上 下
21 / 39
第二章

従者カイン・バンクス

しおりを挟む
 ぱち、とプリシラは目を開けた。

 窓からは柔らかな光が差し込んでいる。今日は珍しく天気がよさそうだ。とはいえ天候が変わりやすいのもベルリッツではよくあることで、この天気がいつまで持つかは誰にも分からない。
 いつになくスッキリとした目覚めだ。懸案事項が解決していないというのに、枕に頭を乗せた途端眠り込んでしまった。夢も見ずにぐっすり眠ったせいで、身体がどこか軋むようだ。貴重な晴れ間を無駄にしないよう、プリシラは両手を天井につき上げて思いきり伸びをした。

「あー……、王子様、かぁ…………」

 はた、と動きをとめて数度瞬いた。

「いま、私……何を言ったの……?」

 自分の指先で口を押える。全くの無意識でこぼれた呟きだ。頭の片隅にもなかったはずの言葉に意味などないだろうが、妙に気になって下唇を指でつまんだ。

 プリシラは寝台から降り、試しにもう一度伸びをする。んー……、と小さな声が漏れたが、ヒントになりそうな言葉が口を衝く様子はない。首を傾げながら部屋の隅にある洗面台で顔を洗い、いつものように手早く髪を梳かす。その後は髪をひっつめて、用意しておいたワンピースを着て……。
 
 髪を梳く手がとまる。壁に掛けられた鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
 昨夜、案内したはずの客間からカインは煙のように姿を消した。二人して屋敷中を探し、それでもみつけられずにプリシラは真っ青になった。自分が余計な口を利いてしまったから、カインは出て行ったに違いない。
 屠殺場に引かれていく家畜さながらの悲痛な表情で、ブラックバーン城へ謝罪に行くと言ったプリシラを止めたのはルーカスだ。夜も更けたこんな時間に領主の城を訪ねることはできない。連絡手段もなく、ましてやカインはプリシラを護れという主の命に背いたことになる。このまま一晩様子をみて、明日の朝どうすべきか考えようと。

 ルーカスの言葉は間違っていないかもしれないが、プリシラの耳にはひどく不人情に聞こえた。第一、人形のような可愛らしい顔と華奢な身体のカインだ。彼が一人で夜道を歩くのかと思えばゾッとして、プリシラは必死にその危険性を指摘した。

『大丈夫だ。侯爵が護衛を任ずるほどなんだから、腕に覚えはあるだろう。とにかく今、我々が慌てふためいて外を出歩くことになれば元も子もない。全ては夜が明けてからだ』

 頑として主張したルーカスに、プリシラは従わざるを得なかった。
 プリシラはちらりと窓の外を見る。カインの行方が分からなくなったとき、暗闇はよそよそしく冷たいものに思え、彼が無事だとはとても信じられなかった。しかし眩い朝日の中では、昨夜感じたおどろおどろしさはどこかへ消え去っている。

 とにかくもう一度屋敷の中を探して、それから庭も見てみよう。身支度を済ませたプリシラは、捜索場所の順番をあれこれ考えながら部屋の扉を開け、そして驚きの悲鳴を飲み込んだ。

 プリシラの部屋の前。廊下に背を預けて立っていたのはカインだった。昨日と同じ、しかし下ろし立てのようにピシッとした服を着て、顔を明後日の方向に逸らしている。
 プリシラは安堵のあまりへなへなと座り込みたくなるのを堪え、足早に近づいた。

「従者様、ご無事でようございました」

 サッと全身を確認し、傷や痣がないのを確かめる。ビスクドールのような白い頬は血色もよく、つんと逸らした生意気な顎のラインに歪みもない。心の底から安心したプリシラは、ほっとして目尻に滲んだ涙を拭いながら微笑んだ。

「昨日は私が要らぬことを申し上げました。ご不快な思いをなさいましたでしょう。本当に申し訳ございません。お腹が空かれたのではありませんか? すぐに朝食の準備をいたしますわ」

 顔をのぞき込むようにして告げたプリシラを、カインが横目でちらりと見た。さくらんぼのような唇がキュッと引き結ばれる。
 無事な姿を見た嬉しさで、馴れ馴れしくしすぎてしまったようだ。プリシラは反省しながら身を起こし、カインを食堂へ案内しようとした。

「待て」

 カインは赤い唇を尖らせ少し俯いていた。長い睫毛が頬に触れそうで、もしやどこか具合でも悪いのだろうかと心配になる。

「…………ご主人様は、素晴らしい方だ」

 顔を上げ、横目でプリシラを見た。

「とにかく、素晴らしいお方なんだ。領内だけではなく、他領からもご主人様の治める街で暮らしたいと引っ越してくるほどだからな」

 いきなり始まった侯爵への賛辞に、プリシラは意味が分からずあいまいに頷いた。

「慈悲深く愛情深いお方だ。ご自身は辛い思いをされているのに、使用人に対しても公平で丁寧に接しておられる。これ以上はないほど素晴らしい主なんだ」

 一体どんな反応を求められているのだろう。プリシラはじっとカインを見つめた。すると、焦れた様子でカインが大声を出す。

「だから……っ、お前が言っただろう。素晴らしい主に仕える者は、その……」

 舌鋒鋭い従者が珍しく言い淀んでいる理由を察して、プリシラはカインにおずおずと言った。

「……まさか、昨日のことを謝罪なさろうと……?」

 白い頬がカッと赤く染まる。目を吊り上げたカインは、それでも毒舌を飲み込んでプイと横を向いた。くるくると渦を巻く栗色の髪の間から覗く耳まで赤い。
 プリシラは数度瞬いた後、堪えきれずにクスクスと笑った。カインは横目でそれを睨むと、眉間に皺を寄せて低く唸った。

「従者様、行きましょう。安心してお腹が空いてしまいました」
「……食い意地の張った奴め。そんなことでは嫁の貰い手もないぞ」
「構いません。人間、生きるためには食べなければなりませんもの」

 軽口の応酬に笑みがこぼれる。カインもどことなく楽しそうだ。
 足取り軽く食堂へ向かうプリシラは、今朝の不思議な出来事のことをすっかり忘れてしまっていた。


しおりを挟む
感想 19

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて

アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。 二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

義兄の執愛

真木
恋愛
陽花は姉の結婚と引き換えに、義兄に囲われることになる。 教え込むように執拗に抱き、甘く愛をささやく義兄に、陽花の心は砕けていき……。 悪の華のような義兄×中性的な義妹の歪んだ愛。

処理中です...