妻と愛人と家族

親の愛と子の心

『親の愛と子の心』

年老いた父親が、窓の外をぼんやりと眺めながら息をついた。背中はかつての自信とは違って、すっかり丸まっていた。年金も少なく、老後の貯金も、子供たちの教育費や生活費でほとんど使い果たしていた。自分の老後を支えるのは、もはやわずかばかりの年金と、遠くに住む三人の子供たちだけであった。

長男の正一は大企業の役員で、裕福な生活をしている。次男の和也は小さな会社を経営し、何とか生活しているが、余裕はない。そして、末っ子の美咲は独身で、都会のマンションで暮らしているが、まだ自分の生活で手一杯の様子だった。

先週末、長男の正一がひさしぶりに実家を訪ねてきた。父親が「そろそろ施設も考えないといけない年齢だ」とぽつりと漏らすと、正一は曖昧な返事をして、視線を逸らした。「まぁ、考えておくよ」とだけ言い、すぐに帰ってしまった。その後も次男や末っ子に連絡を取ってみたが、皆どこか他人事のように感じられた。

父親は日々、頭の片隅にある不安を感じつつ、彼らに頼るのは甘えだと自分に言い聞かせた。しかし、ある日、ささいなことからその思いが抑えきれなくなった。体調が優れず、医者から「無理は禁物」と言われた夜、ついに彼の心が溢れ出した。

「年を取り、お金がなくなったとき、あなたは子供たちの本当の気持ちがわかるでしょう！そうではないか、少し考えてみてください。」

その一言が心に突き刺さり、涙が止まらなかった。思い返せば、彼は子供たちのためにすべてを捧げてきた。若い頃は、仕事で必死に働き、家族に何不自由ない生活を与えるために、己を犠牲にしてきた。それが当然だと思っていたし、家族を支えることに誇りを感じていた。しかし、その過去の努力が、今の自分を救ってくれるわけではないのだ。

その後も、父親は一人で静かに日々を過ごした。時折、子供たちから電話がかかってくることはあったが、彼らは忙しそうに話すだけで、特に彼の健康や生活について関心を示さなかった。「自分の人生なんだから、自分で面倒を見るのが当然だ」と割り切っているかのように感じられた。

ある日、近所の公園を散歩していると、若い母親が小さな子供と手をつないで歩いている姿を目にした。その光景を見て、ふと昔の自分と子供たちのことを思い出した。「あの頃は、子供たちが何よりも愛おしかった…」心の中でつぶやきながら、彼の心に一抹の寂しさがこみ上げてきた。

その夜、彼は机の引き出しから古いアルバムを取り出し、昔の写真を見始めた。幼い正一が笑顔で抱きついてきたあの頃、和也が初めて自転車に乗れた時の感激、美咲が一緒にケーキを作りたがった微笑ましい姿…どれも宝物のような記憶だった。愛情を注ぎ続けた時間がそこに詰まっていた。

彼は、子供たちが変わってしまったのではないかと考えていたが、実は自分が彼らの成長とともに変わってしまったのかもしれないとも思い始めた。彼らには彼らの生活があり、悩みもあれば責任もある。だからこそ、彼がしてあげられることは、彼らの生活を尊重することかもしれない。そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

次の日、父親は長男の正一に手紙を書くことにした。これまでの感謝の気持ちと、彼がどれだけ愛しているかを素直に綴り、自分の老後についてはあまり心配しないよう伝えた。その手紙を書いていると、どこか心が軽くなったように感じた。

それから数日後、驚いたことに、正一が突然家を訪れた。無言で差し出された手紙に、彼は何かを感じ取ったのだろうか。父親が戸惑いながらも微笑んでいると、正一がゆっくりと話し始めた。「父さん、今までありがとう。自分の家族に集中するのも大切だとわかっていたけど、僕はもっと父さんと向き合わなきゃいけなかったのかもな。」

その言葉に、父親の心はじんわりと温かくなった。正一が差し出した手を握りながら、彼は小さな声で言った。「ありがとう。あなたたちがどう感じているか、それがわかることが、何よりも嬉しい。」

その夜、父親は穏やかな気持ちで眠りについた。家族の愛情とは、言葉だけではなく、行動で示されるもの。彼はこれから、子供たちに寄りかかるのではなく、感謝の気持ちで一日一日を大切に生きることを決めたのだ。

その決意が、老いてもなお心を豊かにする支えとなり、子供たちへの本当の愛を再確認するきっかけとなった。