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第一章

侯爵ジャスティン・オーガスタス・ブラックバーン

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 プリシラは、高い位置にある顔を魅せられたように見つめていた。すると、形のよい目がスッと細められ、唇の端が下がる。そんな僅かな表情の変化ですら興味深く、目が離せずにいたプリシラだったが、銀の瞳が潤んでいるのに気がついてようやく我に返った。

 ――もしかして、私が何か粗相をしてしまったのかしら。ご不快な思いをさせてしまったとか?

 ただ黙って隅に控えていただけのプリシラだ。心当たりはないものの、他に原因も思い当たらない。よく考えてみれば、目の前に侯爵がいるというのに自分はまだ挨拶すらしていないではないか。
 ハッとして淑女の礼を取ろうとして、バージニアが少年から罵倒されたのを思い出した。この状況で取るべき振る舞いが全く分からない。困惑しながらも、折りかけた膝をぎこちなく伸ばした。
 どうすればいいのだろう。思わず従兄へ助けを求めようとしたプリシラは、いきなり両手を握られて飛び上がりそうになった。もちろん、握ったのは目の前の男性だ。

「君……名前は?」

 圧の強い視線に見据えられる。はく、と口を開いたが声が出ない。焦るプリシラに、さっきまで目を潤ませていたはずの侯爵は満面の笑みになった。

「プ、プリシラ・マリエル・オズボーンでございます」

 眩い笑顔を向けられながら、どうにか声を絞り出した。侯爵は握ったプリシラの手を胸の高さまで持ち上げると、プリシラ、と小さく呟いた。

「では君が、オズボーン子爵の忘れ形見なのか。……可愛らしい、素敵な名だ。僕はジャスティン・オーガスタス・ブラックバーン。君にはジャスティンと呼んでもらいたい」

 プリシラは唇を動かしたが、意味のある言葉を発するより前に次の質問が繰り出された。

「年はいくつ?」
「今年、二十歳になりました」
「僕のひとつ下だね。趣味はなに?」
「絵、を描いています」
「絵か。水彩? 油彩?」
「どちらも……どちらもよく書きます」
「僕も絵は好きだよ。今度、プリシラの描いた絵を見てみたいな」

 ジャスティンは嬉しそうに薄い唇をほころばせた。雪花石膏の肌が心なしか上気しているようだ。プリシラはもう何が何だか分からない。
 混乱の極みに陥ったプリシラにとって、割り込んできた従兄の声はまさに天の助けのように聞こえた。

「侯爵様、ここは書斎ではありませんよ。お急ぎだと仰せでしたでしょう。どうぞこちらへ」

 ルーカスは穏やかな表情を保ってはいるが、目は真剣でどことなく怒りを漂わせている。従妹に対する侯爵の突飛な行動を許容していないことの表れだ。
 にもかかわらず、それを十分に感じ取ったはずのジャスティンは、気にする様子も見せない。それどころか、熱望していたはずの蔵書の閲覧でさえ興味を失ってしまったようだった。

「ああ、いや……」

 辛うじて反応したが、ジャスティンの視線はプリシラに縫い付けられている。

「……そうだな。セント・ルーカス、私はプリシラに案内してもらいたい。それから、急で悪いが晩餐を用意してもらえるか。席はプリシラの側に頼む」

 今度こそ、その場にいた全員が――侯爵の随伴者も含め――驚愕して一切の動きを止めた。
 決して人前に姿を現さないと言われる領主のこんな様子を、一体誰が予想できただろう。対外的には孤児で爵位もない平民の、労働者階級の子供を教える教師へ夢中になる侯爵の姿など。

 だがおそらく、この場にいる誰よりも信じられない思いでいるのはプリシラだった。
 高貴な身分の方の訪問だ。従兄が恥ずかしくないだけの準備をして、出迎えを済ませた後はハンナと控えの間で待機するつもりだったのだ。
 それが、どうして今こんな風に侯爵と手を握り合っているのか。甘い笑みを向けられ、他に何も目に入らないと言わんばかりに見つめられているのか。
 夢想だにしなかった状況に、プリシラはくらくらと目が回りそうになる。そんな中でも、どうやら自分が侯爵に気に入られたらしいことだけは微かに理解した。

「侯爵様。ご案内なら私がいたしますわ」

 誰よりも先に衝撃から立ち直ったバージニアが申し出る。両親に溺愛され、驕慢な振る舞いをしていたのも今は昔。彼女は彼女なりに自らの立場を理解していた。
 父親の俗物さに眉を顰めることはあれど、美しく生まれついた一人娘を高く見積もりたいのは親心だ。それを真に受け高望みをした結果、老嬢オールド・ミスと呼ばれるまでになってしまった。
 だがそれをただ嘆いても始まらない。いつかは自分も嫁がなければならないし、今まで散々待ち続けたのだから、それなりの相手には恵まれて然るべきだろう。

 バージアはプリシラが嫌いだった。
 彼女は若く美しい。自分の手元から痕跡もなく過ぎ去った宝物を、プリシラはその価値に気づく様子もなくただ浪費しようとしている。
 プリシラの健康的で美しい姿を見ていると、自分の愚かさを突きつけられているよな気分になる。苛立ちが募って仕方がない。だからどうしても、彼女には厳しい態度になってしまうのだ。

 バージニアは二人のすぐ側に近寄った。プリシラは薄く口を開き、ぼんやりとして侯爵の顔を見ている。こんな間の抜けた顔で、どうして侯爵様の心を掴めたのかしら。綺麗に化粧を施した唇を笑みの形にして、バージニアは侯爵の横顔を見上げた。

「……君は?」

 ジャスティンは相当な苦労の末にプリシラから視線を引きはがし、近寄っていた令嬢を見下ろした。冷ややかな光を放つ銀色の瞳に一瞬怯んだものの、バージニアはスッと背筋を伸ばして貴族令嬢の礼をする。地元では気取っていると思われる仕草だが、侯爵に対してなら適切な振る舞いだ。
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