置関係に威圧を感じる。彼は娘に向けるのとは全く違う冷たい視線をプリシラに向けた。

「ブラックバーン侯爵へ色目を遣うような女教師を雇いたい者など誰一人いないということだ。……全く、血は争えんな」

 最後の一言は隣の娘へ同意を求めたものだった。その証拠に、バージニアは満足気に微笑んでいる。この二人は、バージニアを差し置いてブラックバーン侯爵から目をかけられているプリシラのことが我慢ならないのだ。

 プリシラはぐっと拳を握った。謂れなき中傷には何度も遭遇したが、これほど酷いものは初めてだ。自分一人のことならまだしも、子供たちまで巻き込んでいることが何より耐えがたかった。

 だが――。
 生徒に対して愛情を持って誠実に接していたが、世間一般ではノーマンの探してきた教授の方が望ましいのは本当だろう。そして、これからジャスティンに言おうとしていたこと――側にいさせて欲しい――を考えれば、色目を遣っていると言われても否定できない。

「せめて、今学期は受け持たせていただけませんか。いいえ、その教授が着任されるまでの間だけでも構いません。私はまだ……子供たちに、さようならも言えていないのです」

 絞り出すような言葉に、ノーマンは鼻を鳴らすことで応えた。 

「だめだ。言っただろう、委員会で一番問題になっているのはお前のだ。生徒への悪影響は避けねばならん」
 
 自分が教えることが、教師不在で生徒が被る被害よりも大きいというのか。
 子供たちの顔が目に浮かび涙がこみ上げたが、奥歯を噛んで必死で堪える。
 泣いてなるものか、こんな人たちの前で。悪意を以て人を傷つけ、平伏させようとする者たちになんて、私は絶対に屈したりしない。

 キッと顔を上げたプリシラは、感情を排した平坦な声で言った。

「分かりました。では、明日早朝にでも教室の私物は取りに行ってきます」
「あら。そんなこと心配しなくても結構よ。何なら私が取りに行ってさしあげるわ。だってプリシラさん、あなたは荷造りで忙しくなるでしょうから」
「……荷造り?」

 クス、と小さく声がした。バージニアがほくそ笑んだのだ。一方ノーマンはさすがにきまり悪いのか、事務的に必要なことだけを告げた。

「ああ、そうだ。教師を辞めた以上、この家に住まわせる訳にはいかない。一日も早く荷物をまとめて出て行ってもらおうか」
「そんな……!」
「あら。ただの従兄と理由もなしに一緒に暮らせるとでも思っていたの? しかも、ここは司祭様のために用意した家なのよ。あなたはここで、一体何をするおつもりなのかしら」

 バージニアは茶器を置き、綺麗に結ったダークブロンドの毛先を指先で弄んだ。

「あなたがこのままここに居座ると聞いたら、街の皆は何て思うかしら。未婚の男女が必要もないのに一緒に暮らすことを不審に思うか、もしくは――侯爵様のために居残っているのだと、そう思うのではなくて? 子供は大人が思う以上に、噂話には耳ざといものよ。短い間とはいえ自分たちに勉強を教えてくれた先生が、男との淫らな遊びに耽っていると噂されるのを聞けばどう感じるかしらね」
「バージニア様!」

 プリシラは思わず立ち上がった。

「あんまりな仰りようではないですか。そのお言葉は私ではなく、従兄のルーカスやブラックバーン侯爵様への侮辱に他なりません」
「まあ」

 怒りに震えるプリシラとは違い、バージニアに動じる様子は一切なかった。

「それは私の言いたいことよ、プリシラさん。あなたの行いによってルーカス様やブラックバーン侯爵様の品位が貶められているんだわ。それもこれも、あなたのせいだということが分からないの?」
「私の品位は傷ついたりなどしていない」

 背後から聞こえた声に、プリシラは驚いて振り返った。全く気配を感じていなかったノーマンとバージニアも、驚きのあまり口をぽかんと開けている。

「一体誰がそんなくだらない話をしているのか、是非とも教えてもらいたいものだ」
「ぶ、ブラックバーン侯爵様!!」

 スティール親娘は驚き、揃って立ち上がった。
 決して人前に姿を現さないと言われていたジャスティンを彼らが目にしたのは、ルーカスの蔵書を確認しに来た時の一度きり。その後はプリシラが城を訪問していたのだから、よもやこんなところで鉢合わせるとは思ってもみなかったに違いない。

「侯爵様、ようこそおいでくださいました。まさかお会いできるとは思いもよりませんで」
「ミスター・スティール、君は私の質問にまだ答えていないようだ。それにここはプリシラの家だろう。我が物顔に振る舞うのはやめたほうがいい」

 厳しい口調で言われたノーマンは、突然現れた侯爵を前に言葉を詰まらせ返事もできないでいる。だが、スティール家の娘は違うようだ。落ち着いた、しかしどことなく媚を含んだ声で話し始める。

「ブラックバーン侯爵様。実は、そちらのプリシラさんが学校をお辞めになることになったのです。ですからこの家もお出になる必要があると、そうお話していたところですわ」
「なぜ辞めなければならないのだ」

 シン、と部屋が静まった。もしそれを説明するのに相応しい者がいるのなら、ノーマン以外にはいないだろう。だが彼は赤黒い顔で黙りこくっている。ここは自分がしっかりするしかない。バージニアは強心臓ぶりを発揮し、ごくりと唾を飲んでから口を開いた。

「申し上げにくいことではありますが、侯爵様とプリシラさんの仲を邪推するような噂が出ております。身分からしてあり得ないことですのに、不品行なことですわね。その噂のせいで、教師としての資質を問われたのではないかと思いますわ」
「……」
「も、もちろん新しい教師も手配できているんです。アカデミーの教授が――」
、だと言ったか?」

 低い声で問われ、さすがのバージニアも言葉を飲み込んだ。いや、部屋にいる者全員が、怒りを露わにしたジャスティンに息をのむ。
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