妻と愛人と家族

最後の季節

「最後の季節」

白い病室のカーテンが風にそよぐ。窓の外には秋の紅葉が広がり、夫婦にとっていつも心を温めてくれる風景だった。しかし今、その美しい景色が妻の目にはほとんど映っていなかった。

「インオペ」という言葉が、医師の口から発せられた瞬間から、妻の心には重い闇が覆いかぶさった。「手術不能」、つまり切除できないがん。夫は66歳。つい最近まで笑顔で「これからは二人でゆっくりと楽しもう」と話していた矢先のことだった。

「余命、三か月です。」医師の言葉は続いた。

現実を受け入れられない妻の頭の中には、過去の思い出が次々と蘇ってきた。若い頃の二人の姿、仕事に明け暮れながらも手を取り合って歩んできた日々、子どもたちが巣立ち、やっと二人だけの時間が戻ってきたこと、そして「老後は旅行に行こう」と夢見ていた未来。

涙が自然に頬を伝う。夫は弱々しい笑顔で妻の手を握り返し、静かに言った。「今まで、本当にありがとう。僕は幸せだったよ。」

「そんな…そんなこと言わないで！」妻は声を震わせ、涙をこらえきれなかった。「これからが私たちの時間だったのに。まだまだ一緒にいられると思っていたのに。」

夫は、少しずつ力を失っていく体を感じながらも、妻に向けて穏やかな笑顔を見せ続けた。「僕たちにはまだ三か月ある。今まで忙しくてできなかったことを、一緒に楽しもうじゃないか。きっと、今だからこそできることもあるはずだよ。」

それからの日々、妻は夫のそばで過ごす時間を大切にするようになった。小さな日常の一つ一つが、かけがえのない宝物のように感じられた。二人で季節の花を見に庭を散歩したり、静かにお茶を飲みながら昔の思い出話を語り合ったり。

ある日、夫がふとぽつりと言った。「紅葉が見られて、本当に良かった。次の季節が来る前に、僕は旅立つんだろうけど、君がひとりでも続けられるように、僕も少しずつ覚悟を決めないといけないな。」

その言葉に妻は思わず涙を流したが、夫の気持ちを汲み取り、心の中で静かに別れの準備を始めた。それは、愛する人を失うという辛く悲しい現実を受け入れるための、彼女なりの覚悟だった。

やがて、夫は体調が悪化し、家で過ごせる時間も限られてきた。病室での日々は決して楽ではなかったが、妻は「最後まで寄り添う」と決めていた。

冬の冷たい風が吹き始めた頃、夫は静かに息を引き取った。その表情は穏やかで、痛みや苦しみから解放されたようだった。妻は夫の冷たくなった手を握りながら、これまでのすべての時間を思い返し、感謝の言葉を胸に刻んだ。

「ありがとう、あなた。またいつか、どこかで会えるわね。」

それから数日後、妻は夫が生前に残した手紙を見つけた。そこにはこう書かれていた。

「君がひとりになっても、僕はいつも君のそばにいる。どうか、僕がいなくなっても、君は君らしく生きてほしい。そして、僕の分まで幸せでいてほしい。」

妻は涙を流しながら、手紙を抱きしめた。夫が伝えたかったのは、別れの悲しみだけでなく、その先にある新しい希望と、生きることの意味だった。

夫がいない生活は寂しい。しかし、彼が望んでいたように、妻は少しずつ、残された人生を前向きに生きていこうと決意した。