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第四章

侯爵家の舞踏会⑤

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 ウィンシャム公の体調不良説はもちろん真実だった。厳秘とされているはずの情報が漏れたことに動揺し、不利を悟ったニコラスは話題を変えることにしたようだ。頬を引きつらせながら表情を取り繕った。

「久しぶりだなハーヴェイ。社交界から随分長い間遠ざかっていたらしいが、元気だったか?」
「ああ、おかげさまで。君も元気そうだな。気になるのはお父上の――」
「それより! 切れ者で有名な男爵家の家令は引退でもしたのか」
「バリーか? 彼は相変わらずだ。達者すぎて私などいつまで経ってもひよっこ扱いだよ。初代ジョナサン並に長生きするというのが彼の口癖でね。……で? うちの家令がどうかしたのか」

 アレクシスはごく穏やかに、微笑みすら浮かべてそう返したのだが、ニコラスはなぜか剣の切っ先を突きつけられたように感じてごくりと唾を飲んだ。

「……後ろにいるのはお前のところの使用人なんだろう。見ろよ、そいつのせいで俺のレースは台無しだ。古くからの知り合いだからこそ忠告するが、碌にしつけもできていない者を連れまわすのは家の恥だぞ。そんな子供を雇うほど、ハリントンが人材不足だったとは今日初めて知ったよ。何ならうちの者を紹介してもいいんだが、使用人の指導もできない家令なら結局は舐められるだけだと思ってな。どれほど優秀で鳴らした家令でも、老いには勝てないということかな。……戻ったら乗馬用の鞭を使ってみるといい。そいつにも、家令にもだ」

 後ろにいるクラリスの肩がピクンと揺れた。アレクシスは冷静な目でそれを見ていたが、次にオレンジ色に染まったレースを見下ろし、ようやくニコラスの顔を見返した。

「言うまでもないことだがうちの家令に何一つ過失はないし、使用人の不始末は全て私の責任であって、他の誰のせいにすることもない。その袖については私の従者が失礼をした。心から詫びるよ。よければ弁償させてもらえないか。そのレースはエーベルのレースメーカーのものかな? ちょうどサビーヌ・ホームのレースを取り寄せたところだ。明日にでも君の手元に届くよう手配しておくよ」

 アレクシスの言葉に辺りはどよめき、女性たちは一斉に扇の後ろで言葉を交わし合った。
 ルフトグランデを含む大陸一帯で、手作りのレースは爆発的な人気となっている。その中でもレース発祥の地と言われるエーベル製のものは特に珍重され、周辺諸国でも奪い合いの様相を呈していた。
 余りにも価格が高騰したため、エーベルはレースの輸出に規制をかけたほどだ。通貨の国外流出を懸念した各国は自国での生産に力を入れるようになったが、技術者の育成は一朝一夕にとはいかない。ルフトグランデでも流行に敏感な貴族たちは美しいレースを手に入れること、そして入手したレースを衣装にどう使うかで頭を悩ませている。

 そのエーベル産レースの中でも、最も美しく繊細で、格式があるとされているのが修道院サビーヌ・ホームのレースだった。  

 厳格な教義を忠実に守ることで知られるサビーヌ・ホームでは院長ほか数人の尼僧しか外部と接触せず、修道院内に何人の尼僧がいるのかすら知られていない。還俗することを許されていないため、院内に昔から伝わるレース編みの技法は事実上門外不出となっており、まさに「神秘のベールに包まれた」レースメーカーとして知れ渡っていた。

 当然そのレースを入手したいと望む者は多いが、元々サビーヌ・ホームのレースは尼僧が儀式で使用するローブのために作られたものなのだ。例外は年に一度、ホームのバザーでごくわずかな量が販売される時なのだが、当然その競争率の高さは驚異的なものになる。エーベル国内でさえ入手困難だと言われる所以だ。

 そのレースをどういう伝手で取り寄せたのか。人々が驚くのも無理はなく、さらにその視線は労せずそれを手に入れることになったニコラスに向かう。たとえ台無しにされたレースがどれほど高価なものだとしても、サビーヌ・ホームのレースを持ち出されてはこれ以上言えることは何もない。もし件のレースを入手できるのなら、百回だってジュースを零されてもいいと思う者がこの場には大勢いるのだ。

 ぐっと言葉に詰まったニコラスだったが、黙っていては更に追い込まれると感じたのだろう。唇を歪めながら両手を広げた。

「これは驚いた! サビーヌ・ホームのレースだって? まさか偽物ではないだろうな」
 
 アレクシスは黙ってそれを聞いていたが、取り囲む客はしんと静まることで、ニコラスの発言に対して不同意であることを示した。何せハリントン男爵なのだ。偽物を掴まされることなどないだろうし、万が一にも入手ルートに不安があるものを他人に贈るはずがない。

「だ、だってそうだろう。サビーヌ・ホームはレースを入手する目的での寄付を受け取らないことで有名だ。そんな修道院からどうやってレースを取り寄せられるというんだ」

 焦るニコラスをしばらくじっと眺めていたアレクシスは軽く肩を竦めた。

「それは初代ジョナサンの力が大きいな。サビーヌ・ホームはモンテクロースの教義を信仰しているから、ルフトグランデへの助勢を頼んだ時からずっと、ハリントンはサビーヌ・ホームへの寄付を欠かしたことはない」

 その場にいた全員があっと驚いた。あの戦いでルフトグランデを救うきっかけとなった宗教国家への恩返しを、ハリントン男爵家は今もずっと続けていたのか。
 おそらく、モンテクロース国外に複数ある宗教施設全てへ寄付を行っているのだろう。国家の恩人である初代ジョナサン・ハーヴェイの代から秘かに続けてきたことを、今初めてアレクシスが明らかにしたのである。

 ただでさえアレクシス寄りだった空気が、一気にハリントン男爵家側に回った。それは普段彼のことを成り上がり者だと嘲る保守派の貴族でさえ同じだ。一方のニコラスは、誰の目にも恩知らずで無礼な男に映った。

「そんなに貴重なものをわざわざ取り寄せたというのに、俺に渡してしまって構わないのか。見たところお前の格好は流行を無視したものだが、ようやく人並みに着飾るつもりになったんだろう。……そういえばハリントンの初代もモンテクロースの女王を身体で篭絡したという噂だったな。だが、いつまで経っても貴族らしくない、そんな質素な衣装しか身に着けられないのはやはり血筋のせいかもしれないな。何なら俺が、貴族らしい服装とはどんなものかをお前に教えてやろう」

 言えば言うほど自分の価値を落としていることにも気づかない、哀れな男だ。アレクシスは学友を冷ややかに見下した。いつからこいつはこれほど愚かになったのだろう。心の底から哀れみを感じていたが、もちろんクラリスに対する仕打ちを忘れてはいない。アレクシスはふうと気だるげに息を吐き、見ている者の背筋が冷えるほど美しい顔で微笑みながら応えた。

「レースのことなら気にするな。たっぷり一ダースはあるし、使うのは妹しかいないから余るほどだ。ああそう、それから私の衣装についてのありがたい申し出を断る無礼を許してくれないか。これでも自分の選んだ服装に十分満足していてね。下賤な血筋のせいか、私は男としての動物的な本能が強いようなんだ。本気になった相手は自分から追いかけて手に入れなければ気が済まない。雄の孔雀のように自分を飾り立て、女性から選ばれるのをじっと待つなんて真っ平御免だ」

 それを聞いていた令嬢――セリーナ・ノークスだった――がくすりと笑い、ニコラスは顔をカッと紅潮させた。公爵家とはいえ二男にすぎないニコラスは、このままでは無駄飯食いヤンガー・サンとして冷遇される運命だ。婿入り先を早急に探そうと、殊更に着飾っている自分を揶揄されたと思ったのだろう。反論しようとしたニコラスが口を開く前に、アレクシスは低く甘い声で言った。

「君もお父上の体調がいいうちに、自活の術を身に着けておくことだ。何でもウィンシャム公は物忘れが激しくなり、あろうことか邸内で迷うことがあるらしいじゃないか。ああ、そうか! お父上を安心させるため、君も早く結婚しようとしているんだな? だが、何事も焦るとろくなことにはならないぞ。伴侶選びはくれぐれも慎重にしたほうがいい。身持ちの堅さに疑いのある、底意地の悪い女に引っ掛からないよう、お互いに注意しようじゃないか。……かつてののように」 
「何だと!?」

 きゃあ、と小さな悲鳴が聞こえた。ニコラスがアレクシスに掴みかかったからだ。

「貴様! ソフィアを侮辱すれば許さないぞ!!」
「目を覚ませ、グリーンハウ=スミス。ソフィア・パラコートに君が心を砕く価値などない」
「まだ言うのか! ソフィアはお前のせいであんな遠い国に嫁がされることになったんだぞ! 良心があるなら申し訳ないと思って当然だろう!」
「面白そうな話をしているね。僕も加わっていいかい?」

 二人はパッと振り返った。そこにはにこやかに笑う金髪の若い男性とメルボーン侯爵、そして夫に腕を預けながらあきれ顔をしている侯爵夫人がいた。
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