季節の織り糸

春秋花壇

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銀杏の循環

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銀杏の循環

冬の訪れを前にした小さな公園。銀杏の木々が色づき、黄金のカーペットのように地面を覆っていた。その中を、一人の男性が歩いている。彼の名前は安田正彦。定年退職を迎えてから数年が経ち、今では日々の散歩が唯一の楽しみだった。

正彦はふと足元の銀杏の葉を踏みしめた。乾いた音が耳に心地よく響く。葉が踏まれた衝撃で粉々になり、風に吹かれて土に還っていく様子を見つめ、自然の営みに思いを馳せた。

「これも、循環の一部なんだな……」

正彦は静かに呟いた。

かつて、彼は大企業の中間管理職として働いていた。忙しい日々に追われ、家族との時間はほとんどなかった。娘の彩花が結婚する際も、式には顔を出したが、心は会社の資料に奪われていた。退職後、やっと時間に余裕ができたが、家族との距離は埋まらないままだった。

娘は今、地方で家族を持ち、母親となっている。正彦には孫がいるが、会う機会は少ない。「また行こうと思ってるんだ」と言い訳がましく言うものの、その「また」はずっと訪れなかった。

そんな彼の生活を変えたのは、公園での散歩だった。日々のルーティンの中で、自然の変化を感じる時間が、彼の心を少しずつ癒していった。

その日も、正彦は公園のベンチに腰を下ろし、落ち葉を眺めていた。黄色の葉はどこか温かく、心を包み込むようだった。

「自然はいいな。何も言わずにすべてを受け入れてくれる。」

そんな独り言を呟いた瞬間、近くから声が聞こえた。

「おじいちゃん、銀杏の葉、好きなの?」

振り返ると、小さな女の子が立っていた。見たところ、4歳くらいだろうか。ピンクの帽子を被り、白いコートを着ている。

「おじいちゃんじゃないよ、まだ若いんだから。」

正彦は少し照れ笑いを浮かべながら答えた。

「でも、銀杏の葉は好きだよ。どうして?」

女の子は手に一枚の銀杏の葉を持っていた。それを見せながら、嬉しそうに言った。

「これ、ハートみたいじゃない?」

正彦はその葉をじっと見つめた。確かに、葉の形はハートに似ている。こんなことを言われるのは初めてだった。

「そうだね、ハートみたいだな。」

正彦は笑顔で答えた。女の子も満足げに微笑んだ。その瞬間、どこか懐かしい気持ちが胸を満たした。

その後、女の子と母親らしき女性が立ち去り、正彦は再び一人になった。ふと手にした銀杏の葉を見つめながら、娘の彩花の幼い頃を思い出した。彼女もまた、こんな風に自然に触れながら無邪気に笑っていた。

「あの頃は忙しさにかまけて、何もしてやれなかったな……」

正彦はそう呟き、落ち葉をそっと地面に戻した。それはまるで、自分の過去の罪を自然に委ねるような行為だった。

その晩、正彦は娘に電話をかけた。久々の連絡に、彩花は少し驚いた様子だったが、すぐに笑い声が聞こえてきた。

「どうしたの、お父さん?」

「いや、特に用はないんだけどな。ただ、そっちはどうしてるかと思って。」

話の中で、正彦は今日出会った女の子の話をした。彩花は静かに聞いていたが、やがてこう言った。

「それって、私が小さい頃みたいだね。覚えてる?お父さん、昔、私と一緒に落ち葉を踏んで遊んだことがあったよ。」

正彦は一瞬、言葉を失った。そんな記憶は全くなかったからだ。しかし、娘の声はどこか懐かしく、あたたかかった。

「そうだったか……すまなかったな、あの頃は仕事ばかりで。」

「大丈夫だよ。お父さん、元気そうでよかった。」

彩花の声に、正彦の胸が熱くなった。

翌朝、公園を再び訪れた正彦は、銀杏の木に手を伸ばし、一枚の葉を手に取った。ハートの形をしたその葉をポケットにしまい、歩き出した。

「また一歩、前に進めた気がする。」

正彦はそう呟きながら、空を見上げた。冬の冷たい風が吹く中、銀杏の葉は静かに地球へと還っていく。それはまるで、彼の人生の欠片が新しい循環の一部となるような瞬間だった。

自然の営みは止まらない。葉が朽ちて土に還り、また新しい命が生まれる。その繰り返しの中で、人間もまた何かを学び、変わり、前へ進んでいくのだろう。

「ありがとうな、銀杏。」

正彦の呟きは、風に乗ってどこかへ消えていった。







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