妻と愛人と家族

苦難の最中にあっても、決して不幸にならずに生きていけるのが人間だ

苦難の最中にあっても、決して不幸にならずに生きていけるのが人間だ

冷たい冬の風が家の隙間から忍び込んでくる。築40年以上経った古い一軒家は、あちこちが傷んでいて、特にこの季節になると寒さが骨身にしみる。だが、その家の中には、そんな寒さを感じさせない温かい光景が広がっていた。

「お父さん、今日は私が手伝うから、座っててよ」と言いながら、娘の恵美子が台所に立つ。彼女は母親が亡くなってから家事を手伝うようになり、今ではすっかり慣れたものだ。父親の一郎は腰の痛みを抱えながらも、日々農作業を続けてきた。苦しい生活だったが、家族はいつも互いに支え合いながら前を向いていた。

「お前も仕事で疲れてるだろうに、無理しなくていいんだぞ」と、一郎は小さな声で言うが、恵美子はにっこり笑って首を振った。

「大丈夫だよ。お父さんだって毎日頑張ってるんだから、私も少しは役に立たないとね」と、恵美子は手際よく夕飯の準備を進めていた。

母親が亡くなったのは恵美子がまだ高校生の頃だった。突然の出来事に家族は大きな悲しみに包まれた。特に一郎は、妻を失った喪失感に打ちひしがれ、しばらくは農作業にさえ手がつかない状態だった。しかし、そんな父を支えたのが、恵美子とその弟の浩一だった。二人はそれぞれが出来ることを精一杯やりながら、少しずつ生活を取り戻していった。

「あの頃は、本当にどうなることかと思ったな」と、一郎は台所の様子を眺めながら思い出にふける。だが、その瞳には悲しみよりもむしろ誇りと感謝が漂っていた。

浩一は大学進学のために上京し、現在は会社員として働いている。家に残った恵美子は地元の工場で働きながら、父親と共に暮らしている。家計は決して豊かではなかったが、それでも恵美子は愚痴ひとつこぼさず、父親と共に家を守り続けてきた。

その晩、家族はいつもと同じように食卓を囲んだ。簡素な食事ではあったが、どこか温かさがあふれていた。会話も多くはなく、ただ一つ一つの言葉にお互いへの思いやりが感じられた。

「ねぇ、お父さん。浩一、また帰ってくるってさ。今度は連休だから、ゆっくりできるみたいだよ」と、恵美子が報告した。

「そうか、あいつも忙しい中、よく帰ってくるな」と、一郎はうれしそうに頷いた。息子の帰省はいつも楽しみの一つだった。家族揃って過ごす時間は貴重で、忙しい日常の中で心を癒してくれるひとときだった。

それでも、恵美子は心の中でふと、母がいた頃の生活を思い返していた。母がいた頃はもっと賑やかで、笑顔が絶えない家だった。母の存在がどれほど大きかったか、今でも痛感することがある。

「でもね、お母さんがいなくなってから、私たちも成長したんだと思う」と、恵美子は心の中でそっとつぶやいた。母の不在が家族を崩壊させるどころか、むしろ強く、固く結びつけたのだ。

日々の生活は決して楽ではない。寒さが厳しい冬もあれば、農作業が思うようにいかない夏もある。それでも家族は、笑顔で過ごす術を知っていた。困難に直面しても、決して不幸と感じることはなかった。むしろ、その困難の中でこそ、互いを支え合う絆が深まっていった。

「あの時、母さんが教えてくれたんだよな」と、一郎はふと漏らした。

「何を？」と恵美子が問いかける。

「どんなに苦しくても、それを不幸とは思うな。お前たちは絶対に乗り越えられるってな。母さんが亡くなる前にそう言ってくれたんだ」

恵美子はその言葉に胸がじんわりと温かくなった。母親の言葉が、ずっと家族を支えていたのだと気づいた。

「そうだね、お母さんは本当に強い人だった」と、恵美子も微笑んだ。

それからしばらくして、浩一が帰省し、久しぶりに家族全員が揃った。食卓には賑やかな声が響き、笑いが絶えなかった。その時間はまるで、母親がそばにいるかのように温かく、幸せだった。

「家族が揃うって、いいもんだな」と一郎はしみじみとつぶやいた。

「本当だね。こうしてみんなでいられることが、幸せなんだね」と、浩一が頷いた。

困難の中であっても、決して不幸を感じることなく生きていけるのが人間だ。なぜなら、その苦しみを乗り越えた先に、必ず笑顔が待っているから。家族の絆がそれを証明していた。

この冬もまた、寒さが続くことだろう。しかし、その寒さの中でさえ、家族の温もりがあれば、どんなに厳しい日々でも乗り越えていける。