季節の織り糸

晩夏の闇

晩夏の闇

8月も終わりに近づく頃、都会の喧騒はまだ熱を帯びていた。日差しは少しずつ和らいできたものの、夜になっても蒸し暑さが残る東京の片隅で、一つの殺人事件が静かに進行していた。現場は、かつて栄えた商店街の裏手にある古いアパートだった。

「被害者はこのアパートの住人、三浦彩香さん、年齢は28歳です。」

刑事の吉川が現場に到着すると、先に到着していた鑑識の一人が手早く説明を始めた。部屋の中は薄暗く、カーテンが引かれたままの窓からは夕日の名残がかすかに差し込んでいる。床には血痕が広がり、その中心には倒れた若い女性の姿があった。彩香は白いワンピースを着ていたが、胸には深く刺されたナイフが突き刺さっていた。

「凶器はこれか？」吉川は、血まみれのナイフに目をやった。

「ええ、現場にあったものです。ですが、指紋は拭き取られていました。完全に計画的ですね。」

「そうか……」吉川は周囲を見渡した。部屋は散らかっているわけではなく、むしろ整然としていた。殺人現場というよりも、何もなかったかのように見えるその光景に、吉川は違和感を覚えた。

吉川は部屋を調べている最中、彩香の携帯電話を見つけた。画面には最近の通話履歴が残っており、そこには彼女の友人や職場の同僚の名前が並んでいた。しかし、最後に通話していたのは「非通知」の相手だった。

「非通知か……怪しいな。」吉川はそうつぶやき、直感的にその非通知の相手に事件の鍵があると感じた。彼はすぐにデジタル捜査班に依頼し、通話の履歴を調べ始めた。

捜査が進む中、彩香の人間関係を洗ううちに、彼女が最近、誰かにストーカーされているという話が浮上してきた。だが、警察には正式な通報はなく、友人にだけそのことを漏らしていたようだ。友人たちによると、彩香は最近「誰かに見られている気がする」と話しており、特に夜になると不安が増していたという。

吉川は次第に、非通知の相手がそのストーカーなのではないかという疑念を強めた。そして、彼女が住んでいたアパートの防犯カメラの映像を確認することにした。映像を巻き戻していくと、事件当日の夜にアパートの出入り口で不審な男がうろついている姿が映っていた。男は帽子を深く被り、顔を隠すようにしていたが、その動きには何か焦りが感じられた。

「こいつが犯人かもしれない……」吉川は映像のコピーを手に入れ、彼の身元を割り出すべく周辺の聞き込みを開始した。

数日後、吉川は事件の進展を聞くために再びアパートを訪れた。その日は異様に蒸し暑く、夕立が降る前の重い空気が町を包んでいた。吉川がアパートに到着すると、ドアの前に一人の男性が立っていた。彼は30代後半くらいで、落ち着いたスーツ姿だったが、どこかその目には狂気が宿っているように見えた。

「誰だ、あんたは？」吉川が尋ねると、男は無言で吉川を見つめた。やがて男は不自然に笑い、ポケットから何かを取り出した。それはスマートフォンで、吉川が確認すると、それは彩香のものと同じ機種だった。

「その携帯は……お前が犯人か？」吉川が一歩踏み出した瞬間、男は急に駆け出し、アパートの階段を駆け下りて行った。吉川はすぐに追いかけ、狭い通路を全力で走った。男は息を切らしながらも走り続け、商店街の裏手に逃げ込んだ。しかし、追い詰められた男は次第にスピードを落とし、ついには壁に寄りかかるようにして立ち止まった。

「もう逃げられないぞ。観念しろ！」吉川が男に向かって手錠をかけると、男はついに観念したように肩を落とした。そして、静かに語り始めた。

「俺は……彼女のことを守りたかったんだ……誰かに奪われるのが怖くて……だから……」

男の言葉は乱れ、涙で顔を歪めていた。彼は彩香の元恋人であり、別れた後も彼女のことを忘れられずにいたという。ストーカー行為を繰り返し、やがて彼女の生活に干渉し始めた。しかし、彩香に拒絶される度に彼の行動はエスカレートし、ついにその執着が彼を狂わせたのだった。

「俺は……ただ彼女を……」男の声は次第に小さくなり、吉川はその言葉を静かに受け止めた。

後日、吉川は彩香の友人たちに事件の真相を伝えた。彼女は恋人に愛されていたはずが、その愛が歪んだ形で命を奪ったという真実に、誰もが言葉を失っていた。

夏の終わり、蒸し暑さが少しずつ和らいでいく中で、吉川は事件現場を一人で訪れた。あの夜に起きた惨劇の記憶がまだ鮮明に残るアパートの前で、吉川は空を見上げた。沈む夕日がわずかに赤く染める空は、あの日と変わらず美しかった。しかし、その美しさの裏には、取り返しのつかない悲劇が隠されていた。

吉川は小さく息をつき、心の中で彩香に手を合わせた。彼女の魂が、安らかに眠ることを願いながら。