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第一章
従者の忠誠②
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馬車は行ってしまった。ぽつんと残されたカインの背が寂しげだ。
自分の教え子とさほど違わない背格好の後ろ姿に心が痛み、躊躇いながらプリシラはそっと声をかけた。
「……部屋へご案内いたします。どうぞこちらへ」
一瞬の間は、呼びかけを無視するか迷ったせいだろう。不承不承振り向いた彼の目は潤み、鼻先が少し赤くなっている。それに気づかないふりでプリシラはごく普通に話しかけた。
「念のため客間の支度をしておいてよかったですわ。すぐにお湯をお持ちします。この時間ですもの、お腹がお空きでしょう。お食事の準備が整ったらお声がけいたしますので、少しだけお待ちくださいませね」
エントランスをくぐりながら、斜め前を歩くルーカスへ尋ねる。
「お従兄様、ハンナはどんな様子かしら」
「少し前に息子が迎えにきたようだ。もう帰り着いた頃だろう」
「それならよかった。明日は休みの予定だったから、ゆっくりして元気になってくれるといいのだけれど」
「医者に行くと言っていたから、二、三日は休むよう伝えたよ」
ハンナは侯爵を間近に見た衝撃で血圧が上がり、エントランスで倒れ込んでしまっていた。言外に屋敷内には自分たちしかいないこと、明日も使用人はこないことを伝える。カインに不便はかけるだろうが、彼の頑なな態度を思えば知らない者に世話を焼かれるよりいいだろう。
「お従兄様、ご案内をお願いしても? 私はお湯の準備をしてくるわ」
「分かった。……従者殿、ご案内いたします」
カインには見えない角度でルーカスに目で合図をした。幼い見た目ではあるが、丁重に扱わざるを得ない客人だ。どう見てもプリシラに好意的とは言えないカインと余計な摩擦を起こさないためにも、必要最低限の接触で済ませようと二人は気を回したのだが。
「おい、女」
無礼な呼びかけに二人揃って振り向いた。エントランスの背の高い木製の扉の前では、カインの華奢さが酷く目立つ。彼はもう先ほどまでの弱った姿から立ち直り、憮然とした態度で睨むようにこちらを見ていた。
「お前でいい。お前が案内しろ」
どういう風の吹き回しか、プリシラに案内しろと言う。ちらりと従兄と目を見合わせてから、プリシラは軽く膝を曲げて礼をした。
「承知いたしました。ではどうぞこちらへ。お従兄様、悪いけれどお湯の準備をお願いね」
プリシラは礼を失しないよう注意しながらも、歩調を僅かに早めた。ハンナが夕食を用意してくれているが、来客用に手を加えなければならないだろう。それに何よりも、早く一人になって今日の出来事を考えてみたかった。
「こちらです」
二階にある客間の前で足をとめたプリシラは、扉を開くと室内のランプに火を灯した。
窓の大きな広い部屋だ。晴れた時の眺めは素晴らしく、陽光を存分に取り込める作りになっている。
「カーテンを開けたまま眠ると、窓からの朝日で目が覚めるんです。晴れた日限定なのが残念ですわ。ベルリッツで太陽の光はごちそうですものね。もちろん、眩しいのがお嫌ならカーテンを引いてお寝みになれば」
「言っておくが」
世間話をする気など微塵もないカインは、プリシラの説明を遮った。
「ご主人様がお前に興味を持ったからといって調子に乗るな。あのお方は、お前なんかには考えもつかない辛い目に遭ってこられたんだ。気休めにお前のようなつまらない女を構っても、そこに意味などない。弁えておくんだな」
これを言うために自分に案内をさせたのだと分かり、プリシラはあっけに取られた。一方、言うだけ言ってスッキリしたらしいカインは「分かったらさっさと出ていけ」とつんと顔を背けている。
言われた内容は酷いものだが、目線の高さしかない身長に女の子のような可愛らしい顔、何より教え子と変わらない年恰好では怒る気にもならない。むしろ、毛を逆立てる子猫を想像してしまい、プリシラはなんだか可笑しくなった。
ふ、と息を吐く。いけないと顔を引き締めたが、耳ざとくそれに気づいたカインは勢いよく振り返った。
「何が可笑しい」
「いいえ、私は何も」
「嘘をつくな! 言いたいことがあるならさっさと言え!」
栗色の巻き毛に、ビロードのような濃い茶色の瞳。クリーム色の肌に指先でつまんだような鼻。
険のある目つきを除けばそのまま陶器人形として通用しそうだ。見た目の幼さは教え子を思わせるものの、彼の内面はそれよりもずっと大人びていることをプリシラは感じ取っていた。
「従者様の忠誠心に感心しておりました。ご心配にならずとも、自分の立場は十分理解しております。……久しぶりの外出で、侯爵様のご興味を惹いたのがたまたま私だったというだけのこと。新鮮味が薄れれば、当家にお越しになったことすらすぐにお忘れになるでしょう。従者様にはご不自由をおかけいたしますが、それまでご辛抱いただけたらと」
「黙れ!」
ギリギリと歯を食いしばったカインは、怒りに目を燃え上がらせた。調子に乗られるのは業腹だが、かといって主を理解していると言われるのも気に喰わないといったところだろう。しかしプリシラは恐れることなく静かにカインを見返した。
「従者様。先ほどから何かといえばそうやって怒鳴ってばかりおいでですのね。一つ申し上げると、怒りは人を幼く見せますわ。侯爵様の従者という自負をお持ちなら、容易く怒りを表に出されないほうがいいでしょう。……侯爵様のためにも」
最後の一言が怒りを更に煽ったようだ。カインはダンッと足を踏み鳴らすと、顔を紅潮させながら大声で怒鳴った。
「お前如きが知ったような口を利くな! この……人間風情が!」
自分の教え子とさほど違わない背格好の後ろ姿に心が痛み、躊躇いながらプリシラはそっと声をかけた。
「……部屋へご案内いたします。どうぞこちらへ」
一瞬の間は、呼びかけを無視するか迷ったせいだろう。不承不承振り向いた彼の目は潤み、鼻先が少し赤くなっている。それに気づかないふりでプリシラはごく普通に話しかけた。
「念のため客間の支度をしておいてよかったですわ。すぐにお湯をお持ちします。この時間ですもの、お腹がお空きでしょう。お食事の準備が整ったらお声がけいたしますので、少しだけお待ちくださいませね」
エントランスをくぐりながら、斜め前を歩くルーカスへ尋ねる。
「お従兄様、ハンナはどんな様子かしら」
「少し前に息子が迎えにきたようだ。もう帰り着いた頃だろう」
「それならよかった。明日は休みの予定だったから、ゆっくりして元気になってくれるといいのだけれど」
「医者に行くと言っていたから、二、三日は休むよう伝えたよ」
ハンナは侯爵を間近に見た衝撃で血圧が上がり、エントランスで倒れ込んでしまっていた。言外に屋敷内には自分たちしかいないこと、明日も使用人はこないことを伝える。カインに不便はかけるだろうが、彼の頑なな態度を思えば知らない者に世話を焼かれるよりいいだろう。
「お従兄様、ご案内をお願いしても? 私はお湯の準備をしてくるわ」
「分かった。……従者殿、ご案内いたします」
カインには見えない角度でルーカスに目で合図をした。幼い見た目ではあるが、丁重に扱わざるを得ない客人だ。どう見てもプリシラに好意的とは言えないカインと余計な摩擦を起こさないためにも、必要最低限の接触で済ませようと二人は気を回したのだが。
「おい、女」
無礼な呼びかけに二人揃って振り向いた。エントランスの背の高い木製の扉の前では、カインの華奢さが酷く目立つ。彼はもう先ほどまでの弱った姿から立ち直り、憮然とした態度で睨むようにこちらを見ていた。
「お前でいい。お前が案内しろ」
どういう風の吹き回しか、プリシラに案内しろと言う。ちらりと従兄と目を見合わせてから、プリシラは軽く膝を曲げて礼をした。
「承知いたしました。ではどうぞこちらへ。お従兄様、悪いけれどお湯の準備をお願いね」
プリシラは礼を失しないよう注意しながらも、歩調を僅かに早めた。ハンナが夕食を用意してくれているが、来客用に手を加えなければならないだろう。それに何よりも、早く一人になって今日の出来事を考えてみたかった。
「こちらです」
二階にある客間の前で足をとめたプリシラは、扉を開くと室内のランプに火を灯した。
窓の大きな広い部屋だ。晴れた時の眺めは素晴らしく、陽光を存分に取り込める作りになっている。
「カーテンを開けたまま眠ると、窓からの朝日で目が覚めるんです。晴れた日限定なのが残念ですわ。ベルリッツで太陽の光はごちそうですものね。もちろん、眩しいのがお嫌ならカーテンを引いてお寝みになれば」
「言っておくが」
世間話をする気など微塵もないカインは、プリシラの説明を遮った。
「ご主人様がお前に興味を持ったからといって調子に乗るな。あのお方は、お前なんかには考えもつかない辛い目に遭ってこられたんだ。気休めにお前のようなつまらない女を構っても、そこに意味などない。弁えておくんだな」
これを言うために自分に案内をさせたのだと分かり、プリシラはあっけに取られた。一方、言うだけ言ってスッキリしたらしいカインは「分かったらさっさと出ていけ」とつんと顔を背けている。
言われた内容は酷いものだが、目線の高さしかない身長に女の子のような可愛らしい顔、何より教え子と変わらない年恰好では怒る気にもならない。むしろ、毛を逆立てる子猫を想像してしまい、プリシラはなんだか可笑しくなった。
ふ、と息を吐く。いけないと顔を引き締めたが、耳ざとくそれに気づいたカインは勢いよく振り返った。
「何が可笑しい」
「いいえ、私は何も」
「嘘をつくな! 言いたいことがあるならさっさと言え!」
栗色の巻き毛に、ビロードのような濃い茶色の瞳。クリーム色の肌に指先でつまんだような鼻。
険のある目つきを除けばそのまま陶器人形として通用しそうだ。見た目の幼さは教え子を思わせるものの、彼の内面はそれよりもずっと大人びていることをプリシラは感じ取っていた。
「従者様の忠誠心に感心しておりました。ご心配にならずとも、自分の立場は十分理解しております。……久しぶりの外出で、侯爵様のご興味を惹いたのがたまたま私だったというだけのこと。新鮮味が薄れれば、当家にお越しになったことすらすぐにお忘れになるでしょう。従者様にはご不自由をおかけいたしますが、それまでご辛抱いただけたらと」
「黙れ!」
ギリギリと歯を食いしばったカインは、怒りに目を燃え上がらせた。調子に乗られるのは業腹だが、かといって主を理解していると言われるのも気に喰わないといったところだろう。しかしプリシラは恐れることなく静かにカインを見返した。
「従者様。先ほどから何かといえばそうやって怒鳴ってばかりおいでですのね。一つ申し上げると、怒りは人を幼く見せますわ。侯爵様の従者という自負をお持ちなら、容易く怒りを表に出されないほうがいいでしょう。……侯爵様のためにも」
最後の一言が怒りを更に煽ったようだ。カインはダンッと足を踏み鳴らすと、顔を紅潮させながら大声で怒鳴った。
「お前如きが知ったような口を利くな! この……人間風情が!」
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