妻と愛人と家族

よんちゃんが帰らない村

「よんちゃんが帰らない村」

晩秋の寒村、山々は紅葉に染まり、稲刈りと脱穀が終わった田んぼはすっかり静かになっていた。日が短くなり、寒さが増してくるこの時期、村の人々は冬支度を始めるのが恒例だ。しかし、今年は何かが違った。

「よんちゃんが、まだ帰ってこないってさ。」

村の集まりでそんな噂が広がっていた。よんちゃんは、村の先本家を継いだ若い男性で、毎年冬になると都会へ出稼ぎに行っていた。だが、今年はいつものように戻ってくる気配がない。妻のさと子は、二人の幼い子供たちと広い田んぼを抱え、たった一人で村に残っている。

「さと子さん、大丈夫かなぁ。子供たちもまだ小さいのにねぇ。」誰かが心配そうに呟く。

「田んぼもどうするんだか、稲刈りはなんとか終わったけど、これからの手入れだって大変だろうに。」別の人がそう言うと、みんなが同意するように頷いた。

その時、静かに話を聞いていたおばあちゃんがぽつりと呟いた。「消毒も絆創膏も張ってあげられないなら、傷に触れちゃダメなんだよ。」

その言葉に集まっていた人々は一瞬黙り込んだ。誰もがそれぞれの心の中で、さと子のことを思い浮かべた。村の誰もが、よんちゃんがなぜ戻ってこないのかを知りたがっていたが、実際のところ、その理由を聞いてもどうしようもないのだと、おばあちゃんの言葉は暗示していた。

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さと子は、子供たちを寝かしつけた後、縁側に座って夜の冷えた空気を感じていた。暗い空に星が広がっている。夫のよんちゃんは、数ヶ月前に都会へ出稼ぎに行ったきり、連絡が途絶えている。最初のうちは電話があったが、次第に少なくなり、今では音信不通になっていた。

「お父さん、いつ帰ってくるの？」と、息子の健太が何度か聞いてきたが、さと子はそのたびに「もうすぐよ」としか答えられなかった。本当は、自分でもよんちゃんが何を考えているのか分からない。不安が胸に広がる中、ただ一人で田んぼを守り、子供たちを育てることしかできなかった。

村の人々の優しさが、さと子を支えてくれた。田んぼの手入れを手伝ってくれたり、子供たちに食べ物を分けてくれたりする人もいた。しかし、その優しさの裏には、よんちゃんの不在に対する疑問や好奇心が見え隠れしていた。「何か問題があるんじゃないか？」と、人々が噂をするのも聞こえてきた。

そんな時、さと子はいつもおばあちゃんの言葉を思い出す。「傷に触れちゃダメなんだよ」――自分の心もまた、深い傷を負っているような気がする。よんちゃんが戻ってこない理由を誰かに問いただすことも、自分の気持ちを正直に打ち明けることもできない。ただ、耐えるしかなかった。

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数日後、村で行われる秋祭りの日がやってきた。村の神社で小さな祭りが催され、村人たちが集まる年に一度の行事だ。さと子は、子供たちを連れて出かけることにした。少しでも気晴らしになればと思ったが、心の中では不安が渦巻いていた。

祭りの賑わいの中、村人たちはさと子に声をかけた。「よんちゃん、まだ帰ってこないんだって？」と、心配そうに聞く人もいれば、「大変だねぇ、子供たちがまだ小さいのに」と遠回しに聞く人もいた。

さと子は微笑みながら「ええ、まだです。でも、なんとかやっていますから」と答えるしかなかった。その場を何とかやり過ごし、祭りの後、さと子はおばあちゃんの家に立ち寄ることにした。

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おばあちゃんは、自分の家の小さな囲炉裏で火を焚きながら、さと子を迎え入れた。

「どうだい、最近は？」と、穏やかな声で尋ねる。

「なんとかやってます……でも、よんちゃんが帰ってこない理由もわからないし、子供たちのことも心配です。田んぼのことも……私一人でやっていけるのか、不安です。」

おばあちゃんはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。「さと子、あんたは立派にやってるよ。よんちゃんが何で帰らないか、今はわからなくても、あんたには家族を守る力がある。誰かが手を差し伸べるとき、それを素直に受け入れればいい。でも、人の心に傷があるなら、無理に触れちゃいけない。」

その言葉に、さと子の目から涙がこぼれた。「ごめんなさい。私、強くなりたいけど、時々もうどうしていいか分からなくなるんです。」

おばあちゃんは優しく微笑み、「大丈夫だよ。あんたが家族を大切に思う気持ち、それが一番大事なんだ。あとは、よんちゃんが自分で気づいて戻ってくるさ。」

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それから数週間後、村に一台の軽トラックがやってきた。運転席から降りてきたのは、久しぶりに見るよんちゃんだった。疲れた顔をしていたが、どこか吹っ切れたような表情だった。

「遅くなってごめんな、さと子。」そう言って、よんちゃんは深々と頭を下げた。

「大丈夫。帰ってきてくれたなら、それでいいわ。」さと子は涙を浮かべながら、よんちゃんの言葉を受け止めた。

村の噂は、やがて静かに消えていった。よんちゃんが戻ってきた理由や、出稼ぎ先で何があったのかは誰も聞かなかった。それは、誰もその「傷」に触れることがなかったからだ。

おばあちゃんの言葉が、村人たちの心に深く残っていた。「消毒も絆創膏も張ってあげられないなら、傷に触れちゃダメなんだよ。」それが、この小さな村での優しさの形だった。

【終わり】