ギリシャ神話

創作

ヘラの痛み

「ヘラの痛み」

オリュンポスの神々が集まる大広間。その片隅で、女神ヘラは王座に座るゼウスをじっと見つめていた。彼の背中は、かつて見惚れたほどに威厳に満ち、神々を率いる王の風格が漂っている。しかし、今やその姿を見るたびに、彼女の胸には鋭い痛みが走るのだった。

ヘラは幾度となくゼウスの裏切りを許そうとした。神々の女王としての誇りを守るため、そして何より、神としての秩序を乱すまいとする意識があった。しかし、ゼウスの行動は彼女の心を粉々に砕き、そのかけらが今も彼女の胸に刺さっている。

彼女はふと、過去の痛ましい記憶を思い返す。あの若く美しいセメレのことだ。ゼウスは、彼女が人間であるにもかかわらず惹かれ、愛人とした。そのことが公になったとき、ヘラは屈辱を味わい、傷ついた。それでも、ゼウスは彼女に正直に向き合うことすらしなかった。セメレがゼウスに対し本来の姿を見せるよう頼んだとき、ゼウスがそれを断り切れず、彼女を死に至らしめたという話を聞いたとき、ヘラは嘆息した。「人間の命を犠牲にするほど、あなたの愛は軽いのか」と。

「あなたの愛が誰かを幸福にしたことがあるかしら、ゼウス？」

ある日、彼女はゼウスに向かってそう問いかけたことがある。だが、ゼウスはその問いに答えず、ただ気まずそうに目を逸らしただけだった。その冷たい沈黙が、ヘラの心にさらに深い悲しみを残した。

また、イオのことも忘れることができなかった。ゼウスはイオに恋し、白い雌牛に変えてまで彼女を隠そうとしたが、ヘラはその事実を見抜いた。彼の愛はどれも隠匿と偽りに満ちていた。イオが姿を変えられ、アルゴスに監視され、絶えず逃げ回る姿を見たとき、ヘラは怒りを抑えることができなかった。イオが神々の王であるゼウスの愛によってどれだけの苦しみを受けたかを思うと、胸の奥が煮えくり返った。

「あなたは、愛のためにどれだけの者を苦しめたかわかっているの？」

それは、ヘラがずっと問い続けてきた心の声だった。ゼウスの愛は、必ずしも悪意ではないかもしれない。しかし、彼の力と地位をもってすれば、その一瞬の感情が他者にとっては永遠の苦しみとなり得るのだ。ヘラは、そんなゼウスの無自覚さと無責任さに苛立ちを覚えずにはいられなかった。

レダもまた、ゼウスの罪の一つであった。彼は白鳥に変身し、レダに近づいた。その行為は詩や物語で美しく語られることが多いが、ヘラにとってはそれは冷酷な裏切りに他ならなかった。彼が何度も姿を変え、他の女性たちに近づく度に、ヘラは心の奥底で傷つき、自分自身の価値を見失いそうになっていた。彼の裏切りに耐え続けることで、どれだけの自尊心を失い、心の重荷を抱えてきたことか。

そして、最も許しがたいのは、彼が彼女の前でもなお、こうした行為を繰り返すことだった。ヘラは神々の王妃として、彼の傍らに立ち、彼を支えてきたが、彼女の犠牲と忍耐は決して報われることはなかった。

ある晩、ゼウスが星空を見上げながら物思いにふけっている姿を見かけたとき、ヘラは静かに彼の隣に立った。そして、冷ややかな声でこう告げた。

「あなたの罪は、私にとって決して消えないわ。けれど、あなたがこのまま後悔と共に歩みを止めるつもりなら、それはただの弱さよ。私のように耐えることもできない、ただの愚かな王としてしか映らないでしょう」

その言葉にゼウスははっと顔を上げ、彼女を見つめた。その目には痛みと戸惑いが浮かんでいたが、ヘラはその視線を冷淡に受け流した。彼がいかに後悔しようと、今さら彼女の傷は癒えることはない。彼女は神々の女王として、そして女性として、自らの誇りを守るためにここに立っているのだ。

「私がここにいるのは、あなたへの愛ゆえではないわ。ただ、このオリュンポスを支えるため、私は神々の王妃である義務を果たすだけ。それを忘れないで」

ヘラの言葉は冷たく、鋭く、ゼウスの胸に深く突き刺さった。その背を向けて去るヘラの姿を見送りながら、ゼウスは自分の罪の重さを改めて思い知った。そして、その重みによって、彼はこれからも耐え続けなければならないのだと悟った。