3 / 60
第一章
目利きの証
しおりを挟む
「ああっ!」
「ブランドン、いい加減商売に戻らないか」
商売。仮面で隠された客の顔を見上げていたブランドンは、数拍おいてから咳払いをした。
「……失礼いたしました。あのう、話に戻る前に念のためお伺いいたしますが」
「ルイからこの時計を決して手放すなと口酸っぱく言われていてな。どこの誰に強請られたとしても売ることはできん」
ですよね。肩を落としたブランドンは、売り込もうと思っていた時計がまだ自分の手の中にあるのを見て驚いたように瞬きした後、大きなため息をついた。
「仰りたいことはよくわかりました。確かに、貴方がお持ちの時計と比べれば、世に出回っている高級時計を全て集めたとしても色あせてしまうでしょう」
「ああ。分かればいいんだ」
興奮のあまりかいた汗でペシャンコになった髪を手で整えていたブランドンは、客のあまりにも横柄な物言いにイラッとした。こいつ、こっちが下手に出ていればつけ上がりやがって。
「ミスター・A。では、次のお品についてご説明してもよろしいでしょうか」
ブランドンは今日一番の笑顔になった。客商売をして長い彼は、腹の立つ客を相手にするときほど笑顔になるのだ。
「聞かせてもらおう」
「はい。ではどうぞこちらへ」
客を部屋奥の壁前へと誘った。そこには小さな絵が飾られている。
「こちらでございます」
「先ほど見せてもらったエバンスはどうした」
「エバンスは確かに素晴らしい画家ですし、先ほどご覧いただいた絵も大変高価なものでございます。しかし、ミスター・Aのご慧眼に見合うかと考えましたら、いささか力不足かと思い至りました」
「それでこの絵か」
「はい。そう値の張るお品ではございませんが、私が何よりも気に入っているこの絵をご覧いただきたいと思いまして」
ミスター・Aは静かにその絵を見ている。背の高い彼と並んで立てば、ブランドンとの身長差が一層際立った。
「これは……ネヴィルか」
「っさすが! よくお分かりで」
まさか画家を言い当てると思っていなかったブランドンは舌を巻いた。端正な横顔をみせる客は、変わらず絵をじっと見たままだ。
ジョナサン・ネヴィルは写実的な画風の人物画で知られる画家だ。
その筆致は硬質かつ静謐。暗い色合いながら肌の柔らかさや髪のしなやかさを余すことなく表現し、特に彼の描く人物の瞳には魂が宿っていると言われている。確かに、虹彩まで細かく書き込まれた瞳を見ると、そこに自分が映っているような気になるから不思議なものだ。
だが、近年の画壇の流行には乗れておらず、市場価格はおしなべて低かった。かつ、彼は昨年亡くなっており今後作品が増えることはない。ブランドンはそこを狙ったのである。
ネヴィルの絵は必ず売れる。それならば、投機目的で早めに購入しておくべきだろう。
ということで、号数の大きな絵を何枚か購入し、値上がりするのを待って寝かせているところだ。元々美術には全く興味はなく、仕事上の知識を備えているにすぎないブランドンだが、自分の嗅覚には自信があった。
しかし、この絵はネヴィルの得意な人物画ではない。
パステルタッチの水彩画は、彼の故郷を切り取ったものだ。戦禍にまみれ今はなくなってしまった小さな村。その生家の窓から見た、彼の記憶の中にしかない景色だった。
ブランドンが些か特別な入手経路でこの絵を手にしたのは、気に入ったなどというウェットな理由ではなく、単に金になると踏んだからにすぎない。ジョナサン・ネヴィルの描いた水彩画で残っているのは、ブランドンの知る限りこの一枚のみ。重厚な人物画で知られるネヴィルの絵が高騰してから、彼のエピソードとともに売り込む予定だった。
当初ミスター・Aに売ろうとしていたのは、既に市場で高く評価されているエバンスの絵だった。しかし、この客を感心させるには普通の品ではだめだ。ちょっとひねった通好みのもの。金額ではなく希少価値の高い、感性に訴えかけるものでなければならない。
当然ネヴィルのことなど知らないだろうから、不世出の画家として若干脚色した解説をしてやるつもりでいたブランドンだが、ミスター・Aと名乗る男は予想以上に見る目があるようだ。この世の中に、あの水彩画がネヴィルの作だと分かる者が何人いるだろう。正直に言えばプロの自分でも自信はない。ブランドンがそれを知ったのも、入手の際にたまたまネヴィルを好きな画商崩れが一緒にいたからだ。
金を持ち、見目も良く、そして専門家も顔負けの大変な目利き。
ミスター・Aの反応が商人としての自分の評価のように思え、柄にもなく緊張しながら男を見つめていたブランドンは、ぽつりとつぶやかれた言葉で有頂天になった。
「……いい絵だな」
グッとこみ上げるものがある。ブランドンは平静を装ったが、声は奇妙にかすれていた。
「お気に、召していただけましたでしょうか」
「ああ」
やった……! ブランドンは心の中で拳を突き上げた。
やれやれ、なかなか難物だったが、成約にこぎつけられて何よりだ。ブランドンはホッとして、絵に幾らの値付けをするか素早く計算した。本来なら寝かせてこそ価値の上がる絵だ。だが、商売人として自分の見る目に対するプライドもある。あたら安値で売りたたくことはしたくない。
「ブランドン、いい加減商売に戻らないか」
商売。仮面で隠された客の顔を見上げていたブランドンは、数拍おいてから咳払いをした。
「……失礼いたしました。あのう、話に戻る前に念のためお伺いいたしますが」
「ルイからこの時計を決して手放すなと口酸っぱく言われていてな。どこの誰に強請られたとしても売ることはできん」
ですよね。肩を落としたブランドンは、売り込もうと思っていた時計がまだ自分の手の中にあるのを見て驚いたように瞬きした後、大きなため息をついた。
「仰りたいことはよくわかりました。確かに、貴方がお持ちの時計と比べれば、世に出回っている高級時計を全て集めたとしても色あせてしまうでしょう」
「ああ。分かればいいんだ」
興奮のあまりかいた汗でペシャンコになった髪を手で整えていたブランドンは、客のあまりにも横柄な物言いにイラッとした。こいつ、こっちが下手に出ていればつけ上がりやがって。
「ミスター・A。では、次のお品についてご説明してもよろしいでしょうか」
ブランドンは今日一番の笑顔になった。客商売をして長い彼は、腹の立つ客を相手にするときほど笑顔になるのだ。
「聞かせてもらおう」
「はい。ではどうぞこちらへ」
客を部屋奥の壁前へと誘った。そこには小さな絵が飾られている。
「こちらでございます」
「先ほど見せてもらったエバンスはどうした」
「エバンスは確かに素晴らしい画家ですし、先ほどご覧いただいた絵も大変高価なものでございます。しかし、ミスター・Aのご慧眼に見合うかと考えましたら、いささか力不足かと思い至りました」
「それでこの絵か」
「はい。そう値の張るお品ではございませんが、私が何よりも気に入っているこの絵をご覧いただきたいと思いまして」
ミスター・Aは静かにその絵を見ている。背の高い彼と並んで立てば、ブランドンとの身長差が一層際立った。
「これは……ネヴィルか」
「っさすが! よくお分かりで」
まさか画家を言い当てると思っていなかったブランドンは舌を巻いた。端正な横顔をみせる客は、変わらず絵をじっと見たままだ。
ジョナサン・ネヴィルは写実的な画風の人物画で知られる画家だ。
その筆致は硬質かつ静謐。暗い色合いながら肌の柔らかさや髪のしなやかさを余すことなく表現し、特に彼の描く人物の瞳には魂が宿っていると言われている。確かに、虹彩まで細かく書き込まれた瞳を見ると、そこに自分が映っているような気になるから不思議なものだ。
だが、近年の画壇の流行には乗れておらず、市場価格はおしなべて低かった。かつ、彼は昨年亡くなっており今後作品が増えることはない。ブランドンはそこを狙ったのである。
ネヴィルの絵は必ず売れる。それならば、投機目的で早めに購入しておくべきだろう。
ということで、号数の大きな絵を何枚か購入し、値上がりするのを待って寝かせているところだ。元々美術には全く興味はなく、仕事上の知識を備えているにすぎないブランドンだが、自分の嗅覚には自信があった。
しかし、この絵はネヴィルの得意な人物画ではない。
パステルタッチの水彩画は、彼の故郷を切り取ったものだ。戦禍にまみれ今はなくなってしまった小さな村。その生家の窓から見た、彼の記憶の中にしかない景色だった。
ブランドンが些か特別な入手経路でこの絵を手にしたのは、気に入ったなどというウェットな理由ではなく、単に金になると踏んだからにすぎない。ジョナサン・ネヴィルの描いた水彩画で残っているのは、ブランドンの知る限りこの一枚のみ。重厚な人物画で知られるネヴィルの絵が高騰してから、彼のエピソードとともに売り込む予定だった。
当初ミスター・Aに売ろうとしていたのは、既に市場で高く評価されているエバンスの絵だった。しかし、この客を感心させるには普通の品ではだめだ。ちょっとひねった通好みのもの。金額ではなく希少価値の高い、感性に訴えかけるものでなければならない。
当然ネヴィルのことなど知らないだろうから、不世出の画家として若干脚色した解説をしてやるつもりでいたブランドンだが、ミスター・Aと名乗る男は予想以上に見る目があるようだ。この世の中に、あの水彩画がネヴィルの作だと分かる者が何人いるだろう。正直に言えばプロの自分でも自信はない。ブランドンがそれを知ったのも、入手の際にたまたまネヴィルを好きな画商崩れが一緒にいたからだ。
金を持ち、見目も良く、そして専門家も顔負けの大変な目利き。
ミスター・Aの反応が商人としての自分の評価のように思え、柄にもなく緊張しながら男を見つめていたブランドンは、ぽつりとつぶやかれた言葉で有頂天になった。
「……いい絵だな」
グッとこみ上げるものがある。ブランドンは平静を装ったが、声は奇妙にかすれていた。
「お気に、召していただけましたでしょうか」
「ああ」
やった……! ブランドンは心の中で拳を突き上げた。
やれやれ、なかなか難物だったが、成約にこぎつけられて何よりだ。ブランドンはホッとして、絵に幾らの値付けをするか素早く計算した。本来なら寝かせてこそ価値の上がる絵だ。だが、商売人として自分の見る目に対するプライドもある。あたら安値で売りたたくことはしたくない。
0
お気に入りに追加
250
あなたにおすすめの小説
囚われの姉弟
折原さゆみ
恋愛
中道楓子(なかみちふうこ)には親友がいた。大学の卒業旅行で、親友から思わぬ告白を受ける。
「私は楓子(ふうこ)が好き」
「いや、私、女だよ」
楓子は今まで親友を恋愛対象として見たことがなかった。今後もきっとそうだろう。親友もまた、楓子の気持ちを理解していて、楓子が告白を受け入れなくても仕方ないとあきらめていた。
そのまま、気まずい雰囲気のまま卒業式を迎えたが、事態は一変する。
「姉ちゃん、俺ついに彼女出来た!」
弟の紅葉(もみじ)に彼女が出来た。相手は楓子の親友だった。
楓子たち姉弟は親友の乗附美耶(のつけみや)に翻弄されていく。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~
紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。
※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。
※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。
※なろうにも掲載しています。
薔薇の姫は夕闇色に染まりて
黒幸
恋愛
あらすじで難解そうに見えますが本編はコメディです、多分メイビー。
その世界は我々が住む世界に似ているが似ていない。
我々がよく知っているつもりになっているだけで、あまり知らない。
この物語の舞台は、そんなとある異世界……。
我々がイタリアと呼ぶ国に似たような国がその世界にはある。
その名もセレス王国。
重厚な歴史を持ち、「永遠の街」王都パラティーノを擁する千年王国。
そして、その歴史に幕が下りようとしている存亡の危機を抱えていることをまだ、誰も知らない。
この世界の歴史は常に動いており、最大の力を持つ国家は常に流転する。
今この時、最も力を持った二大国とセレス王国は国境を接していた。
一つは、我々が住む世界のドイツやフランスを思わせる西の自由都市同盟。
そして、もう1つがロシアを思わせる東の自由共和国である。
皮肉にも同じ自由を冠する両国は自らの自由こそ、絶対の物であり、大義としていた。
本当の自由を隣国に与えん。
そんな大義名分のもとに武力という名の布教が幾度も行われていた。
かつての大戦で両国は疲弊し、時代は大きく動き始めようとしている。
そして、その布教の対象には中立を主張するセレス王国も含まれていた。
舞台を決して表に出ない裏へと変えた二大国の争い。
永遠の街を巻き込んだ西と東の暗闘劇は日夜行われている。
そんな絶体絶命の危機にも関わらず、王国の民衆は悲嘆に明け暮れているかというとそうでもない。
そう、セレス王国には、最後の希望『黎明の聖女』がいたからだ。
これは歴史の影で誰にもその素顔を知られること無く、戦い続けた聖女の物語である。
そして、愛に飢えた一人の哀しき女の物語でもある。
旧題『黎明の聖女は今日も紅に染まる~暗殺聖女と剣聖の恋のシーソーゲーム~』
Special Thanks
あらすじ原案:『だって、お金が好きだから』の作者様であるまぁじんこぉる様
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ヴァンパイアの聖痕
ひなのさくらこ
恋愛
元子爵令嬢のプリシラは、労働者階級の子供たちが通う学校の教師をしていた。ある日、領主であるブラックバーン侯爵が従兄と暮らす屋敷を訪れると知らされる。侯爵が長年探し求めていた「何か」が、従兄の持つ希少な本に記されているのではないかというのだ。
決して人前に姿を現さないことで知られる侯爵だ。プリシラは戸惑いながらも失礼のないよう精いっぱい出迎えの準備をするが、彼女を一目見るなり侯爵の態度が一変して……
愛しい人を死なせてしまった絶望に自らを呪い、闇を彷徨い続けた孤独なヴァンパイアの王が、生まれ変わった恋人とふたたび出会い愛し合うことで癒されていく物語。
※他サイトにも投稿しています
※残酷描写・R表現は予告なく入りますのでご注意ください
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる