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第七章

王太子の婚約者②

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 ぷりぷりと怒る姿を見守っていると、それに気づいたクラリスは困った顔で少しだけ眉尻を下げた。

「本当にごめんなさい。アレクシス様からの申し込みを断っておきながら、こんな茶番を演じてしまって。もう兄のことは気になさらないで」
「君が謝ることはひとつもないよ。だからそんな顔をしなくていい」

 アレクシスは左手――手を繋いでいるのとは反対側――の指の背でクラリスの頬を撫でた。菫色の瞳が和み、アレクシスと見つめ合う。

 彼らが二人の世界に入っている隣で、好奇心を掻き立てられたらしいジョージが口を挟んだ。

「僕も教えてもらいたいな。ハリントン卿から届いた婚姻の申し込みをもみ消しておきながら、なぜわざわざ呼びだして嘘の情報を与え、その反応を見るような真似をしたんだい? もしかして、謁見室で彼がもう一度申し込んだとしても、許すつもりはなかったんじゃないのか?」

 アレクシスはクラリスからほんの少しだけ身体を離し、ルークの様子を窺った。今更どんな思惑があったと打ち明けられようがクラリスを手放すつもりなどない。ただ、彼が何と答えるかには興味があった。

「もしあの時申し込まれていたとしたら――」

 ルークは静かな目で妹を見つめた。

「どうだろうな。それでも断っていたかもしれない」
「何ですって?」
「クラリス、落ち着いて」

 クラリスはサッと立ち上がった。それでも優雅に見えるのはさすが王族といったところだが、このままではまた後で赤面するようなことを言ってしまうかもしれない。両手を取って優しく宥めると、桜色の唇をキュッと引き結んで手を握り返してくる。
 クラリスがまた椅子に腰掛けたところで、ようやくアレクシスはルークに向き直った。

「私の申し込みを断った理由をお教えいただけますか。やはり王女の降嫁先として、男爵家では身分が足りないと?」

 しばらくじっとアレクシスを見ていたルークは、フッとため息をついて睫毛を伏せた。髪色と同じ長い睫毛と細い鼻梁。俯く顔がドキリとするほどクラリスに似ている。

「父上だ」

 ルークが口にしたのは、予想もしていないことだった。
 クラリスも目を大きく見開いて兄を見ている。ルークは目を伏せたまま話し始めた。

「クラリスのことを父は溺愛していた。母は妹を早く嫁がせようと考えていたが、父はそれに反対していたし、クラリスを嫁に出したくないといつも愚痴っていた。そして、嫁がせるのにしても父の目に適った相手でなければならず、たとえそれなりの男だったとしても、一度申し込まれたくらいで簡単に許す訳にはいかないと言っていたんだ」

 ルークは顔を上げた。目の前にはアレクシスと、彼に身を寄せる妹がいる。

「だからハリントン卿からの申し込みを断った。クラリスが誰を想っているかには気づいていたが、もし父上が生きていたらそう簡単に許さないだろうと思ったからだ。……身分や地位を問題にしたことは一度もない。男爵がたとえ国王だったとしても、私は同じことをしただろう」
「お父様が……」

 亡き父の話を聞き、クラリスは目に涙を浮かべている。アレクシスは菫色の瞳が涙で決壊する前に、ハンカチをそっと目尻に押し当てた。

「私……何も知らなかったわ。酷いことを言ってごめんなさい」
「いや、いいんだ。お前の気持ちを知りながら、全てを明かしていなかった私も悪かった。……これで許してくれるか?」
「ええ、もちろんよ。お兄様も?」
「私がお前に腹を立てたことは一度もないと知っているだろう」

 クラリスはパッと笑顔になった。四阿の中を風が通り、プラチナブランドの髪が滑らかな頬をなぶる。アレクシスは目を細めて絹糸のような髪を耳にかけてやりながら、今の話について考えを巡らせた。

 見たところルークは自覚ありの、しかも重度のシスコンだ。父親の逸話は嘘ではないだろうが、本当にそれだけが原因でアレクシスの申し込みを断ったのだろうか。
 よく言えば穏やか、悪く言えば凡庸で変化を嫌った先王とは違い、聡明で頭が切れるというルークだ。どことなくジョージと似た雰囲気を持っている。つまり、見た目や言葉に惑わされず、彼の狙いを慎重に見極めねばならないということだ。

 確かに爵位は問題ではなかったのかもしれない。だがアレクシスほどの富豪が妹に結婚を申し込んだなら、ダメージを受けた母国の立て直しに弾みがつくことくらい容易に想像できるはず。クーデター以前、いや建国以来の目覚ましい発展を遂げられる未来を捨ててもいいと、そう思うほどの理由とは何か。
 溺愛する妹を手放したくない?
 ……それも確かに理由のひとつだ。しかし。

 ハンカチで涙を拭うクラリスを優しい目で見てから、アレクシスは冷えた視線をルークに向けた。

 人は、手に入らないものに対して執着を深める傾向があるという。
 アレクシスほどの金持ちであれば、望んで手に入らないものなど何一つないだろう。では、そんな彼がどうしても手に入れられない「何か」を見つけたらどうするか。

 茶を飲んでいたルークは、アレクシスの視線に気づいて片眉を上げた。言いたいことがあるなら言ってみろと言いたげな仕草だ。

「……結婚のお許しをいただいたと、そう考えてよろしいのですか」
「ああ。今更反対して、妹に憎まれては敵わないからな」

 カップを下ろしたルークは、椅子の背に悠然と身を預けた。

「だが、必ず幸せにしてやってくれよ。……亡き父が安心できるように」

 アレクシスは立ち上がり、片腕を折って腹に当てながら一礼した。

「ありがとうございます。お言葉を心に刻み、クラリス殿下には幸せにお暮しいただけるよう日々精進いたします」

 そして最後に実務的な言葉を付け加えた。

「貴国の復興についても、ハリントンとして最大限の支援をお約束いたします」
「それは助かる。……期待していいのか」
「はい、それはもう」

 クラリスとの結婚を決意したときから、シエルハーンへの援助は考えていた。彼女が国に残した兄弟のことを思い悩まずに済むよう、当初から相当な規模の支援を行うつもりだったのだ。
 だが結婚の申し込みはあっさりと断られ、傷心のままクラリスに再会したアレクシスは想いを再認識し、そして……――。
 
 もし最初の申し込みのまま結婚が決まっていたら、支援する金額や規模は違っただろうか。
 アレクシスには分からない。だが、いい話風にまとめられた事の真相はそれだろう。表現は悪いが、ルークはアレクシスを焦らすことで妹の「値」を吊り上げたのだ。
 今回のルフトグランデ訪問の名目が何であれ、アレクシスを自分の目で見極めようとしているのは確かだ。そして万が一自分の眼鏡に適わなかったり、この三ヶ月の間にアレクシスの気が変わっていたならそれまでのこと。そんな男に妹を嫁がせずに済んでよかったと思われてお終いだったろう。ルークの唯一の誤算は、クラリスの想いの深さを見誤っていたことだ。

 ――このたおやかなクラリスが、思わず扇を投げた程だからな……。

 アレクシスはでれっとなりそうな顔を引き締め、既に考えていた支援内容に頭の中で手を加えた。こうなったら、絶対にこの義兄をあっと驚かせるほどの支援をしてみせる。

「クラリス姫。お二人で庭をご覧になってはいかがですか。空気も爽やかですし、今の時期は薔薇や芍薬ピオニーが綺麗ですよ」

 ジョージが声をかける。側に控えていたメイドがすぐにパラソルを持ってきて、二人はあっという間に庭園へ行くことになった。どうやらルークとアレクシスの間に飛び交う火花に気づき、恋人と二人きりにすることで気分転換をさせようということらしい。

 別に腹を立てている訳でもなかったが、そういうことならと言葉に甘えることにした。アレクシスはエスコートのために肘を軽く曲げてクラリスへ差し出したが、彼女は上目遣いに見つめるだけで手をかけようとしない。
 どうしたのかと上体を折って顔を近づけたアレクシスの耳元で、クラリスは小さく囁いた。

「……手を繋いじゃだめ?」

 こんな可愛らしいお願いをされて、断れる男がいるだろうか。
 ん゛ん゛っ、と咳払いをするふりで顔を逸らしたアレクシスは、頬の内側を噛むことでどうにか表情を取り繕った。そして、思い切り抱きしめたい気持ちを抑えつけながら恭しく手を差し出す。
 
 白いレースのパラソルで、赤くなったクラリスのうなじは隠された。だが、アレクシスの手の中には彼女の小さな手がある。あの、話せない「フレディ」が文字を綴った手だ。
 何と素晴らしい日だろう。澄み渡った青い空を見上げながら、機嫌よく歩きはじめたアレクシスの背後から「ああ、ハリントン卿」とジョージが声をかけた。

「ウィンシャム公が療養生活に入ってもう六か月……いや、七か月目に入るところだが、長男が神職に就いたことを知っているか」

 アレクシスは一度瞬いて、庭園へ向けていた足を戻した。

「はい。元から神職に興味があったということですが……当主の病を長く隠していたために、公爵家の屋台骨はかなり揺らいでいたと聞いています。そんな中での当主代行ですから余程大変だったのでしょう」
「ああ。世俗から離れたいとの思いを抑えられず出家に至ったようだ。結局二男のニコラスが爵位を継ぐと届が出されている。だが、さて……金融界に顔の利くのせいで、融資を受けることもままならないようだが。果たしてどれだけ踏ん張れるかな」

 意味ありげなジョージの言葉を目礼だけで受け流す。今のアレクシスにはどうでもいい話だった。

「さあ。案外上手くやれるかもしれませんが、もし彼が私に助けを求めてきたら助勢してやるつもりです。何と言っても寄宿学校の同窓ですので」
「ああ、同窓の絆は永遠に続くのだったな。……引き留めて悪かった。さあ、行ってくれ。私たちはここで待っているから」

 進退窮まったニコラスが助けを求めてくるかどうかは五分五分だろう。それを見捨てるか、屈辱を与えながら助けるか……。どちらにしてもクラリスを傷つけた代償は支払わせるつもりだ。

「アレクシス様」

 くいと手を引いたクラリスを、甘い笑みで見つめる。二人はゆっくりと歩きはじめた。

 




 


「美男で知られるハリントン男爵様と、妖精のように可憐なクラリス姫。本当にお似合いのお二人ですこと」

 セリーナがほう、とため息をつけば、ジョージはすねた様子で唇を尖らせた。

「僕たち以上に似合いの二人はいないと思うけれど」

 その口ぶりにセリーナはクスッと笑う。

「それはそうよ。私たちの次くらいね」

 尖らせた上唇を人差し指でツンとつつく。まだ不満そうな顔の原因に思い当たり、セリーナは今度こそ声を上げて笑った。

「私にとって一番ハンサムで、一番魅力的な男性はあなたよ。知っているくせに」

 ようやく機嫌をなおしたジョージは、人目も憚らず婚約者の頬にキスをする。ルークはいちゃつく二人を呆れた目で見ていた。

「ルークにも愛する人ができたら、僕の気持ちが分かるよ」

 ジョージが砕けた口調で言う。シエルハーンとルフトグランデ、そしてエーベルの王太子は三人とも年が近く仲もよい。ルークは一足早く王位に就いたが、内輪だけの場では気安く話して欲しいとジョージに伝えていた。

「クラリス姫が嫁いでしまわれたら、陛下もお寂しいことでございますね」
「誰かいい人はいないのかい? よかったら僕の従妹の――」
「いや、遠慮しておこう」
「なぜ……そうか! さては誰かいい人がいるんだな? 妹以外の女性は路傍の石と同じだという顔をしておいて隅に置けないな。白状しろ、どこの誰なんだ」
「ああもうやめてくれ! そんな女はいないし、第一私は当分結婚するつもりはない。国の立て直しに全てを捧げる覚悟だからな」
「そうなんですの?」

 セリーナが目を丸くする。若く聡明な王の治める国は、妹婿の助力もあり発展が約束されたようなものだ。側近くで王を支える王妃の存在が重要になるだろうに。

 ――それに、陛下は美しいクラリス様とよく似ていらっしゃるわ。

 口に出せば婚約者の機嫌を損ねると、セリーナは心の中だけで呟いた。すらりとした体躯に、女性と並んでも見劣りしないほどの美しい容姿。隻腕の王を支える王妃になりたい女性はいくらでもいるはずだ。
  
「ふむ。君がそう言うなら余計なことはしないつもりだが……まあ、いつ恋に落ちるかなんて誰にも分からないからな。明日運命の相手に出会うかもしれないぞ」
「まさか。だがもしそんな女性を見つけたら全力で口説くことにするよ」
「それがいい。他の男に奪われたら悔やんでも悔やみきれないからな」

 どんな女性がいいか話しはじめた二人から目を逸らし、ルークは遠ざかる白いパラソルを見つめていた。

 可愛いクラリス。こんな遠い国になんて、本当は嫁がせたくなかったのに。
 まだたった十八だ。あと四、五年は手元に置いておきたかった。
 長年共に暮らした妹はルークの考えをすぐに察し、説明などしなくても細やかにサポートしてくれている。左腕を喪っても、王としてどうにかやってこられたのは妹がいたからだ。

 だが兄としてではなく王として考えるなら、ハリントン男爵は文句のない降嫁先だった。調べた限りでは女性関係も問題なく働き者で、何より金の使いどころを知っているところがいい。金持ちでも吝嗇なら最悪だが、アレクシスは妹のためなら――そしてシエルハーンのためなら――惜しみなく金を使ってくれるだろう。
 よく分かっているのだ。それでも、兄として妹の手を素直に離すことができなかった。

 ――幸せになれ。父上と母上の分まで。

 ルークは切ない思いで小さくなる妹の背中を見送った。



 二日後。ウィンズロウ・ハウスの晩餐会に招待されたルークはジュリアナと出会って激しい恋に落ちるのだが、当然彼はまだそのことを知らない。
 
 
 
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