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第二章
休日の約束
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「……シラ、プリシラ」
筆を走らせていたプリシラは、呼びかけに気づいてハッとした。
またつい夢中になって時間を忘れていた。壁の時計を見れば、予定の時間を一時間以上も過ぎている。プリシラは慌てて立ち上がり、描き始めたときと全く同じポーズを取るモデルに謝罪した。
「申し訳ございません。またこんなに予定を過ぎてしまって……」
ゆっくりと首を巡らせたその人は、銀色の瞳を細めながら形よい唇の端を上げた。散々悩んで横顔を描くと決めたプリシラが、正面からの構図にすべきだったかと後悔するような顔だ。
「いいんだ。僕がお願いしたことだからね。ねえプリシラ、夕食を一緒にどうかな」
「……有難いお誘いですが、従兄が待っておりますので」
これもお約束となっている誘いを、プリシラは眉尻を下げながら断った。「そう」とあっさり引き下がる侯爵に申し訳なさが募る。
ブラックバーン城でジャスティンをモデルに絵を描き始めてからかれこれ二週間。晩餐への招待を断るのももう限界だ。主に、プリシラの気持ちが。
ジャスティンとプリシラは、衝撃的な出会いから一夜明けた日の夕方に再会した。プリシラが帰宅するのを見計らったようなタイミングで彼がやってきたからだ。
連日の訪問に驚くプリシラに、ジャスティンはある依頼をする。それは自らの肖像画の制作という、これまた彼女を驚愕させるものだった。
絵を描くのが趣味だと話はしたが、所詮素人の手慰みだ。侯爵位にある方の肖像画などとても務まらないという説得をジャスティンは聞き入れず、最終的にプリシラはそれを引き受けた。爵位を盾に迫られたからではなく、この理想的なモデルを描きたいという欲求に逆らえなかったのが理由だった。
ルーカスは反対だったに違いない。終始渋い顔で、それでも従妹に甘い彼は口出しをしなかった。だからといって決して容認した訳でないのは、二週間経っても変わりはない。
高額の報酬を提示され、それだけはプリシラも頑として受け取ろうとはしなかった。ジャスティンはプリシラの顔を見て、これ以上ごり押しすれば肖像画の制作自体を断られると悟ったのだろう。しぶしぶながら無償での制作を受け入れた。――彼はその代わりに、城内の広い部屋をアトリエに作り替え、高価な絵具をふんだんに用意することで気晴らしをした。
そうやって、プリシラは毎日ブラックバーン城を訪れている。授業が終わってからほんの二、三時間ほど、それでも毎日となればそれなりに慣れ、今では随分緊張もほぐれていた。城に使用人の姿が――アーサーとカイン以外――見当たらないのもいいのかもしれない。知らない人間に恭しく遇されでもしたら、プリシラはおそらく気疲れしただだろうから。
「プリシラ」
帰りの馬車に乗り込もうとしたところで呼びとめられる。当然のようにプリシラを見送ろうとする領主と、とんでもないと恐縮し固辞する客。散々繰り返した押し問答は、今のところプリシラの全敗だ。
「明日は学校が休みだろう? 少し外出しないか。午前中に迎えにいくよ」
プリシラは一拍置いてから口を開いた。この、年齢に似合わず老練な侯爵は、しばしばプリシラの想いもよらないようなことを言ってくる。それに驚いたり迷ったりしている間に、あれよあれよと思いどおりにされてしまうのだ。
もちろん決して無理強いはされないし、プリシラの意志を尊重してくれる。何より彼の申し出はプリシラにとって非常に興味深く、そして喜ばしいことばかりなのがいけない。寝る前に振り返って、嬉しさに目がさえてしまうようなことばかりなのだ。
とはいえ何ごとにも節度は必要だ。ただでさえ見失いがちなそれを保つためにも、目的も分からないうちに迂闊な返答は避けたかった。
「外出、ですか?」
「ああ。裏の森に綺麗な草原があるんだ。絵のモチーフになるかもしれないし、君に見せたいと思って」
ん? と問うように首を傾げる。その拍子に長い黒髪がサラリと肩を流れ、エントランスの灯りに反射した。
プリシラは困って眉根を寄せた。恐れを感じるほど美しく魅力的で、甘やかすように優しく接してくるジャスティンだ。年頃の娘であるプリシラがときめかないはずはない。
だが、プリシラは自分の立場をよく理解していた。子爵位を持っていた両親が生きていたとしても身分違いだというのに、今は労働者階級の子供を教える平民だ。抜き差しならなくなる前に身を引こうと常に自分へ言い聞かせていた。それなのに。
「君が毎日僕の誘いを断っている償いだよ。明日は僕と一緒に出掛けること。いいね?」
銀色の瞳を甘く和ませ、悪戯っぽく微笑まれる。胸がきゅうと苦しくなったプリシラは、無意識の仕草で喉の下を押さえ、せめてもの抵抗を示した。
「……明日は、お天気が崩れそうですわ」
それは本当のことだった。夜空には雲がかかり、空気が水分を含んでどことなく重たい。早ければ今夜のうちに雨が降り始めるだろう。
これでは外出など無理決まっている。プリシラは自分でも驚くほどガッカリしていることに気づき、その気持ちにすぐさま蓋をした。
「天気? 大丈夫だよ。雨は降らない」
「分かりませんわ。こんなに雲が出ていますもの」
重ねて言うプリシラに、ジャスティンは夜空を仰ぐ。反らした顎と喉のラインがドキッとするほど男らしく、プリシラはどぎまぎして目を逸らした。
「いや、僕には分かるんだ。……いいかいプリシラ、明日は早い時間に迎えを出す。ちゃんと出かける準備をしておくんだよ」
筆を走らせていたプリシラは、呼びかけに気づいてハッとした。
またつい夢中になって時間を忘れていた。壁の時計を見れば、予定の時間を一時間以上も過ぎている。プリシラは慌てて立ち上がり、描き始めたときと全く同じポーズを取るモデルに謝罪した。
「申し訳ございません。またこんなに予定を過ぎてしまって……」
ゆっくりと首を巡らせたその人は、銀色の瞳を細めながら形よい唇の端を上げた。散々悩んで横顔を描くと決めたプリシラが、正面からの構図にすべきだったかと後悔するような顔だ。
「いいんだ。僕がお願いしたことだからね。ねえプリシラ、夕食を一緒にどうかな」
「……有難いお誘いですが、従兄が待っておりますので」
これもお約束となっている誘いを、プリシラは眉尻を下げながら断った。「そう」とあっさり引き下がる侯爵に申し訳なさが募る。
ブラックバーン城でジャスティンをモデルに絵を描き始めてからかれこれ二週間。晩餐への招待を断るのももう限界だ。主に、プリシラの気持ちが。
ジャスティンとプリシラは、衝撃的な出会いから一夜明けた日の夕方に再会した。プリシラが帰宅するのを見計らったようなタイミングで彼がやってきたからだ。
連日の訪問に驚くプリシラに、ジャスティンはある依頼をする。それは自らの肖像画の制作という、これまた彼女を驚愕させるものだった。
絵を描くのが趣味だと話はしたが、所詮素人の手慰みだ。侯爵位にある方の肖像画などとても務まらないという説得をジャスティンは聞き入れず、最終的にプリシラはそれを引き受けた。爵位を盾に迫られたからではなく、この理想的なモデルを描きたいという欲求に逆らえなかったのが理由だった。
ルーカスは反対だったに違いない。終始渋い顔で、それでも従妹に甘い彼は口出しをしなかった。だからといって決して容認した訳でないのは、二週間経っても変わりはない。
高額の報酬を提示され、それだけはプリシラも頑として受け取ろうとはしなかった。ジャスティンはプリシラの顔を見て、これ以上ごり押しすれば肖像画の制作自体を断られると悟ったのだろう。しぶしぶながら無償での制作を受け入れた。――彼はその代わりに、城内の広い部屋をアトリエに作り替え、高価な絵具をふんだんに用意することで気晴らしをした。
そうやって、プリシラは毎日ブラックバーン城を訪れている。授業が終わってからほんの二、三時間ほど、それでも毎日となればそれなりに慣れ、今では随分緊張もほぐれていた。城に使用人の姿が――アーサーとカイン以外――見当たらないのもいいのかもしれない。知らない人間に恭しく遇されでもしたら、プリシラはおそらく気疲れしただだろうから。
「プリシラ」
帰りの馬車に乗り込もうとしたところで呼びとめられる。当然のようにプリシラを見送ろうとする領主と、とんでもないと恐縮し固辞する客。散々繰り返した押し問答は、今のところプリシラの全敗だ。
「明日は学校が休みだろう? 少し外出しないか。午前中に迎えにいくよ」
プリシラは一拍置いてから口を開いた。この、年齢に似合わず老練な侯爵は、しばしばプリシラの想いもよらないようなことを言ってくる。それに驚いたり迷ったりしている間に、あれよあれよと思いどおりにされてしまうのだ。
もちろん決して無理強いはされないし、プリシラの意志を尊重してくれる。何より彼の申し出はプリシラにとって非常に興味深く、そして喜ばしいことばかりなのがいけない。寝る前に振り返って、嬉しさに目がさえてしまうようなことばかりなのだ。
とはいえ何ごとにも節度は必要だ。ただでさえ見失いがちなそれを保つためにも、目的も分からないうちに迂闊な返答は避けたかった。
「外出、ですか?」
「ああ。裏の森に綺麗な草原があるんだ。絵のモチーフになるかもしれないし、君に見せたいと思って」
ん? と問うように首を傾げる。その拍子に長い黒髪がサラリと肩を流れ、エントランスの灯りに反射した。
プリシラは困って眉根を寄せた。恐れを感じるほど美しく魅力的で、甘やかすように優しく接してくるジャスティンだ。年頃の娘であるプリシラがときめかないはずはない。
だが、プリシラは自分の立場をよく理解していた。子爵位を持っていた両親が生きていたとしても身分違いだというのに、今は労働者階級の子供を教える平民だ。抜き差しならなくなる前に身を引こうと常に自分へ言い聞かせていた。それなのに。
「君が毎日僕の誘いを断っている償いだよ。明日は僕と一緒に出掛けること。いいね?」
銀色の瞳を甘く和ませ、悪戯っぽく微笑まれる。胸がきゅうと苦しくなったプリシラは、無意識の仕草で喉の下を押さえ、せめてもの抵抗を示した。
「……明日は、お天気が崩れそうですわ」
それは本当のことだった。夜空には雲がかかり、空気が水分を含んでどことなく重たい。早ければ今夜のうちに雨が降り始めるだろう。
これでは外出など無理決まっている。プリシラは自分でも驚くほどガッカリしていることに気づき、その気持ちにすぐさま蓋をした。
「天気? 大丈夫だよ。雨は降らない」
「分かりませんわ。こんなに雲が出ていますもの」
重ねて言うプリシラに、ジャスティンは夜空を仰ぐ。反らした顎と喉のラインがドキッとするほど男らしく、プリシラはどぎまぎして目を逸らした。
「いや、僕には分かるんだ。……いいかいプリシラ、明日は早い時間に迎えを出す。ちゃんと出かける準備をしておくんだよ」
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