季節の織り糸

春秋花壇

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季節の織り糸

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「季節の織り糸」

11月6日、気温が冷え込む夕方の街。東京の喧騒から少し離れた古い織物工房で、夏美は織機に向かいながら糸を手で撫でていた。指先に触れる糸の滑らかさに、彼女はふっと息をついた。

この日、彼女の心には一抹の寂しさが影を落としていた。秋が深まり、冬が近づくこの時期には、心が自然と沈んでしまうのだ。織物に季節の彩りを込めるようになったのは、そんな心を少しでも紡いでみようと思ったからだった。

「季節の織り糸」──彼女がつけたこのタイトルは、単に秋や冬を映す色彩を意味するものではない。季節ごとに様々な思い出が糸のように心に絡みつき、それが彼女の手の中で静かに形を成していく。それは、彼女自身の「心の織物」だった。

今日もまた、彼女の手元には紅葉をイメージした深い赤と柔らかな黄の糸が並んでいた。一本一本が秋の終わりを告げるような色合いで、見るだけで胸が少し締め付けられる。指先で糸を拾いながら、夏美は思わずかつての恋人の姿を思い浮かべた。

その恋人と別れたのは去年の冬の終わり、春の訪れが待ち遠しい季節だった。彼はいつも物静かで、言葉が少ない分、夏美の表情をじっと見つめてはそっと手を握り返してくれた。そんな彼との時間が、今はすべて織り糸のように彼女の記憶に絡みつき、ふとした瞬間に彼女を揺さぶるのだ。

「きれいだな、こうして織られていく布はさ」と、彼がぼそりとつぶやいた日のことを思い出す。彼がそっと手を重ねてくれたのが、ほんの昨日のことのように蘇る。だが、彼が立ち去った日の冷たい風もまた、昨日のように彼女の胸を締めつける。

あの別れの日、彼は何も告げず、ただ「元気でな」とだけ呟き、背を向けた。夏美は何も言えず、ただ寒さに震えるように立ち尽くしていた。それから彼は戻らなかったが、夏美はその時感じた言い知れぬ痛みを忘れることができなかった。織機に向かいながら、「あれは何だったのだろう」と自問することが増えた。

そしてその感情は、季節の移ろいとともに、織物に現れていた。春には淡い桜色を、夏には清涼な青を織り込むが、秋の終わりには必ず、切ない色合いを選んでしまう。それは、かつての彼の記憶が、秋の冷たさに重なり合うせいかもしれない。

夕方になり、工房の窓の向こうに橙色の夕日が差し込むと、夏美は一度手を休めて深く息をついた。糸に込めた秋の色が夕日の光で淡く輝き、一瞬、彼女の心が温まるような気がした。だが、それも一瞬のことで、またじわりと寂しさが戻ってくる。

「これで、本当にいいのかしら…」

夏美は自分に問いかけるが、答えは見つからない。彼と過ごした季節が彼女の胸に染み付いている限り、彼女の織物もまた彼への想いを紡いでしまうのだろう。彼に触れていた頃の幸せな感覚が、糸の一本一本に宿っているように思える。それを織り続けていく限り、彼女は彼から離れられない気がした。

「でも、もう終わらせないと」

彼を忘れるために、冬が訪れる前に今度こそ区切りをつけるべきだと、夏美は思った。だが、そう決意するたびにまた、その想いがひどく彼女の心を締めつける。彼女にとって織物は、恋人との思い出を手放さないための小さな拠り所でもあったのだ。

夜が更け、工房のライトが小さな明かりを灯し始めたころ、夏美は最後の一本を織り機にかけた。織り上げた布地には、秋の紅葉を映す深い赤と黄、そしてわずかに彼女の涙のような滲んだ紫が混じっている。これを最後にしようと心の中でつぶやきながらも、彼女はその布地に自然と触れずにはいられなかった。

静寂が広がる中、夏美はそっと布を抱き寄せて、目を閉じた。彼との日々、言葉少なだった彼が見せた柔らかな微笑み、寒い冬に手を重ねた温かさが、布越しに再び彼女に伝わってくるようだった。

「ありがとう。さようなら」

夏美は小さく呟き、ようやくその布を手放すことにした。そして、彼の記憶を閉じ込めた最後の「季節の織り糸」をそっと仕舞いながら、これからの季節をまた新しい糸で紡いでいこうと、心の中で決意した。

彼を思い続けた季節は、もう終わりにしなければならない。彼女は窓の向こうで沈んでいく秋の夕日を見つめながら、冬の冷たい空気が彼女の心をそっと包み込むのを感じていた。

新しい季節に、また新しい糸を紡いでいく──それが、彼女にとってのささやかな再出発だった。







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