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揺れる家
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「揺れる家」
その家は、父と母が汗水流して建てた家だった。築40年を迎え、古びた柱や畳には、二人の人生の記憶が刻まれている。けれど、その家は今、私たち家族にとって重荷となっていた。
父は75歳、脳梗塞を患い半身不随となった。母も72歳で軽度の認知症を抱え、二人とも一人では生活できない状態だ。私は実家に戻り、彼らの介護をすることにした。
私ももう40代後半、派遣社員として働きながらの介護生活だった。正直、余裕などどこにもなかった。父の退職金はとうに尽き、年金も二人の医療費と生活費でほとんど消えてしまう。
「家を売るしかないのか……」
ふと、つぶやいた言葉に、母が反応した。
「家を売る?どうしてそんなことを言うの?」
「だって、もうお金がないんだよ。この家を売れば、もう少し楽になるかもしれない」
母はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。
「この家を売ったら、私たちの居場所がなくなる気がする……」
父はベッドの上で無表情のままだった。
「お父さんはどう思う?」
返事はなかったが、父の目に一瞬、涙が浮かんだように見えた。
家を売る――その言葉の重さが、改めて胸にのしかかる。この家には、私たち家族の歴史が詰まっている。小さい頃、母が作ったおはぎを食べた縁側、父と一緒に直した雨漏りの屋根。それを手放すことは、ただの財産の処分ではないのだ。
しかし現実は待ったなしだ。介護のために仕事を減らしたせいで収入も減り、貯金はほとんど底をついている。生活保護を申請しようとしたが、母名義のこの家が「資産」と見なされ、却下された。
「家を売ればいいじゃないですか」
役所の窓口で、担当者が淡々と言ったその言葉が耳にこびりついて離れない。
ある日、訪問看護師の女性がぽつりと教えてくれた。
「最近はリバースモーゲージを利用する人も多いですよ」
それは、自宅を担保にしてお金を借りる制度だった。ただし、利用には厳しい条件があり、古い家や地方の物件は対象外になることもある。私たちの家がその対象になるかは、わからなかった。
夜中、眠れずに家の中を歩き回った。薄暗い廊下を通り、縁側に座ると、月明かりが庭を照らしていた。かつては父が丹精込めて手入れをしていた庭も、今は草が生い茂り荒れ果てている。
「どうするんだ、これから……」
心の中で何度も繰り返した。答えは出ない。
翌日、不動産業者を呼んで査定をしてもらった。提示された金額は予想よりはるかに低かった。
「正直、このエリアでは買い手が少ないんです」
家を売ったところで、介護費用が潤沢になるわけではない。その上、住む場所を失うリスクもある。それでも、他に選択肢はないように思えた。
そんなある日、隣の住人である70代の夫婦が声をかけてきた。
「何か困ってることがあったら言ってね。私たちも老後のこと、他人事じゃないから」
その言葉に、ふと考えが浮かんだ。この家を手放さず、地域の助けを借りながら生活を続ける方法はないだろうかと。
地域の福祉団体や介護サービスを利用し始めると、少しずつ光が見えてきた。近所の人たちも手伝ってくれるようになり、私自身も介護の負担が減った。そのおかげで、少しずつ仕事を増やすことができた。
家を売る決断は、今はまだしていない。けれど、この家に流れる時間が、私たち家族にとってかけがえのないものであることを、改めて感じている。
父と母がゆっくりと歩んできた人生、その足跡を刻んだ家。私はその家の柱をそっと撫でながら、もう一度つぶやいた。
「どうにか、この家で暮らしていける道を見つけたい」
たとえその道が険しくても、この家が私たちを支えてくれる気がしたからだ。
その家は、父と母が汗水流して建てた家だった。築40年を迎え、古びた柱や畳には、二人の人生の記憶が刻まれている。けれど、その家は今、私たち家族にとって重荷となっていた。
父は75歳、脳梗塞を患い半身不随となった。母も72歳で軽度の認知症を抱え、二人とも一人では生活できない状態だ。私は実家に戻り、彼らの介護をすることにした。
私ももう40代後半、派遣社員として働きながらの介護生活だった。正直、余裕などどこにもなかった。父の退職金はとうに尽き、年金も二人の医療費と生活費でほとんど消えてしまう。
「家を売るしかないのか……」
ふと、つぶやいた言葉に、母が反応した。
「家を売る?どうしてそんなことを言うの?」
「だって、もうお金がないんだよ。この家を売れば、もう少し楽になるかもしれない」
母はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。
「この家を売ったら、私たちの居場所がなくなる気がする……」
父はベッドの上で無表情のままだった。
「お父さんはどう思う?」
返事はなかったが、父の目に一瞬、涙が浮かんだように見えた。
家を売る――その言葉の重さが、改めて胸にのしかかる。この家には、私たち家族の歴史が詰まっている。小さい頃、母が作ったおはぎを食べた縁側、父と一緒に直した雨漏りの屋根。それを手放すことは、ただの財産の処分ではないのだ。
しかし現実は待ったなしだ。介護のために仕事を減らしたせいで収入も減り、貯金はほとんど底をついている。生活保護を申請しようとしたが、母名義のこの家が「資産」と見なされ、却下された。
「家を売ればいいじゃないですか」
役所の窓口で、担当者が淡々と言ったその言葉が耳にこびりついて離れない。
ある日、訪問看護師の女性がぽつりと教えてくれた。
「最近はリバースモーゲージを利用する人も多いですよ」
それは、自宅を担保にしてお金を借りる制度だった。ただし、利用には厳しい条件があり、古い家や地方の物件は対象外になることもある。私たちの家がその対象になるかは、わからなかった。
夜中、眠れずに家の中を歩き回った。薄暗い廊下を通り、縁側に座ると、月明かりが庭を照らしていた。かつては父が丹精込めて手入れをしていた庭も、今は草が生い茂り荒れ果てている。
「どうするんだ、これから……」
心の中で何度も繰り返した。答えは出ない。
翌日、不動産業者を呼んで査定をしてもらった。提示された金額は予想よりはるかに低かった。
「正直、このエリアでは買い手が少ないんです」
家を売ったところで、介護費用が潤沢になるわけではない。その上、住む場所を失うリスクもある。それでも、他に選択肢はないように思えた。
そんなある日、隣の住人である70代の夫婦が声をかけてきた。
「何か困ってることがあったら言ってね。私たちも老後のこと、他人事じゃないから」
その言葉に、ふと考えが浮かんだ。この家を手放さず、地域の助けを借りながら生活を続ける方法はないだろうかと。
地域の福祉団体や介護サービスを利用し始めると、少しずつ光が見えてきた。近所の人たちも手伝ってくれるようになり、私自身も介護の負担が減った。そのおかげで、少しずつ仕事を増やすことができた。
家を売る決断は、今はまだしていない。けれど、この家に流れる時間が、私たち家族にとってかけがえのないものであることを、改めて感じている。
父と母がゆっくりと歩んできた人生、その足跡を刻んだ家。私はその家の柱をそっと撫でながら、もう一度つぶやいた。
「どうにか、この家で暮らしていける道を見つけたい」
たとえその道が険しくても、この家が私たちを支えてくれる気がしたからだ。
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