ヴァンパイアの聖痕

ひなのさくらこ

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第二章

夢のようなピクニック②

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 気の済むまで散策した後、プリシラは導かれるまま木陰に座りバスケットの蓋を開ける。中身はぎっしりと詰め込まれたサンドイッチや果物、そしてワインだ。
 「アーサーが作ったんだよ」とジャスティンは得意気に言って、上向けた手のひらをプリシラの前に差し出した。

「……?」
「手、出して」

 おずおずと右手を出すと、濡らしたナプキンで手指の一本一本まで丁寧に拭いてくれる。羞恥で言葉も出せず狼狽えるプリシラは、目を潤ませながらも自分の手を包む温かさを拒絶できないでいた。

 そうやって左手までを清めると、ジャスティンはバスケットから取り出したサンドイッチをプリシラに手渡す。冷肉とチーズのサンドイッチだ。鼻先に調理された肉の匂いが届き、プリシラの胃がきゅうと動いた。
 いつもなら何の気なしに食べるサンドイッチを、今はどうやって食べればいいか迷ってしまう。大口を開けて食べればはしたないだろうか。それに、自分の歯形がくっきりと残っているのを見られるのも恥ずかしい。
 腹の虫は空腹を訴えて今にも音を立てそうだ。プリシラは歯形が目立たないようサンドイッチの隅を一口かじり、その美味しさに二口三口と食べすすめる。

「美味しい!」
「そう? よかった」

 ジャスティンは実に優雅にサンドイッチにかぶりついた。庶民の食べ物であるサンドイッチと、「優雅」という言葉が結びつかず、プリシラは小さく笑ってしまう。

「どうしたの?」
「ふふっ。いえ、サンドイッチをこんなに上品に召し上がる方を見たのは初めてだなと、そう思って」

 ジャスティンは目を大きく見開いた。目も口もこんなに大きく開けているのに、この方はそれでも美しいままなんだわ。プリシラは感心するが、ジャスティンは照れた顔でプイと横を向いた。
 余りにも楽しかったせいで、つい思ったままを口にしてしまった。焦るプリシラはそっとジャスティンを窺うが、彼は顔を逸らしたままだ。

「……申し訳ございません。お気を悪くなさいましたか?」

 ちら、とプリシラを見て、またすぐに顔を背ける。髪の間から一瞬見えた耳たぶはピンク色に染まっていた。

「……」
「怒ってなんかいないよ。……でも、名前を呼んで」
「…………」
「ねえ、お願いだから」

 他でもないジャスティンの願いだ。プリシラはどうにか応えようとして……結局黙って俯いた。頭の中に父方の親類から罵倒された記憶が蘇る。子爵家の娘だった私。今は平民となった私。自分であることは微塵も違わないのに、周囲の扱いの差は歴然としていた。自分などが馴れ馴れしく名前を呼んでいい相手ではない。

「プリシラ」

 優しい声だった。何度も瞬きをしてから顔を上げる。雪花石膏の肌。鎖骨の下まである長い黒髪。銀色の瞳には、今にも泣きだしそうなプリシラが映っていた。

「僕は君を、困らせてばかりいるね」
「そんなこと!」

 プリシラは必死に首を振った。そんな風に思わせたくはない。全てはただプリシラの……自信のなさからくるものだ。

「私はいつも喜びだけを受け取っています。そしてあなたから受け取ったもの全部が……私の、宝物です」

 発した言葉が耳に入り、プリシラはそれが自分の本心であることを思い知る。ジャスティンは静かにその言葉を聞き、一度だけ大きく息を吐いた。そして何ごともなかったようにサンドイッチを頬張ると、プリシラにも食事を続けるように促した。

 それは不思議な空間だった。食事など到底できないと思っていたはずのプリシラは、勧められるままデザートの果物までぺろりと食べ終わった。気づまりではなく、堅苦しくもない。ただ互いを思いやる気持ちだけが、草原いっぱいに満たされているようだった。

 ハッ、と小さく息をのむ音がした。

「……プリシラ」

 すぐ隣に座っているからこそ聞こえた囁き声に顔を上げる。

「声を出したら駄目だよ。ゆっくりと、右手の茂みを見て」

 耳朶に吐息が触れる。背筋に甘やかな震えが走ったが、言われるがままに示された場所に視線を移し――驚愕に息をとめた。

 そこには、見たこともないほど立派なヘラジカがいた。大きく枝分かれした立派な角。森に入ってから、小鳥などの小動物はおろか羽虫一匹見かけなかったというのに、こんなに大きなヘラジカと遭遇するとは思ってもいなかった。

 ヘラジカは悠々と下草を食んでいる。すぐ側にいる人間には興味もないというように、時折り顔を上げては鼻をひくつかせ、また食事を続けるといった様子だ。

 二人は金縛りにあったように動かなかった。ヘラジカは少しずつ、ほんの少しずつ森の奥へと戻っていく。このまま姿が見えなくなるかと思ったその時、ようやく気づいたかのように森の主は首をふり立てて二人を見据えた。
 黒く濡れた瞳が、夢の中のような美しい草原ごと二人をじっと見つめている。プリシラはそっと肩を抱かれたのに気づいて、強張った身体から力を抜いた。

 どれくらい経っただろう。ヘラジカはまたゆっくりと森の奥へ歩み去った。
 何も見えなくなって、ようやく二人は顔を見合わせた。

「信じられない……」

 ジャスティンは興奮してプリシラの両肩を掴んだ。

「見たかい? あの立派な角! あんなに見事なヘラジカを見たのは初めてだ!」

 ジャスティンの興奮が伝染し、プリシラも頬を上気させる。

「ええ、見ました! すごい……! まるで神の遣いのようでした。こんなことがあるだなんて……」

 二人はいつの間にか立ち上がり、子供のようにジャンプしながらはしゃぎまわる。何もかもが素晴らしすぎて、美しすぎて……。プリシラは喜びにはちきれそうだった。

 散々はしゃいで息が切れたプリシラは、ジャスティンを真似て柔らかく爽やかな匂いのする草原に仰向けになった。太陽に薄くかかった雲のせいで、辺りは霞むような幻想的な光に照らされている。

 静かな草原だ。鳥の声も、虫の鳴く音も聞こえない。ただそよ風がさわさわと花々を揺らし、甘い匂いをあちこちに運んでいた。

 プリシラは呼ばれた気がして横を向いた。柔く生き生きとした緑に包まれた美しい人。真っすぐな長い黒髪は絹糸のよう。雪花石膏の肌は輝き、銀色の瞳にはプリシラが映っている。

 ああ。プリシラは認めざるを得なかった。どんなに抵抗しても無駄だということを。自分がどれほどこの人を好きになってしまったかを。

 ジャスティンはゆっくりと身を起こし、子供のように無垢な瞳で彼を見上げる愛しい人を見つめた。そっと手を伸ばし、ダークブロンドの髪に指を差し込む。
 
「……プリシラ」

 畏れにも似た思いで呼んだ。どれほど触れたいと、愛を告げたいと思ったか。
 そんな資格などないと分かっていたのに。それでも思いきれず、結局こうして囲い込んでしまった。

 後悔も懺悔もいくらでもする。だからどうかもう何物も、僕から彼女を奪わないでくれ。

 薄青の瞳がそっと閉じられた。赤く色づく形のよい唇に誘われるように、ジャスティンは唇を重ねる。
 は、と息を吐いた。強靭な肉体は負荷をかけても平然としているのに、唇の表面を合わせるだけの口づけで簡単に吐息を乱してしまう。

 長く可憐な睫毛が持ち上がった。互いの瞳に互いを映すことのできる幸福を感じながら、ジャスティンはプリシラの目尻に溜まった涙を口づけで拭う。

「ジャスティン、様」

 震える声で呼んだプリシラが愛おしすぎて、腹の奥が焙られるように疼いた。
 大切なプリシラ。もう決して……獣のような欲求の犠牲になどするものか。

 
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