妻と愛人と家族

涙は心の薬

「涙は心の薬」

佐藤絵里は、深い悲しみに包まれていた。愛する息子、翔太が突然亡くなってから、彼女の生活は一変してしまった。翔太はまだ10歳だった。病気が進行するのが早く、家族は何もできないまま、彼は去ってしまった。彼の明るい笑顔が頭から離れず、絵里は一日中泣いていた。家の中にはまだ翔太の声や足音が残っているような気がして、ふとした瞬間に彼の名前を呼んでしまう。

それでも、絵里は泣くことを「良くない」と思っていた。周囲の人々から、「もう泣くのはやめなさい」「強くならなきゃ」と言われるたび、無理にでも涙をこらえようとしていた。しかし、夜になると抑えきれない感情が溢れ、布団の中で静かに涙を流すことが続いていた。

ある日、絵里はカウンセリングに通うことを決意した。彼女は、もう自分だけではこの深い悲しみをどうしていいかわからなかった。カウンセリングの部屋に入ると、温かな空間が広がっていた。優しい色合いのソファに座り、彼女は一瞬、少しだけ安心感を覚えた。

迎えてくれたのは、年配の女性カウンセラーだった。彼女の名前は田中玲子。玲子は、絵里が部屋に入ると優しい笑顔で挨拶し、静かに座るように促した。

「佐藤さん、今日は来てくださってありがとうございます」と玲子は静かに声をかけた。

絵里は、無言で頷いた。言葉が出なかった。玲子はそれを察してか、急かすことなく絵里が落ち着くのを待っていた。

しばらくして、絵里が重い口を開いた。「息子が……翔太が、いなくなってしまったんです。どうしたら、この悲しみから抜け出せるのか、わからなくて……。」

その言葉を聞くと、玲子は穏やかに頷き、「とてもつらかったですね」と共感の言葉をかけた。「翔太くんは、きっととても大切な存在だったのでしょう。」

「はい」と、絵里は小さな声で答えた。「翔太は、私の全てでした。あの子がいない今、何をしても意味がないように感じます。もう、泣いてはいけないとも思っています。家族も、周りも、私が強くならなきゃいけないと言うんです。だから、泣くのは我慢しなきゃって……でも、夜になると涙が止まらないんです。」

玲子は少し姿勢を正し、ゆっくりと話し始めた。「絵里さん、泣くことは決して悪いことではありません。むしろ、泣くことは悲しみを癒すためにとても大切な行為です。涙を流すことで、心の中の痛みや悲しみを解放することができるんですよ。」

「でも……」と、絵里は言葉に詰まりながらも続けた。「いつまでも泣いていたら、周りの人に迷惑をかけるんじゃないかって思うんです。私が立ち直らなきゃいけないって、みんな思っているから……。」

玲子は優しい眼差しで絵里を見つめた。「確かに、周りの人たちは絵里さんのためを思って、強くなってほしいと思っているかもしれません。でも、悲しみを押し殺してしまうことは、もっと心に負担をかけることになります。悲しいときは、思い切り泣いていいんです。涙は、心の薬とも言われています。泣くことで少しずつ、心が癒されていくんです。」

その言葉を聞いた瞬間、絵里の中で何かが解けた。これまで無理に抑えていた感情が、一気に溢れ出しそうになった。彼女は玲子の前で、ついに堪えきれずに涙を流し始めた。止めようとしても、次々に涙が頬を伝っていった。

「翔太が……本当にいなくなってしまったんです」と、絵里は震える声で訴えた。「どうして、あの子が先に行かなければならなかったのか、どうして私は助けられなかったのか、ずっと考えてしまって……。」

玲子は黙って絵里の話を聞き続け、そっとハンカチを差し出した。「その気持ちは自然なことです。誰だって、大切な人を失ったら同じように感じます。悲しみやショック、そして後悔の念が湧いてくるのは当然です。でも、それを感じること自体が、翔太くんをどれだけ愛していたかの証拠です。泣いていいんですよ。翔太くんもきっと、母親が無理をせずに感情を表してくれることを望んでいると思います。」

絵里は玲子の言葉を聞きながら、さらに涙を流し続けた。しかし、その涙の中には、少しだけ救われたような感覚もあった。これまで一人で抱えていた悲しみを、誰かに受け止めてもらえることがこんなにも安らぐものだとは思っていなかった。

しばらくの間、絵里は泣き続けた。そして、涙が落ち着いてくると、彼女は深呼吸をし、少しだけ楽になったような気がした。

玲子は再び優しい笑顔で絵里を見つめた。「これからも、泣きたいときは遠慮せずに泣いてください。時間がかかるかもしれませんが、少しずつ心が癒えていくはずです。そして、翔太くんの思い出を大切にしながら、前に進んでいける日がきっと来ます。」

絵里は静かに頷き、ハンカチで目元を拭った。まだ傷は癒えていない。しかし、泣くことを許されたことで、少しずつでも悲しみと向き合っていけるのではないかと感じ始めていた。

「ありがとうございました」と、絵里は小さな声で感謝を伝えた。「これからも、泣いていいんですよね？」

玲子は微笑みながら答えた。「もちろんです。涙は心の浄化作用がありますから、思い切り泣いて、少しずつ心を癒していきましょう。」