【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み

ひなのさくらこ

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第七章

王太子からの招待

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「……これでいいわ」

 ふう、とジュリアナは額を拭う。

「派手すぎないか」
「何を言っているの! これでもまだ地味なくらいよ」

 本当にそうなのだろうか。アレクシスは鏡に映る自分の姿を疑わしい思いで眺めた。
 アレクシスが着ているのは黒い上着と光沢のある明るいグレーのベスト、同色のトラウザーズだ。黒の上着と言っても襟や袖、そして前身頃に濃いブルーの布と金糸の刺繍があしらわれており、非常に凝ったつくりであることが一目で分かる。もちろんそのブルーの布地は天海の稀布だ。
 形よく結ばれたクラヴァットと、袖口から覗くのは淡雪のように繊細なサビーヌ・ホームのレースだ。靴は磨き抜かれたヘシアンブーツ。礼装用の刀を腰に佩き、髪を整えたアレクシスはどこからどう見ても文句のつけようのない見事な出で立ちだった。

「ちょっと待って。あとは肩にこれだけ……」

 しかし、満足を知らない妹は勲章を片手に近づいてくる。アレクシスは半歩後ずさった。

「勲章までつけるのか。非公式の謁見だろう」
「非公式だろうが何だろうが、王族と会うのだからこれくらいは当然よ。それからクラヴァットにはこのピンをつけてちょうだい。カフスとお揃いなの」

 王太子の招きで王城へ向かう兄を完璧な姿にすると決めているジュリアナは、上着の胸にいくつもの勲章をつけた。これらは実際に王からアレクシスに贈られたものだが、中にひとつだけ男爵家に代々受け継がれている勲章がある。ルフトグランデ王国を救ったハリントン男爵家の功を労し、永遠に称える最上位の勲章だった。当時の国王が、子々孫々ハリントン男爵家を――歴代の「ジョナサン・ハーヴェイ」を尊重するようにとの願いを込めて贈られたものだ。それを一番目立つ場所につけた妹の気持ちを思えば、アレクシスは黙ってそれを許すしかない。
 彼女にとって王太子ジョージは兄の想い人を横から奪った憎い男なのである。容姿で兄に敵う男性がいるとは思わないが、装いの点でも気を抜く訳にはいかない。ジュリアナは固く決意していた。

 妹の熱意に負けたアレクシスは、言われるがままにクラヴァットピンをつける。カフスと同じくダイヤモンドと白金でつくられたピンは当然のごとく最上級グレードのものだが、他人の目を惹くほどの大きさはない。ただし見る目がある者なら誰でも称賛せずにはいられないという玄人好みのものだ。ジュリアナが兄の好みに配慮した結果だった。

 ジュリアナとしては流行色の黄色――本人は「辛子色」だと主張していた――いベルベットの上着を用意していたのだが、兄の強い抵抗により断念せざるを得なかった。その代わりとばかりにアレクシスは妹の着せ替え人形と化している。

「そろそろお時間でございますよ」

 ブランドンが兄妹にそっと声をかけた。また男爵邸を訪ねていた彼は、従者代わりに王城まで同行することになっている。断るつもりだったアレクシスは、道中の話し相手として結局それを受け入れた。彼は彼なりにアレクシスのことを案じていることが分かったからだ。

 ポケットチーフの形を直していたジュリアナは、改めて兄の姿を確認した。

「……完璧ね。世界で一番素敵な貴公子よ、お兄様」

 にこりと笑ったジュリアナも、美しいベージュのドレスに身を包んでいる。綺麗に化粧を施した顔には、もう失恋の痛手は見当たらない。まだ残っているはずの心痛を思いやりながら、アレクシスは軽く頷いた。

「ありがとう。では、いってくる」

 キッド革の手袋をつけながら言う。てっきり部屋の中で見送るのだとばかり思っていたのに、ジュリアナとダンカンは揃ってエントランスまでついてきた。仰々しい見送りを好まないアレクシスに対して、これはとても珍しいことだ。
 アレクシスは不思議に思いながらも目線で二人に合図をし、馬車に乗り込む。

「お兄様」

 振り向けば、目を潤ませた妹と家令が同じ顔をしてこちらを見ている。そう、まるで敵地に向かう家族を見送る顔だ。

「心配するな。すぐに戻る」

 唇に微かな笑みを刷いたアレクシスは、帽子のつばに手を置いて出立の挨拶をした。





「……ご心配なさっておいででしたね」

 王城へ向かう馬車の中。ぽつりと言ったブランドンに、アレクシスは苦笑だけで応えた。

 従弟のドミニクから、クラリスと王太子ジョージが結婚すると聞かされたのはつい一週間前のことだ。
 ただちに調査したところ、ルフトグランデとシエルハーン両国で婚姻の準備は確かに進められていた。しかも水面下で密かにだ。どうやら婚約期間を可能な限り短くしようと画策しているらしく、クーデターの余波が残るシエルハーンは大わらわのようだった。

 ドミニクの父バークリー公爵は宰相の地位にある。だからこそ知り得た情報を、ドミニクはついぽろりとこぼしてしまったのだろう。
 その話を聞いたダンカンやジュリアナは驚き騒いでいたが、アレクシスは却って冷静になった。

 そうか。……そうか。
 クラリスが誰かの妻になる。
 婚姻の申し込みを断られた時から、分かっていたはずのことだった。

「王太子殿下は、どのようなご用件でアレクシス様をお招きになったのです?」

 車窓から外を眺めていたアレクシスは、数拍置いてからブランドンへ向き直った。

「……メルボーン侯爵邸の夜会で殿下とお会いしたことがあるんだ。その時に次は王城で会おうとお命じになった」
「では、そのお約束を果たすためということでしょうか」
「ああ。……いや、どうかな。あの時は従者の形をしたクラリスも一緒にいて、王城へは彼女も同行させるようにと仰ったんだ。だがおそらく、殿下はあの時の従者がクラリスだということにお気付きだろう」
「クラリス王女とアレクシス様を対面させるようなことはなさらないでしょうね? それは少々悪趣味のような……」

 そう。何の前触れもなく届いた一通の手紙。王太子からのものであることを示す封蝋の中には、アレクシスに参内するよう命じる手紙が入っていた。それと時を同じくして、シエルハーン国王と妹姫がルフトグランデを訪問するという報せが飛び込んできたのだ。
 王太子との拝謁にクラリスが同席するかどうかは分からない。しかし、可能性は十分にあるだろう。何しろ王太子は、アレクシスと自分の婚約者――公式な発表はまだないが、事実上の婚約者だ――が知り合いだと知っているのだから。

 ジュリアナはこの招待に腹を立てた。アレクシスがクラリスの降嫁を願い出たことを、王太子が知らないはずがないと言うのだ。
 国家間の取り引きで婚姻が結ばれることはままある。だから、百歩譲って二人が結婚することは仕方ない。
 だが、どうしてわざわざ二人が揃うような場所に兄を呼びだす必要がある? もしや王太子はハリントンのことを王家を脅かす存在と認識しており、クラリスを娶ることでアレクシスに屈辱を味わわせ、序列を思い知らせようとしているのではないか。王族と、いち男爵家当主という序列を。

 ほとんど泣かんばかりに訴える妹を、アレクシスは静かに諭した。
 伝え聞く王太子の様子は聡明で、舐められない程度に臣下を立てる如才なさを持っている。侯爵邸の夜会で会った際も一筋縄ではいかない周到さを感じた。
 その王太子が、わざわざハリントンを敵に回すような真似をするはずがない。なぜなら自分が本気になれば、ルフトグランデを割ることができると知っているだろうから。

 アレクシスはすぐに話を終わらせたが、ジュリアナは納得していなかったようだ。王城へ向かう日を聞きだすと、兄の衣装は自分が手配すると高らかに宣言した。社交界に於いて女のドレスが戦闘服であるのと同じように、恋敵と対峙する男にも隙のない伊達な衣装が必要なのだと言って。
 その結果、アレクシスは本来の趣味とはかけ離れたきらびやかな姿になったわけだ。

「……とんだになった気分だ」
「とんでもない! 神話に出てくる男神のような、見事なお姿でらっしゃいますよ。相手が国王だろうが王太子だろうが敵う者はありません」

 言い切ったブランドンは、何かを思い出して小さく笑った。

「覚えておいででしょうか。私の店に初めてお見えになった時のアレクシス様も、大変すばらしいご様子でした。稀布の上着が素晴らしくて、あれで警察関係者ではないと思った私はすっかり警戒を解いたのです」

 アレクシスはつられて微笑んだ。

「そうだったな」
「はい。身につけておられる物全てが一級品でしたが、中でも一番の逸品はアレクシス様ご自身でした」
「……俺が?」
「ええ」

 ブランドンは昔の荒んだ顔を思い出せないほど穏やかな顔で頷いた。
 
「私はこの商売をして長くなりますが、正直に申し上げてあなた様ほどのお方を拝見したことはありません。身につける物はもちろん自信に満ちた振る舞い、容姿、そして他を従える威容……どれを見ても世に並びのない宝物だと、私はそのように感じました」

 そして、いたずらっぽくちらりと笑う。

「あの、とんでもなく無礼な物言いもそうです。私はあなた様のご身分など存じ上げませんでしたが、仮に王族だと知らされても驚かなかったでしょう。とにかく高慢で傲慢で、自信たっぷりでいらした」
「……そうか」
「それでいいのですよ。あなた様は生まれながらの貴種でいらっしゃるのですから」

 お前はそのままでいいと――今のアレクシスのままで王太子よりも価値があるのだと、そう言いたいらしい。
 アレクシスは凍りついていた心が僅かに動くのを感じた。

「ブランドン、商売のほうは順調なのか」

 目端が利き、空気を読むのに長けたブランドンは何くれとなく家令を手助けし、今ではすっかり男爵邸の一員のようになっている。このところ精神が鈍磨していたアレクシスは、ようやく彼の生業のことが気になったのだ。
 だがブランドンは一度瞬くと、照れたような笑みを浮かべた。

「実は……店のほうは弟に任せておりまして」
「なに? 絶縁されていた弟と和解したのか?」
「はい。弟の家を訪ねて謝罪したのです。ちょうど……と言ってはなんですが、弟の失業と義妹の病気が重なって途方に暮れていたところだったようで、お互いに張る意地もなく和解することができました。全く、私が今まで行ってきた悪行を考えれば、思いもよらないほどの幸運です」

 ブランドンは意味もなく首の後ろを撫でている。

「薬代にも事欠いておりましたので、住み込みの店員として雇うことにしましてね。弟も恩義を感じたのか、懸命に励んでくれています。今では私の代わりも十分務められるほどになりました」
「そうだったのか」

 アレクシスが一人取り残されている間に、彼の生活は一変していたようだ。手伝ってくれる弟のおかげで、これほどまめまめしくウィンズロウ・ハウスに足を運べるようになったのだろう。

「ブランドン。…………よかったな」

 嬉しそうなブランドンの顔を見て、ほんのりと心が温かくなる。
 アレクシスは誰かの幸運を……幸福を、喜ぶことのできる自分が嬉しかった。死んだようになっていた心が息を吹き返したようだ。

「……ありがとう」

 唐突な感謝の言葉を不思議そうに聞きながら、ブランドンは問い返そうとはしなかった。アレクシスは車窓から近づく王城を見上げる。そびえる円錐状の尖塔と広大な森に囲まれた城は、アレクシスを待ち受けるように佇んでいた。
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