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第七章

婚約発表

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 アレクシスは新聞を開いていた。
 
 読んでいるのでも眺めているのでもない。ただ手に持って目の前に開いているだけだ。その証拠に先ほどから視線は一点を凝視するだけで微動だにせず、文字を追うこともない。

「若」

 アレクシスはぼんやりと、新聞の端にある皺を見ていた。
 指にインクが付着しないよう、毎日念入りにアイロンがけされているはずの新聞だ。それなのにこうやって、隅には皺が残っている。

「若」

 どんなに完璧に何かを為そうとしても果たせるとは限らない、まるで人生のようではないか。アレクシスは無表情のまま、密かに心の中で苦笑した。

 クラリスのことを愛していると気づいてから、彼女のためにできることは全てやりたいと思っていた。
 まさか彼女がたった一人で、叔父とはいえ両親を殺した敵と対決するとは考えてもいなかった。アレクシスは焦り、後手に回りながらもなりふり構わず囮捜査の名目でウィンシャム邸に潜入した。
 何とか助け出したはいいが、結局彼女のかわいらしい額に傷を作ってしまった。あれも結局は俺が、彼女の胸の内を打ちあけてもらえるほど信頼を得られなかった故に起きたことだ。……全て、俺の責任だ。

「若」

 クラリス。
 心の中で名を呼ぶだけで、胸がグッと詰まり呼吸すらままならなくなる。
 最後の夜。月光に包まれたバルコニーの彼女が、どれほど美しかったか。
 プラチナブロンドの髪と菫色の瞳が青白い光を纏って、本物の妖精のようだった。
 触れてしまえば自制が利かなくなる。そう思っていたのに、余りにも儚げで、美しくて……愛おしくて、手を伸ばして存在を確かめずにはいられなくなった。
 
 ああ、君は今何をしているだろう。俺のことを少しでも思い出してくれているだろうか。
 本当はすぐにでも迎えにいき、彼女の理想どおり、花の咲き乱れる庭園で跪いて求婚したい。彼女は菫色の瞳を潤ませて、イエスと言ってくれるだろうか。そうしたらあの華奢な身体を思い切り抱きしめて――――。

「若!」

 ガサ、と音を立てて新聞を取り上げられた。瞬いたアレクシスは眉間に皺を寄せ、冷ややかに自分を見下ろす家令を睨む。

「何だ」
「休憩時間はとうに終わっています。さっさと仕事にお戻りください」
「…………もうそんな時間か」
「ええ。失恋の痛手から立ち直る気配のない当主に、せめて仕事だけはきっちりとこなしていただきたいと皆が私に訴えてきているのですよ。もう七か月も経ちました。そろそろ本気で新しい人生を歩む勇気をお持ちください」

 ため息をつきながら腰を上げる主に対し、彼を子供の頃から知る家令は容赦のない言葉を浴びせる。アレクシスは無言で執務机についた。

 ダンカンの指摘は尤もなことばかりだ。
 クラリスたちがウィンズロウ・ハウスを出てから、早いものでもう七か月になる。二人はルフトグランデの王宮で一月過ごし、そして母国シエルハーンへ帰っていった。時期を合わせてエーベルからも、兄である王太子が帰国していたはずだ。

 アレクシスも分かってはいるのだ。いい加減、前に進まなくてはならないということを。だが自分でも不思議なほどやる気を失ってしまっている。
 全てが億劫で、以前はあれほど精力的に励んでいた仕事ですら手をつける気になれない。
 社交界では、紳士クラブや競馬場にも顔を出さず、あれほど好きだったボクシングジムや射撃場にすら見向きもしないハリントン男爵の体調不良説がまことしやかに囁かれているらしい。

 ダンカンはその噂に気分を害していたようだが、アレクシス自身は何とも思わなかった。というより、腹を立てる方法を忘れてしまった気がするのだ。
 何を見ても、何を聞いても心が動くことがない。怒りも、悲しみも……喜びも。全ての感情がアレクシスという人間の中からすっぽりと抜け落ちてしまったかのようだった。
 一日がとてつもなく長く感じる。食事は砂を噛むようで味がせず、空腹を感じることもない。一番苦痛なのが眠るときで、寝台の中で輾転反側しまんじりともせずに朝を迎えることが幾度もあった。おかげで寝酒の量は増えるいっぽうだ。
 時間が早く過ぎるのはクラリスとの思い出に浸っている時だけという体たらく。情けないと思うが自分でもどうしようもない。まるで心臓を――魂をどこかに置き忘れてきたような状態だった。

 またぼんやりし始めたアレクシスの前に、一組の書類が差し出された。

「お待ちかねの、シエルハーンでの事業計画書が届きましたよ」

 ひったくるように書類を奪い取ったアレクシスを、ダンカンは呆れ顔で眺める。

「……よし。俺の名は出していないな。交易路の整備はどうだ」
「もちろんうちの息がかかっていない出資者を募りました。その計画書どおりに進めば交通量は増え、宿場町も栄えるでしょう。出資者もそう長くかからず原資を回収できるはずです」
「そうか。ハリントンとしても出来る限りの支援をしてくれ。地主や地方領主との契約には交渉事に長けた者を同席させたほうがいいだろう。万が一にもうちが噛んでいると悟られないよう、王家と関係がある者にしてくれ。それから宿場町の治安向上は……ブランドン、お前に頼んでもいいか」
「承知いたしました。腕っぷしだけではなく頭のよい者を手配しましょう」

 部屋の隅で茶を淹れているのは、クーパー商会の会頭ブランドン・クーパーだった。裏稼業から足を洗い、手すきの時にはしばしばこうやってウィンズロウ・ハウスを訪問している。

「そこまでしてシエルハーンに資金を投じられるのであれば、堂々と名乗り出て援助をなさればいいではありませんか。何もこんな風にこそこそとなさらずとも」
「…………クラリスからは資金援助について、はっきりと断られている」
「ではこれから先もこうやって、こっそり援助を続けられるのですか? 全く、若がこのような腑抜けだと、私は今の今まで存じ上げませんでしたよ。このように無様な姿を先代がご覧になれば何と仰るでしょうかね」

 遠慮のない家令の言葉がグサグサと突き刺さる。黙るアレクシスの前に、苦笑しながらブランドンが茶を差し出した。

「まあまあ、あまり責め立ててはお気の毒ですよ。何と言っても初恋なのですから、アレクシス様が弱腰になられるのも致し方ありません」
「いい歳をして何が初恋ですか! いつまでもうじうじうじうじと、みっともないにも程があります。婚姻の申し出をたった一度断られたからと言って、あっさり引くなど愚の骨頂。何度でも繰り返し申し込まれるか、いっそのこと人を遣って攫ってしまえばいいではありませんか」
「しかし、外交ルートを通した正式な婚姻の申し込みを、あちらの兄君がお断りになったということは……もう他にお相手がいるということですかね」
「クラリス殿下はもうじき十九歳。いつ婚儀の話があってもおかしくはない年齢です。ご本人としては兄君を助けたいとお思いなのでしょうが、若の支援もあってシエルハーンの復興は目覚ましい。もちろん、即位なさった兄君のお力も大きいのでしょう。うかうかしていると、本当にどこかの誰かに掠め取られてしまいますよ。若、それで本当によろしいのですか」

 よろしいわけがない。
 だが、正式な婚姻の申し出を断られてしまった以上、アレクシスの打てる手はほぼないに等しいのだ。
 
 ――どれほど金を持っていても、ハリントンの爵位は所詮男爵にすぎない。……王女を望むのは身の程知らずだったということか。

 アレクシスは椅子の背にもたれながら、ブランドンが淹れた茶を飲んだ。意外なほど美味い。本人を前に当主の恋愛事情を語り合う二人の言葉を聞きながら、アレクシスはまたぼんやりと意識を彷徨わせる。

 他国の王族を娶るのには外交的な配慮が必要だ。アレクシスが国王の許可を取り、使者を立てたうえで正式にクラリスとの婚姻を申し出たのが三か月前。本当はもっと急ぎたかったのだが、兄の王太子――今は即位し国王となっている――の体調やシエルハーンの政情が安定するのを待ち、逸る気持ちを抑えに抑えて最適な時期を見計らったのが三か月前だった。
 クラリスの気持ちは確かめている。シエルハーン国内の産業に対する支援は惜しまないとも伝えていた。だからまさか、その申し出を断られるなどとは夢にも思わなかったのだ。

 ――あの時、引き留めていたらよかったのだろうか。だが……彼女の兄を想う気持ちを、国を想う気持ちを、否定することはできなかった。あの夜を何度繰り返しても、俺は同じ判断をするだろう。

 カチ、とカップの縁に歯が当たった。いつの間にか茶を飲み干していたようだ。気遣われるのも疲れるとメイドは執務室から出している。男三人しかいない部屋の中で、家令と商会の会頭は言いたい放題だ。

「どちらにせよ、若の情けない姿をこれ以上見るに忍びません。明日にでもメルボーン侯爵にお願いして、婚約者を見繕っていただくことにしましょう」

 これには今まで無関心だったアレクシスも反応を示した。

「最低限やるべきことはやっているんだ。俺のことは放っておいてくれ」
「いつ立ち直るかも分からないものを、見過ごすことはできませんよ。まずは行動を起こしてくださいませ。お嬢様のように」

 それを言われるとアレクシスは黙るしかない。妹のジュリアナは二週間前、ロナルド・ストロンクに失恋していたのだ。
 ロナルドはジュリアナに対し、曖昧な態度を取っていたことを詫びた。そして、大切にしたい女性ができたため、ジュリアナの気持ちに応えることはできないとはっきり告げたのだ。

「私に言わせれば、うちのお嬢様よりも別の女を選んだ時点でストロング警視監の見る目のなさがよく分かりましたがね。早いところ見切りをつけられてよかったくらいです」

 お嬢様大事のダンカンには我慢ならないことだったようだ。ジュリアナの前でロナルドを悪く言わないのはさすがだが、アレクシスには事あるごとにこうして毒づいている。

「しかし、はっきりと理由を説明なさったのは、警視監の誠実さでもありますよ。それに、ジュリアナ様も今はあんなに張り切って婚約者探しに精を出していらっしゃいますし、そのうち時間薬が心を癒してくれることでしょう」

 ジュリアナは一週間泣きどおしだった。しかし、散々泣いて気が済んだのか「私、お化粧もドレスも好きよ。今まではロナルド様の好みに合わせた装いをしていたけれど、これからはありのままの自分を好きになってくれる人を探すわ」と宣言し、その言葉どおり今は社交活動に勤しんでいる。

「……それに比べて、振られてから四か月も経ってこの状態とは。若、あなたはハリントンの当主なのですよ。少しはなさいませ!」
「仕方ないだろう。……俺は今やっと、母上が亡くなった時の父上のお気持ちを理解できているんだ」

 母を亡くして、全てを放棄した父。心から愛する人を喪った時、父の心の一部分も一緒に死んだのだ。
 今のアレクシスには、父ゲイリーの気持ちが痛いほどよく分かった。だからと言って自分も同じように仕事を投げ出す訳にはいかないのが辛いところなのだが。

 空のカップに視線を落としていると、執務室の入口でメイドと家令が小声で会話している。誰か来たようだ。
 今は来客もごく一部に限っている。予定にない客と会うつもりはないと言いかけたところで、強引に扉が開かれた。

「やあ、アレク。久しぶりだね」
「ドミニク様。どうしてご案内するまでお待ちくださらないのですか」
「いやだなあ。僕とアレクの仲じゃないか。そんな堅苦しいことは言わないでくれよ」

 さっさと部屋に入ってきたのはバークリー公爵家嫡子でアレクシスの従弟、ドミニク・ジョナサン・マクスウェルだ。いつものとおり元気いっぱいで、あっけらかんとした陽のオーラを纏っている彼の相手は、今のアレクシスには少々荷が重い。

「ねえ、ジュリアナはいないの? 久しぶりに会いたかったのにな」
「……三日前に会ったばかりじゃないか。ドミニク、こんなにしょっちゅう遊びにきていて大丈夫なのか」
「大丈夫って……ああ、仕事のこと? そっちは問題なしさ。父上も驚いているよ! 僕が予想以上にちゃんと働いているって」

 ヴィクターが病気になってから、ドミニクは家庭教師の仕事を失っていた。母の公爵夫人はこの機を逃すまいと領地運営の仕事を任せたのだが、それが思いのほか肌に合っていたらしい。本人も楽しみながら働いているようだ。
 ちなみに、ドミニクにはフレディとヴィクが本当の親に引き取られたと伝えてある。単純な彼は寂しそうにしながらも「二人が幸せなら、よかった」と呟いていた。

「それでさ……ジュリアナの婚約者って、まだ決まっていないよね?」

 そわそわしながら口にする。視界の端でダンカンが額に青筋を立てているのを見ながら、アレクシスは苦笑した。

「どうかな。俺は何も聞いていないが、さすがに一週間で婚約にこぎつけるのは難しいと思うぞ」
「そうだよね? ……母上がさ、女はとにかく顔を合わせる回数が多い相手を好きになる、って言うものだから。ねえアレク、今度ジュリアナを誘って夜会に出席したいんだけど、いいかな?」

 顔を合わせる回数の多い相手を女は好きになる。そんな言葉にまた心がグラグラと揺れた。その法則で言えば、クラリスの側にいる男が断然有利だ。……七か月も離れているアレクシスよりもずっと。

「……ジュリアナがいいと言えば問題はない」
「それならよかった! 今度、王城で大規模な夜会が開かれそうなんだよね」
「そうなのか?」

 全く興味はないが、一応相槌を打っておく。ドミニクは大きく頷いた。

「知らなかったの? 王太子殿下の婚約発表があるらしいんだ。あ、でもこれはまだ内緒なんだった。父上から、誰にも言うな、って言われていたんだ」

 焦るドミニクに、アレクシスは微苦笑を浮かべる。

「心配するな、誰にも言わないから。……ジョージ殿下がご結婚なさるのか」
「うん。色々と複雑だから、誰にも言っちゃいけないみたい」
「複雑? 貴賤結婚か何かなのか?」

 ドミニクは首を傾げ、何かを思い出したのかパッと顔を輝かせる。そして、大きな目を見開きながらドミニクが説明した言葉に、アレクシスは愕然となった。

「よく分からないけれど、外交が絡んでくるって言っていたよ。確か……そう、シエルハーンだ! シエルハーンの王女を迎える、って、そう言っていた」



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