妻と愛人と家族

団地妻の午後

「団地妻の午後」

東京郊外の古びた団地。壁は薄い灰色で、かつての新築時の輝きはもうない。周囲は騒がしく、住人たちの生活音があちこちから聞こえてくる。平日の昼下がり、子どもたちは学校へ、夫たちは仕事へと出かけ、団地は静まり返る。

ここに住む30歳の佐々木綾子も、今日もまた一人の午後を迎えていた。綾子は結婚して7年目、夫の直樹と3歳の息子と共にこの団地に住んでいる。直樹は朝早く出勤し、帰宅はいつも遅い。綾子も家事や子育てに追われる日々だったが、夫との会話は日に日に少なくなっていた。

午後の薄い日差しが差し込む狭いリビングで、綾子は冷めたコーヒーを見つめていた。日々の忙しさに疲れを感じる一方で、夫との間に漂う距離感に、どこか孤独を覚えることが増えていた。

突然の来訪者

その日も午後の掃除を終えて窓を開け、ベランダから外を眺めていた時、不意にインターフォンが鳴った。誰かが訪れる予定はないはずだったので、少し驚きながらモニターを確認すると、そこには向かいの棟に住む吉田が映っていた。

吉田とは団地の夏祭りで挨拶を交わした程度の関係だったが、年齢も近く、たまに顔を合わせると軽く話すような仲だった。彼も団地暮らしの男性で、同じように一人で家にいることが多いようだった。

「こんにちは。ごめん、突然で…掃除機が壊れちゃってさ。少しの間、貸してもらえないかな？」

特に断る理由もなく、綾子は快く掃除機を貸し出した。吉田は礼を言って去っていき、その場はそれで終わると思っていた。

心の隙間

数日後、綾子がベランダで洗濯物を干していると、また吉田の姿が目に入った。彼もベランダに出ていたが、こちらに気づくと軽く手を振って微笑んだ。なんでもない日常の一コマでありながら、その笑顔に綾子は妙な温かさを感じた。

日が経つにつれて、吉田と会話を交わすことが増えた。掃除機を返しに来た時には団地の話や仕事のことを話し、時には一緒にエレベーターに乗ることもあった。彼の優しい声や、気さくに話しかけてくる仕草は、綾子にとって心の慰めとなっていった。

やがて、二人はベランダ越しに互いの生活の悩みを話すようになった。綾子は夫とすれ違いの多い生活に不満を抱いていることを漏らし、吉田もまた仕事のストレスを抱えていると告げた。話せば話すほど、綾子は吉田の存在が心に染み入るのを感じていった。

午後の秘密

ある日、息子が保育園に行き、夫も出勤した平日の午後。綾子はふと、吉田を昼食に誘うことを思い立った。小さな罪悪感が心の中でちらついたが、どうしても彼と過ごしたい気持ちが勝ってしまった。

吉田は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「喜んで」と微笑み返し、二人はリビングで向かい合って昼食をとることになった。綾子が作ったシンプルなパスタを吉田がほめると、彼女は少し照れくさそうに笑った。

「…私、こうして誰かとゆっくり話すのって久しぶりかもしれない」

綾子がそうこぼすと、吉田は少し悲しそうな表情を浮かべて、「綾子さんはいい奥さんなんだね」とつぶやいた。その言葉が、妙に胸に響いた。

揺れる心

食事が終わり、吉田が帰ろうとする時、ふと綾子は彼の手に触れそうになった。二人はしばらく言葉を失ったまま、ただ静かに見つめ合っていた。綾子の心は強く揺れていたが、何も言えずにその場を離れ、静かに「またね」とだけ言葉を残した。

吉田が去った後、綾子はベランダから遠ざかる彼の背中を見つめていた。自分の心の奥底に潜んでいた孤独と、求めていた温もりを知ってしまったことが、彼女を戸惑わせていた。

その夜、帰宅した夫の直樹がふと「最近どう？」と尋ねてきた。普段あまり会話のない彼が、少しでも妻の気持ちを知りたがっていることに、綾子は小さな希望を見出した。そして、思い切って今の自分の気持ちを少しだけ打ち明けると、直樹は驚いた表情を見せながらも、黙って話を聞いてくれた。

「そうか、俺も最近、いろいろ考えてたんだ。綾子を支えられてないんじゃないかって…」

そう言って彼が手を握ってくれた時、綾子は少し泣きそうになった。直樹もまた、同じように二人の関係に悩んでいたのだと知り、彼女の心にはまた小さな灯がともった。

日常への帰還

翌日、綾子はベランダに立ちながら、向かいの吉田の部屋を見つめた。しかし、吉田の姿は見当たらなかった。少し寂しさを感じたが、彼がいないことにどこか安心もしていた。

彼女は心の中で「ありがとう」と吉田にそっと告げ、少しずつ前へと歩き出す決意をした。夫と向き合い、家族としての絆をもう一度築くことが、今の自分に必要な道だと信じたからだ。

それから、少しずつ夫との会話も増え、綾子の心にはまた新しい安らぎが戻りつつあった。時折、吉田のことを思い出すこともあったが、あの穏やかな昼下がりは、ただの一瞬の出来事として心にしまい込んでおくことにした。

団地には再び日常が戻り、今日もまた午後の日差しがベランダに差し込んでいた。