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青菜の約束
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青菜の約束
凍えるような寒さが窓の外に広がっている。病院の食堂で食べる食事は、栄養が考慮されているとはいえ、どこか物足りなく感じることが多かった。白い蛍光灯の下、無機質な長机と椅子の並ぶ空間で、私は冷めた味噌汁とパサついた白米を口に運んでいた。塩辛い味噌の味が舌に残る。食べ終わる頃にはいつも、胃は満たされても、心の隙間は埋まらない気がしていた。
数日前、息子と電話で話していた時のことを思い出す。息子は、私が病院に入院していることを心配して、電話をかけてきた。いつものように、彼の声は優しくて、私を気遣ってくれる。
「お母さん、最近、体調はどう?」と、少し沈んだ声で言った息子に、私はできるだけ明るく答えるように努めた。
「元気よ。病院食は…そうね、あまりおいしくないけれど、栄養のことを考えたら、仕方ないわね。」
その時、息子がちょっとだけ間をおいて、何かを言いあぐねるように言った。
「ねえ、お母さん。最近、お米、ちょっと高いよね?」
私は思わず、息子の声のトーンに気づいた。少し心配している様子が伝わってきた。私たちの家計は、以前よりも余裕がなくなってきていた。それでも、息子には心配をかけたくないという気持ちから、私はいつものように笑って答えた。
「そうね。でも、安いお米でも、ちゃんと炊けばおいしくなるから、大丈夫よ。」
実際、ここ最近買ったお米はあまりおいしくなくて、炊きあがりがパサパサしていた。米粒が口の中でバラバラになり、甘みも感じられない。だが、息子に心配をかけたくないから、そう言ったのだった。
「うん、そうだね。お母さんが元気なら、それが一番だよ。」
息子のその言葉に、私はふっと胸が温かくなる思いがしたが、同時に、心の中で少しだけ引け目を感じた。私が元気だと言うことで、息子は安心してくれるのだろうけれど、実際には心配事がたくさんあるのではないだろうか。電話の向こうで、息子はどんな顔をしているのだろうか。少し眉をひそめ、心配そうにしているかもしれない。
数日後、病室に大きな段ボール箱が届いた。差出人は息子の名前だった。箱を開けてみると、見たこともない立派な米袋が二つ、丁寧に詰められていた。米袋には「〇〇産こしひかり」と書かれている。
「お母さん、前にお米のこと言ってたでしょ?ちょっと奮発して、美味しいお米を買ったんだ。」
電話口の息子の声は、いつもと同じように優しかったが、その中に少しの不安が含まれているようにも感じた。
「え…でも、そんな高いお米なんて…。本当にありがとう。」
私は言葉を失った。息子は就職活動をしている最中で、決してお金に余裕があるわけではない。にもかかわらず、私のためにそんなに高価なものを買ってくれたのだ。息子が私を喜ばせたかったのだと分かりながら、私はどこかで罪悪感を感じてしまった。
「お母さんが、おいしいご飯を食べられるようにと思って…。」
その言葉が、私の胸に深く刺さった。息子は、私が何気なく言った言葉を真剣に受け止め、無理をしてでも私を喜ばせようとしたのだ。その優しさが、私の心を揺さぶった。
「ありがとう、本当にありがとう。でも、無理しないでね。お母さんは、お前が元気でいてくれることが一番嬉しいんだから。」
その言葉を、電話越しに伝えるのが精一杯だった。涙が込み上げてきて、私はそれを隠すことができなかった。息子は、私が精神的に苦しんでいることを理解してくれている。それでも、私は息子に迷惑をかけたくないという思いが強くて、どうしても感謝の気持ちを素直に表せなかった。
その日の夕食、炊き立てのご飯を口にした。湯気とともに立ち上る甘い香り、口の中に広がる優しい甘み。それは、病院食とは全く違う、温かく、懐かしい味だった。まるで、息子の優しさが形になったようだった。
その夜、ベッドの中で私は手紙を書いた。息子に伝えたかったことを、できるだけ丁寧に言葉にした。
「この前、お米のこと、ごめんね。お母さんがつい、そんなことを言ってしまったばかりに…。本当に、ありがとう。でも、無理しないでね。就活、大変でしょう?お母さんは、あなたが健康で、自分のやりたいことを見つけて、毎日を楽しく過ごしていることが、一番嬉しいんだから。お米のことは、もう気にしないで。お母さん、ちゃんとご飯食べて、元気でいるからね。」
手紙を書きながら、涙が止まらなかった。息子の優しさが、私の心を締め付け、同時に自分の不甲斐なさに気づかされた。看護師さんの言葉が頭の中で繰り返される。「共依存」。それは、私が息子の人生をコントロールしようとしているということだろうか。確かに、私はいつも彼のことを心配し、彼のすることなすことに口を出してきた。それは、彼のためだと思っていたけれど、もしかしたら、私自身のためだったのかもしれない。彼を必要としている自分が、彼を支えていることで自分の存在意義を確認している自分がいたのかもしれない。
手紙を送ることで、少しだけ心が軽くなったように感じた。でも、それは一時的なものでしかないこともわかっていた。私は、もっと自分自身と向き合い、息子との関係を、新しい形で築いていかなければならないと感じていた。それは、簡単なことではないだろう。けれど、息子の優しさを胸に、私は一歩ずつ、前に進んでいこうと決意した。窓の外には、夕焼けが広がっていた。明日も、また新しい一日が始まる。
凍えるような寒さが窓の外に広がっている。病院の食堂で食べる食事は、栄養が考慮されているとはいえ、どこか物足りなく感じることが多かった。白い蛍光灯の下、無機質な長机と椅子の並ぶ空間で、私は冷めた味噌汁とパサついた白米を口に運んでいた。塩辛い味噌の味が舌に残る。食べ終わる頃にはいつも、胃は満たされても、心の隙間は埋まらない気がしていた。
数日前、息子と電話で話していた時のことを思い出す。息子は、私が病院に入院していることを心配して、電話をかけてきた。いつものように、彼の声は優しくて、私を気遣ってくれる。
「お母さん、最近、体調はどう?」と、少し沈んだ声で言った息子に、私はできるだけ明るく答えるように努めた。
「元気よ。病院食は…そうね、あまりおいしくないけれど、栄養のことを考えたら、仕方ないわね。」
その時、息子がちょっとだけ間をおいて、何かを言いあぐねるように言った。
「ねえ、お母さん。最近、お米、ちょっと高いよね?」
私は思わず、息子の声のトーンに気づいた。少し心配している様子が伝わってきた。私たちの家計は、以前よりも余裕がなくなってきていた。それでも、息子には心配をかけたくないという気持ちから、私はいつものように笑って答えた。
「そうね。でも、安いお米でも、ちゃんと炊けばおいしくなるから、大丈夫よ。」
実際、ここ最近買ったお米はあまりおいしくなくて、炊きあがりがパサパサしていた。米粒が口の中でバラバラになり、甘みも感じられない。だが、息子に心配をかけたくないから、そう言ったのだった。
「うん、そうだね。お母さんが元気なら、それが一番だよ。」
息子のその言葉に、私はふっと胸が温かくなる思いがしたが、同時に、心の中で少しだけ引け目を感じた。私が元気だと言うことで、息子は安心してくれるのだろうけれど、実際には心配事がたくさんあるのではないだろうか。電話の向こうで、息子はどんな顔をしているのだろうか。少し眉をひそめ、心配そうにしているかもしれない。
数日後、病室に大きな段ボール箱が届いた。差出人は息子の名前だった。箱を開けてみると、見たこともない立派な米袋が二つ、丁寧に詰められていた。米袋には「〇〇産こしひかり」と書かれている。
「お母さん、前にお米のこと言ってたでしょ?ちょっと奮発して、美味しいお米を買ったんだ。」
電話口の息子の声は、いつもと同じように優しかったが、その中に少しの不安が含まれているようにも感じた。
「え…でも、そんな高いお米なんて…。本当にありがとう。」
私は言葉を失った。息子は就職活動をしている最中で、決してお金に余裕があるわけではない。にもかかわらず、私のためにそんなに高価なものを買ってくれたのだ。息子が私を喜ばせたかったのだと分かりながら、私はどこかで罪悪感を感じてしまった。
「お母さんが、おいしいご飯を食べられるようにと思って…。」
その言葉が、私の胸に深く刺さった。息子は、私が何気なく言った言葉を真剣に受け止め、無理をしてでも私を喜ばせようとしたのだ。その優しさが、私の心を揺さぶった。
「ありがとう、本当にありがとう。でも、無理しないでね。お母さんは、お前が元気でいてくれることが一番嬉しいんだから。」
その言葉を、電話越しに伝えるのが精一杯だった。涙が込み上げてきて、私はそれを隠すことができなかった。息子は、私が精神的に苦しんでいることを理解してくれている。それでも、私は息子に迷惑をかけたくないという思いが強くて、どうしても感謝の気持ちを素直に表せなかった。
その日の夕食、炊き立てのご飯を口にした。湯気とともに立ち上る甘い香り、口の中に広がる優しい甘み。それは、病院食とは全く違う、温かく、懐かしい味だった。まるで、息子の優しさが形になったようだった。
その夜、ベッドの中で私は手紙を書いた。息子に伝えたかったことを、できるだけ丁寧に言葉にした。
「この前、お米のこと、ごめんね。お母さんがつい、そんなことを言ってしまったばかりに…。本当に、ありがとう。でも、無理しないでね。就活、大変でしょう?お母さんは、あなたが健康で、自分のやりたいことを見つけて、毎日を楽しく過ごしていることが、一番嬉しいんだから。お米のことは、もう気にしないで。お母さん、ちゃんとご飯食べて、元気でいるからね。」
手紙を書きながら、涙が止まらなかった。息子の優しさが、私の心を締め付け、同時に自分の不甲斐なさに気づかされた。看護師さんの言葉が頭の中で繰り返される。「共依存」。それは、私が息子の人生をコントロールしようとしているということだろうか。確かに、私はいつも彼のことを心配し、彼のすることなすことに口を出してきた。それは、彼のためだと思っていたけれど、もしかしたら、私自身のためだったのかもしれない。彼を必要としている自分が、彼を支えていることで自分の存在意義を確認している自分がいたのかもしれない。
手紙を送ることで、少しだけ心が軽くなったように感じた。でも、それは一時的なものでしかないこともわかっていた。私は、もっと自分自身と向き合い、息子との関係を、新しい形で築いていかなければならないと感じていた。それは、簡単なことではないだろう。けれど、息子の優しさを胸に、私は一歩ずつ、前に進んでいこうと決意した。窓の外には、夕焼けが広がっていた。明日も、また新しい一日が始まる。
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