季節の織り糸

春秋花壇

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秋黴雨(あきばいう)

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「秋黴雨(あきばいう)」

10月の終わり、東京の空は鉛色の雲に覆われ、細かな雨がしとしとと降り続いていた。この季節の長い雨、秋黴雨(あきばいう)は、夏の名残を洗い流すように冷たく、そしてどこか寂しい。まるで季節が次の段階に進むための準備をしているかのようだった。

木村彩乃(あやの)は、自宅の窓からその雨を見つめていた。薄暗い空に、しずくが静かに垂れていくのをぼんやりと追う。彼女はこの雨が好きではなかった。肌寒い季節に、なおさら心を冷やすような雨。それが秋黴雨だ。だが今日は、そんな雨の音さえも心を慰めてくれるように感じた。

「こんな日に外出なんて、やめればいいのに」と、彩乃は自分に言い聞かせた。だが、彼女の心は今日だけは外に出ることを拒めなかった。あの日の約束を果たすために、彼に会いに行かなければならなかったからだ。

彼の名前は高橋悠斗(ゆうと)。二人は大学時代に出会い、5年間付き合った。しかし、悠斗は1年前、突然彼女の元を去った。理由は何も言わず、ただ一言「もう会えない」とだけ残して。彩乃はその理由を知りたかった。別れた後も、その言葉の意味を考え続け、どうしても理解できなかったのだ。

しかし、1週間前、突然悠斗から連絡があった。秋黴雨の降る今日、ある場所で会いたいと。それが最後の再会になるのか、それとも何か新しい展開が待っているのか、彩乃には分からなかった。ただ、彼の言葉に、どうしても会いたいという気持ちが押し寄せてきた。

第1章 再会の約束
指定された場所は、二人がかつてよく通った小さな喫茶店だった。東京の中心部から少し離れた閑静な住宅街にあり、コーヒーの香りが漂う、落ち着いた雰囲気の店だ。二人は何度もその店で過ごし、雨の日も晴れの日も、互いに寄り添い合っていた。彩乃にとって、この店は二人の思い出が詰まった場所だった。

彼女が店に着いた時、店内はほとんど空いていた。秋黴雨が降り続く中、外に出る人は少ないのだろう。彩乃は静かにドアを開け、窓際の席に座った。彼が来るまで少し時間がある。店の窓から見える雨が、さらに激しさを増しているように見えた。

彼との再会を思うと、心臓が激しく脈打ち始める。何を話せばいいのか、どんな表情をすればいいのか、彩乃は一人で不安に駆られていた。しかし、その時、ドアの音が静かに鳴り、悠斗が現れた。

第2章 別れの真相
悠斗は、少し痩せたように見えた。顔つきも、どこか疲れたような影が落ちている。しかし、彼は彩乃を見ると、いつもの優しい笑みを浮かべた。二人は言葉を交わさず、静かに席に座った。雨音が店内に響き、二人の間に重たい空気が流れる。

「久しぶりだね」と、悠斗が最初に口を開いた。

「そうだね、1年ぶりかな」と彩乃が答える。

「突然の連絡、驚かせてごめん。どうしても、話したいことがあって…でも、今日を逃したら、もう言えない気がして」

悠斗の声は少し震えていた。彩乃は彼の言葉をじっと聞き、次に続く言葉を待った。彼がなぜあの日、何も言わずに去ったのか、それをずっと知りたかった。

「本当は、あの時に言うべきだったんだ。でも、言えなかった。あまりに急すぎて、どう説明していいのか分からなかった」

悠斗は少し目を伏せ、テーブルの上に置いたコーヒーカップをじっと見つめていた。そして、ゆっくりと続けた。

「俺、1年前に父親が倒れたんだ。急に心臓発作で。それ以来、家族を支えるために仕事を変えなきゃならなくなった。すぐに実家に戻って、介護も始めて…あの頃は、本当に余裕がなかった」

彩乃は言葉を失った。そんなことがあったとは、まったく知らなかった。彼はそんな困難な状況にいて、何も言わずに彼女から距離を置いたのだ。

「でも、なんでそれを言ってくれなかったの?私も助けになれたかもしれないのに」

「それが、俺のプライドだったんだ。彩乃には、こんな辛い現実を見せたくなかった。自分の問題で君を巻き込みたくなかったんだよ。でも、それが間違いだった。君を信じて、話すべきだったと今では思う」

悠斗の言葉は深い後悔に満ちていた。彼は、あの日の別れを選んだことで、失ってしまったものの大きさを痛感していた。

「もう遅いかもしれないけど…今さらだけど、俺は彩乃のことを本当に愛してた。今でも、その気持ちは変わらない」

第3章 再び雨の中へ
悠斗の告白を聞いて、彩乃はしばらく言葉が出なかった。彼が苦しんでいたこと、彼女に何も言えなかったこと、すべてが今になってようやく理解できた。だが、もう1年が経ってしまった。二人の間には、もう戻れない時間が流れていた。

「悠斗…私もあなたのことを忘れられなかった。でも、私たちはきっと違う道を歩む運命だったんだと思う」

そう言うと、彩乃は静かに立ち上がり、外を見つめた。雨はまだ降り続いている。秋黴雨は、まるで二人の最後の言葉を洗い流すかのように、強く降り注いでいた。

「ありがとう、今日会ってくれて。本当にありがとう」

悠斗もまた、立ち上がり、彼女に微笑んだ。二人は最後に短い抱擁を交わし、静かに別れた。それが二人にとって、最後の再会となった。

外に出ると、雨はさらに激しさを増していた。彩乃は傘をさし、冷たい雨の中を歩き出した。過ぎ去った時間、そして残る想い。すべてがこの秋黴雨に流されていく。彼女の心は少し軽くなり、次の季節へと向かう準備ができたように感じた。

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