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第三章
闇仲買人と希少な布
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「バリー。ハイトブリッジの契約者名簿を取ってくれ」
ハイトブリッジは王都レスターの一角、目抜き通りから一本筋を入った場所の名だ。王室御用達ブランドが立ち並び、貴族や有名俳優たちも愛用する高級仕立て屋街の店舗は、石とレンガ、そしてガラスを多用した重厚かつ華やかな印象のものが多い。ハイトブリッジを含む繁華街一帯は全てハリントン男爵家の地所で、店舗の入る物件もそのほとんどが男爵家の所有だった。
「はい。そうです。その棚に……。ええ、その台帳ですね。この棚には王都の物件に関する資料がまとめてあります。時間のある時に目を通してごらんなさい。さ、台帳を若に」
アレクシスは男爵家の所有物件に入居している店舗を確認したかったのだが、要望どおりの台帳を前に眉根を寄せた。それを遠慮がちに差し出したのがダンカンではなく、七日前にウィンズロウ・ハウスにやってきたばかりの小柄な従者だったからだ。
「どうなさいましたか」
「お前がやればいいじゃないか。なぜわざわざフレディにさせるんだ」
「やれやれ。そんなこともお分かりにならないようではいつまで経っても『若』のままですよ。人を育てるのにはまず本人にやらせる必要があることくらいご存じでしょうに」
「知っているとも! だが、彼には別の仕事がある」
「手紙の代筆と役所に提出する書類の清書ですね。そちらはもうとうに終わっております。なに、私が口を出さずとも従者の役割はすぐにできるようになりますよ。記憶力がいいですからね、一度教えればいいだけなので楽なものです。それに」
ダンカンは片眼鏡を外し、黒のお仕着せを纏い肩までのプラチナブロンドをひとつに結んだフレディを見ながらハンカチで目を拭った。
「何より本人のやる気が違います。これほど意欲があるのですから、何もさせないのは却って酷というものですよ」
「…………医者にはちゃんと行くんだぞ」
「薬が切れる前には。後を任せられる者がいるので私も安心して通院できます」
アレクシスはため息を飲み込みながら台帳を開いた。
身よりのない二人を引き取ってから七日が経った。
いや。七日しか経っていないにもかかわらず、アレクシスの生活は大きく変化していた。このちっぽけな従者のせいで。
「いやはや、従者をつけるだけで若の扱いがこれほど楽になると知っていたらもっと早く適任者を探しましたのに。裸でお眠りになることもなくなりましたし、夜遊びも卒業されました。それに、何といっても寝起きがよくおなりなのは素晴らしい!」
機嫌のよい家令とは違い主のほうは渋面だ。裸で眠るのをやめたのは見習い従者がアレクシスを起こしに来るからだし、闇に紛れて出かけようとすると自分も一緒に行くと言う。当然のごとく断れば世にも悲しそうな顔をするため、罪悪感を覚えて外出を取りやめただけのことだ。
寝起きの悪さが改善したのも新しい従者が原因だ。深い眠りについているアレクシスを起こす際に、クラリスは話せないため声をかけることができない。起床を促す方法として身体に触れて揺り動かすしかないのだが、王女を目覚まし時計代わりにするのは心臓に悪いことこのうえない。おかげでここ数日は彼女が部屋に入る気配だけで飛び起きる始末だ。
不機嫌に唸る主を横に、手元の紙に何か書きつけていたクラリスが、それを邪魔にならない場所にそっと置いた。
「いい質問ですね」
「バリー。俺より先に見るんじゃない」
きらりと眼鏡を光らせたダンカンにアレクシスが文句を言う。書かれていたのは仕事にまつわる問いだった。
――契約者の台帳をご覧になるのは、先ほど代筆した手紙と関係があるのでしょうか
クラリスが代筆した手紙は、ハイトブリッジに店舗を構える老舗テーラーの店主に宛てたものだ。退去の申し出があったことへの返信だった。
王都の一等地だ。滅多に出ない人気区画の空き店舗となれば借り手はいくらでもいる。事実、空き待ちのリストに名を連ねているのは海外を含む一流のテーラーばかりなのだ。
「確かに、妙な申し出ではありますね」
「ああ」
アレクシスは応えると、台帳の裏表紙に折りたたまれていたハイトブリッジの地図を広げた。
「今回退去を申し出てきたのはジェムズ・サンだ。そして三か月前同じように退去を希望したのは……これだな」
「ふむ。ヘンリー・ボード・テイラーズですね。ジェムズは初代ハリントン男爵の頃からの老舗ですが、ヘンリーは比較的新しい店だ」
「新しいといってもハイトブリッジに店を構えてから三十年にはなるだろう。この二件は商売の仕方ひとつとっても考え方が異なる。片やフルビスポークを売りにしていて、もう一件は店頭に既製服を置く、この通りでは珍しい比較的手ごろな価格の仕立て屋だ。たった数カ月の間に退去の申し出が続くことなど今までなかったから気になっていたんだが……ああ、やはりそうだ」
台帳を繰るアレクシスの指が、一点で止まる。
「ジェムズは昨年、ジェイソン・ウェインからレジナルド・ウェインへ代表者が代わっている。ヘンリーもそうだ。こちらは十カ月前にヘンリー・ボードからネイサン・ボードへ。どちらも代替わりしたばかりだ」
「代替わりからさほど時を措かずして退去するとなると、普通は経営の失敗が考えられますが」
「仮にもハイトブリッジで店を出していたんだ、たった数カ月や一年くらいで店を傾けたとは思えない。……常識的に考えればだが」
含みを持たせた主の言葉に、ダンカンは頷いた。
「私の耳にした噂が本当なのでしたら、数カ月で店を閉めることになってもおかしくはありません」
「どんな噂だ。言ってみろ」
促された家令は、ごく冷静な態度で応えた。
「非常に珍しく貴重な布地を、格安で手に入れられるとか。品質は間違いないが、市場に出せば価格が高騰するから極秘で流してくれると。その布地というのが」
「『天海の稀布』だな」
予め情報を掴んでいたアレクシスは驚きもせずに台帳を閉じた。ダンカンは再び頷く。
「はい。格安とはいえ天海の稀布となれば相当な値段だったでしょう。聞いたところによるとその闇仲買人は今後も定期的に取り引きができること、併せてその布地で仕立てた衣装を買う顧客を紹介することまで約束していたようです」
椅子の背にもたれたアレクシスは長い脚を組んだ。
「天海の稀布の産出量がどれほど少ないか、この商売をしていれば知らないはずはないんだがな。代替わりをしたばかりで、親の背を早く超えたいという心理を衝かれたか」
「どうなさいますか。ジェムズ・サンにしろヘンリー・ボード・テイラーズにしろ、移転しようが破産しようが当家には全く影響はございません。むしろエーベルあたりから新しいブランドが出店すれば一層賑やかになることでしょう」
家令の話を聞いていたアレクシスは、少し離れた場所に置いた椅子にちょこんと座る従者へ視線を移した。いかにアレクシスが尊大であっても、女性を立たせたまま平気で仕事ができるほど厚顔ではない。遠慮するクラリスには、用事がある時以外は座っているように命じていた。
いきなり見つめられたクラリスは、緊張して背筋を伸ばした。何か仕事を与えてもらえるのだろうか。従者の役に就いたとはいえ、新聞のアイロンがけは危ないとさせてもらえず、着替えの手伝いは変わらずダンカンの役目――これにはほっとしている。クラリスは成人男性の着替えを手伝ったことがないから――だ。おまけに仕事中も事あるごとに労わられ大切にされて、少しも役に立てている実感がなかった。
深く青い視線が頬を焼く。クラリスは全身真っ赤になった。
ハイトブリッジは王都レスターの一角、目抜き通りから一本筋を入った場所の名だ。王室御用達ブランドが立ち並び、貴族や有名俳優たちも愛用する高級仕立て屋街の店舗は、石とレンガ、そしてガラスを多用した重厚かつ華やかな印象のものが多い。ハイトブリッジを含む繁華街一帯は全てハリントン男爵家の地所で、店舗の入る物件もそのほとんどが男爵家の所有だった。
「はい。そうです。その棚に……。ええ、その台帳ですね。この棚には王都の物件に関する資料がまとめてあります。時間のある時に目を通してごらんなさい。さ、台帳を若に」
アレクシスは男爵家の所有物件に入居している店舗を確認したかったのだが、要望どおりの台帳を前に眉根を寄せた。それを遠慮がちに差し出したのがダンカンではなく、七日前にウィンズロウ・ハウスにやってきたばかりの小柄な従者だったからだ。
「どうなさいましたか」
「お前がやればいいじゃないか。なぜわざわざフレディにさせるんだ」
「やれやれ。そんなこともお分かりにならないようではいつまで経っても『若』のままですよ。人を育てるのにはまず本人にやらせる必要があることくらいご存じでしょうに」
「知っているとも! だが、彼には別の仕事がある」
「手紙の代筆と役所に提出する書類の清書ですね。そちらはもうとうに終わっております。なに、私が口を出さずとも従者の役割はすぐにできるようになりますよ。記憶力がいいですからね、一度教えればいいだけなので楽なものです。それに」
ダンカンは片眼鏡を外し、黒のお仕着せを纏い肩までのプラチナブロンドをひとつに結んだフレディを見ながらハンカチで目を拭った。
「何より本人のやる気が違います。これほど意欲があるのですから、何もさせないのは却って酷というものですよ」
「…………医者にはちゃんと行くんだぞ」
「薬が切れる前には。後を任せられる者がいるので私も安心して通院できます」
アレクシスはため息を飲み込みながら台帳を開いた。
身よりのない二人を引き取ってから七日が経った。
いや。七日しか経っていないにもかかわらず、アレクシスの生活は大きく変化していた。このちっぽけな従者のせいで。
「いやはや、従者をつけるだけで若の扱いがこれほど楽になると知っていたらもっと早く適任者を探しましたのに。裸でお眠りになることもなくなりましたし、夜遊びも卒業されました。それに、何といっても寝起きがよくおなりなのは素晴らしい!」
機嫌のよい家令とは違い主のほうは渋面だ。裸で眠るのをやめたのは見習い従者がアレクシスを起こしに来るからだし、闇に紛れて出かけようとすると自分も一緒に行くと言う。当然のごとく断れば世にも悲しそうな顔をするため、罪悪感を覚えて外出を取りやめただけのことだ。
寝起きの悪さが改善したのも新しい従者が原因だ。深い眠りについているアレクシスを起こす際に、クラリスは話せないため声をかけることができない。起床を促す方法として身体に触れて揺り動かすしかないのだが、王女を目覚まし時計代わりにするのは心臓に悪いことこのうえない。おかげでここ数日は彼女が部屋に入る気配だけで飛び起きる始末だ。
不機嫌に唸る主を横に、手元の紙に何か書きつけていたクラリスが、それを邪魔にならない場所にそっと置いた。
「いい質問ですね」
「バリー。俺より先に見るんじゃない」
きらりと眼鏡を光らせたダンカンにアレクシスが文句を言う。書かれていたのは仕事にまつわる問いだった。
――契約者の台帳をご覧になるのは、先ほど代筆した手紙と関係があるのでしょうか
クラリスが代筆した手紙は、ハイトブリッジに店舗を構える老舗テーラーの店主に宛てたものだ。退去の申し出があったことへの返信だった。
王都の一等地だ。滅多に出ない人気区画の空き店舗となれば借り手はいくらでもいる。事実、空き待ちのリストに名を連ねているのは海外を含む一流のテーラーばかりなのだ。
「確かに、妙な申し出ではありますね」
「ああ」
アレクシスは応えると、台帳の裏表紙に折りたたまれていたハイトブリッジの地図を広げた。
「今回退去を申し出てきたのはジェムズ・サンだ。そして三か月前同じように退去を希望したのは……これだな」
「ふむ。ヘンリー・ボード・テイラーズですね。ジェムズは初代ハリントン男爵の頃からの老舗ですが、ヘンリーは比較的新しい店だ」
「新しいといってもハイトブリッジに店を構えてから三十年にはなるだろう。この二件は商売の仕方ひとつとっても考え方が異なる。片やフルビスポークを売りにしていて、もう一件は店頭に既製服を置く、この通りでは珍しい比較的手ごろな価格の仕立て屋だ。たった数カ月の間に退去の申し出が続くことなど今までなかったから気になっていたんだが……ああ、やはりそうだ」
台帳を繰るアレクシスの指が、一点で止まる。
「ジェムズは昨年、ジェイソン・ウェインからレジナルド・ウェインへ代表者が代わっている。ヘンリーもそうだ。こちらは十カ月前にヘンリー・ボードからネイサン・ボードへ。どちらも代替わりしたばかりだ」
「代替わりからさほど時を措かずして退去するとなると、普通は経営の失敗が考えられますが」
「仮にもハイトブリッジで店を出していたんだ、たった数カ月や一年くらいで店を傾けたとは思えない。……常識的に考えればだが」
含みを持たせた主の言葉に、ダンカンは頷いた。
「私の耳にした噂が本当なのでしたら、数カ月で店を閉めることになってもおかしくはありません」
「どんな噂だ。言ってみろ」
促された家令は、ごく冷静な態度で応えた。
「非常に珍しく貴重な布地を、格安で手に入れられるとか。品質は間違いないが、市場に出せば価格が高騰するから極秘で流してくれると。その布地というのが」
「『天海の稀布』だな」
予め情報を掴んでいたアレクシスは驚きもせずに台帳を閉じた。ダンカンは再び頷く。
「はい。格安とはいえ天海の稀布となれば相当な値段だったでしょう。聞いたところによるとその闇仲買人は今後も定期的に取り引きができること、併せてその布地で仕立てた衣装を買う顧客を紹介することまで約束していたようです」
椅子の背にもたれたアレクシスは長い脚を組んだ。
「天海の稀布の産出量がどれほど少ないか、この商売をしていれば知らないはずはないんだがな。代替わりをしたばかりで、親の背を早く超えたいという心理を衝かれたか」
「どうなさいますか。ジェムズ・サンにしろヘンリー・ボード・テイラーズにしろ、移転しようが破産しようが当家には全く影響はございません。むしろエーベルあたりから新しいブランドが出店すれば一層賑やかになることでしょう」
家令の話を聞いていたアレクシスは、少し離れた場所に置いた椅子にちょこんと座る従者へ視線を移した。いかにアレクシスが尊大であっても、女性を立たせたまま平気で仕事ができるほど厚顔ではない。遠慮するクラリスには、用事がある時以外は座っているように命じていた。
いきなり見つめられたクラリスは、緊張して背筋を伸ばした。何か仕事を与えてもらえるのだろうか。従者の役に就いたとはいえ、新聞のアイロンがけは危ないとさせてもらえず、着替えの手伝いは変わらずダンカンの役目――これにはほっとしている。クラリスは成人男性の着替えを手伝ったことがないから――だ。おまけに仕事中も事あるごとに労わられ大切にされて、少しも役に立てている実感がなかった。
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