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第七章

王太子の婚約者

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 真っ先に衝撃から復活したらしいジョージがひとつ咳払いをした。
 
「あー、ハリントン卿。これには少々説明が必要なんだが」

 その呼びかけに、アレクシスは混乱しながらも顔を上げた。王太子はアレクシスに抱きしめられているクラリスに目を遣り、もう一度咳払いをする。

「先ほど話したとおり、私の結婚は既に決まっている」

 腕の中の華奢な身体が強張る。アレクシスは一瞬遅れてその言葉の意味を理解した。

 は何を言っているんだ。この期に及んでクラリスと結婚するだと?

 全身を怒りが支配する。相手が王だろうが王太子だろうが、こうなったら容赦はしない。

 ――ハリントンの全勢力を以て叩き潰してやる。

 アレクシスは僅かに顎を引き、冷酷な決意に満ちた青い目で王太子をねめつけた。

「殿下。あなたが彼女を奪おうとなさるなら私にも考えが――」
「セリーナ、こちらにおいで」

 両脇に立っていた男女の中からしずしずと進み出たのは、一人の貴族令嬢だった。その令嬢は王太子の手を取り、隣に寄り添う。
 淡いイエローのドレスを纏った美しい女性だ。アレクシスは目を眇めた。どこかで見た覚えがある気がしたのだ。王太子はその女性に、とろけるような甘い顔で微笑みかけた。

「我が国では乳兄弟妹ちきょうだいの婚姻が禁じられている。これは、近親婚を禁ずる法の条文に記された、同じ乳を飲んだ者同士を血縁者と見做すという一文から定められたものだ。だが、いかにも前時代的な考えだとは思わないか。本当に血が繋がっているならともかく、一緒に育っただけならただの幼馴染だろうに」

 アレクシスはようやく気がついた。彼女はメルボーン侯爵邸の夜会でクラリスが介抱した女性だ。確か名は……セリーナ・ノークス。ハドリー子爵の娘で、近衛騎士を務めるフランク・ノークスの妹。そして、彼らは王太子ジョージの乳兄弟妹だったはずだ。

「そこで私はこの法について貴族院で発議を行い、有能な議員たちによる入念な検討を経て、このたび無事に法改正が行われた。これにより、我が国では晴れて乳兄弟妹の結婚が可能となったのだ」

 ジョージはセリーナの手の甲にキスをした。先ほどの、クラリスに対する礼儀正しい態度とは違う、愛情を示す物慣れた仕草だ。

「で、殿下!」

 脇に控えていた男性が一歩前に出る。それが誰かアレクシスも知っていた。貴族院副議長で大臣でもあるハワード伯だ。
 彼は第一王子派として知られ、ジョージを王太子とすることに最後まで反対してきた。結局、聡明なジョージを国王自身が王太子に指名したことで騒ぎは収束したが、未だにしこりの残る関係だということを、伯父のバークリー公爵から聞いたことがある。

「そのような重大事を、勝手にお決めになるのは感心いたしません。しかも相手は子爵家の娘ですぞ。陛下も何と仰ることか」
「父上には既に許可をいただいた。国法の改正さえできたなら結婚してもよいとな」
「ぐ……そ、そう、一国の王太子ともあろうお方が、法改正を我欲によって行うとはなんたること! これは問題だ。すぐに改正案を差し戻して――」
「控えよハワード! そなたの発言、余りにも無礼であるぞ!」

 ぴしりと空気が引き締まった。しんと静まる謁見室の中で、ジョージはハワード伯に厳しい目を向けた。

「私がセリーナと結婚することと、乳兄弟妹との婚姻を合法化することは全く別の話だ。ルフトグランデは周辺国の中でも進歩的な国として知られているが、それはここにいるハリントン男爵のように経済面で国を豊ませる者の存在と、同性婚をいち早く認めるなどした我が国の先見性にある。様々な立場の者が等しく幸福に暮らせる国づくりを各国が認めている証拠だ」

 ハワード伯は返事もできない。アレクシスのように仕事をする新興貴族を見下す者は一定数いるが、ハワード伯はその筆頭なのだ。

「そして今回の法改正は、その必要性を貴族院に於いて十分に確認し、審議を行ったうえで公布に至った。それを副議長であるそなたが知らぬはずはないだろう! 貴族院の役割りがそれほどまでに軽く意味のないものだと言うならば……ハワード伯、そなたの意向は私から父上に申し上げておくことにしよう」
「お、お待ちください!!」

 ハワード伯は慌てて壇上へ近づいた。貴族院議長のウィンシャム公が療養生活に入って早半年。その間ハワード伯が事実上の議長としてその職務を代行してきた。このままいけば議長の座は自分のもの。名誉職の色が強いとはいえ重職には違いなく、彼はその地位を喉から手が出るほど欲していた。下手なことを言ってそれをふいにする訳にはいかない。
 自分と同じ派閥から王太子妃を選出しようと目論んでいたハワード伯はほぞを噛みながらも頭を下げるより他に方法はなかった。

「…………王太子殿下のご婚約を、心よりお祝い申し上げます」

 ジョージの目が狡猾こうかつに光ったのをアレクシスは見逃さなかった。だがそれもほんの一瞬のことで、彼はすぐに王太子の仮面を被り品のよい笑顔をみせる。

「では改めて言おう。私はハドリー子爵が息女セリーナ・ノークスと、三か月の婚約期間を経たのちに結婚する。直ちに婚約成立の公告をするように!」





「……つまり、殿下はセリーナ嬢が恋人であることを明かすことなく、国法の改正を行いたかったと。だからこそ水面下で婚姻の準備を進めておられたと、そういうことですか」

 騒ぎが治まった後のこと。アレクシスたちは王宮の庭園にいた。心地よい風が吹き抜ける四阿あずまやは、初夏の瑞々しい植物の香りで満ち溢れている。
 
「そういうことだ。私とセリーナは昔から愛し合っていたのだが、王子である私が法を破ることは許されない。そんなことをすれば、兄を王太子にしようとする者たちが動き出すと分かっていたからな」
「そこで、難を逃れてルフトグランデにやってきたクラリスを、これを幸いとばかりに隠れ蓑に使って利用したのですね」
「結果的にはそうなってしまった。申し訳のないことに」
「乳兄弟妹を王太子妃に望んでいることが知られてしまえば、おそらく改正法案は通らなかったでしょう。……婚約期間が三か月と短いのは、余計な妨害を防ぐためでしょうか。ハワード伯の他にも、何やら腹に一物ある連中がいるようですが」
「いや。単に私が待ちきれないだけだ。一日でも早くセリーナを王太子妃にしたくてね」

 そこでジョージはニヤッと笑った。アレクシスは謁見室で見た王太子の狡猾な目を思い出して渋面になる。
 乳兄弟妹の婚姻を禁ずる法は確かに問題があったが、改正に至る道筋は王太子の我欲と私欲にまみれていた。ハワード伯にはああ言ったものの、もしセリーナが乳兄弟妹でなければ貴族院への発議はなかったか、あったとしてもずっと後のことになっていただろう。

「……私をたばかったことはともかく、クラリスには本当のことを伝えていただきたかったものです」

 重々しい口調で言った。事情については理解したが、いいように転がされて納得できない思いがある。しかし……。
 自分の右手を握る小さな手を眺め、アレクシスは緩みそうな頬を懸命に引き締めた。

 彼らは四阿に設えた円形のガーデンテーブルに、ルーク、ジョージ、セリーナ、クラリス、そしてアレクシスという順で座っている。この席順には理由があった。
 本来ならルークの隣に座るべき妹のクラリスは、それを避けてセリーナとアレクシスの間に入り、椅子を彼のすぐそばに寄せてちょこんと座った。そして、テーブルの下でそっとアレクシスの手を握り……それからずっと二人は手を繋いでいるのだ。

 クラリスの兄とはいえ隣国の王と、自国の王太子が同席している。さすがにまずいだろうと思ったアレクシスも、潤んだ瞳で見上げられて思考力が低下し、すべすべした可愛らしい手を握ったままだ。
 葛藤の末、とうとうアレクシスは開き直った。十も年下婚約者――悪びれずにそう断言する――の言いなりになる情けない男だと嗤いたければ嗤え。今の彼はクラリスの上気した頬を見るだけで叫びだしたいような、彼女を抱き上げて飛び跳ねたいような心地になるのを必死に抑えているのだ。手を繋ぐことくらい大目に見てもらっても罰は当たらないだろう。

「私のせいで、ジョージ殿下にはご心労をおかけしてしまって」
「何を言う! セリーナには外出を控えさせ、籠の鳥のような生活を送らせてきたんだ。結婚できる環境を整えるのは私の役目だよ」

 手を繋ぐだけで盛大に照れているアレクシス達とは違い、王太子とセリーナは堂々といちゃついている。
 思えば夜会の席でセリーナをみつけた彼女の兄は随分慌てていたし、王太子も彼女の存在に気づくとあっさり侯爵邸を後にしていた。
 爵位が低いうえに国法で婚姻を禁じられている立場のセリーナだ。彼女が王太子の恋人だという情報が漏れてしまえば、身の安全を確保するのは難しい。秘密を守るために外出を制限していたところが、偶然夜会で鉢合わせて驚いたということなのだろう。
 よく考えれば、いくら乳兄弟妹とはいえ王太子がわざわざ家まで送るのもおかしな話だ。おそらく邪魔の入らない状況で少し説教をした後、今のように恋人としての時間を持ったのだ。ジョージはそうやって、全てを明らかにできる時までセリーナのことを徹底的に護ってきたに違いない。

「クラリス姫。我々の都合に巻き込んでしまい、申し訳ないことをいたしました。何より、あなたを傷つけてしまったことを心からお詫びいたします」
「いいえ! そのようなこと」

 ジョージとセリーナに揃って頭を下げられたクラリスは優雅に立ち上がり、同じように深く礼をする。一瞬だけ離された手はまたすぐに繋がれた。

「どうかお気になさらないでくださいませ。私が兄の嘘に気づかなかったのがいけないのです。それに私は……皆さまの前であんな醜態を……。私のほうこそ、王太子殿下の婚約発表の場を騒がせてしまったことを、どうやってお詫び申し上げればいいのか分かりませんわ」

 クラリスは左手をアレクシスに預けたまま、右手で赤くなった頬を押さえた。事情を知ってから、彼女は身の置き所もないといった風で小さくなっていたのだ。

 アレクシスはといえば、耳に心地よいクラリスの声にうっとりと聞きほれていた。彼女の声なら永遠に聞いていられる。まるで天界からの妙なる調べのようだ。
 クラリスとセリーナが会話するのを楽しく聞いていたアレクシスは、隣の席に座る男性が黙って茶を飲んでいるのを横目でちらりと盗み見た。

 クラリスが兄の嘘と誤魔化しについて聞かされたのは、謁見室での騒ぎが収まった後のことだ。彼女は最初真っ赤になり、次いで真っ青になった。このまま気を失うのではないかとアレクシスは慌てたが、気丈にも持ちこたえた彼女は縋るようにしてアレクシスの手を握りしめた。
 そして、それっきり彼女は兄のことをまともに見ようとしていない。この反応をみるに、本気で腹を立てているのだろう。

 妖精のような可憐な見た目に反して、クラリスは芯の強い女性だ。国を追われてからたった一人、弟の面倒をみていたことからもそれは明らかだ。
 こういうタイプは怒らせると後が怖いと聞く。結婚生活でのよき参考としよう。
 それが自分に向けられた怒りでない限り完全に他人事のアレクシスが、クラリスの柔らかい手の甲を親指で撫でていると、頬がチリッとするほど強い視線を隣から感じた。

「……どうかなさいましたか」

 義理の兄になる男だ。腹に据えかねるが無視することもできない。ただ、多少よそよそしい態度になるのは致し方ないだろう。

「ハリントン卿。あなたは妹を妻にしたいと、本気で考えているのか」
「お兄様!」
 
 パッと顔を向けたクラリスは怒りに顔を紅潮させた。

「まだそんなことを仰るの? 私にアレクシス様のことを黙っていただけではなく、『彼が申し込んできたら結婚を許可する』だなんて、どれほどの侮辱か分かっていて? そのうえ『本気で考えているのか』ですって? 私たちを馬鹿にするのもいい加減にしてちょうだい!」

 白い頬がピンクに染まり、菫色の瞳が吊り上がっている。
 ……たまらなく可愛い。腹を立てていてもこんなに可愛い女性がこの世にいるとは思いもしなかった。

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