妻と愛人と家族

終わらない夜

終わらない夜

母親である美咲は、今も変わらず薄暗い病室の中で、息子の顔を見つめていた。彼が生きていることに安堵しながらも、同時に胸の奥が引き裂かれるような痛みを感じていた。息子の太一は、またしても自殺未遂を図り、大量に薬を飲んで倒れた。これで三度目だった。

「なんで…どうしてこんなことを繰り返すの…？」

美咲の心の中で湧き上がる問いは、答えが見つかることなく虚空に溶けていく。太一は意識を取り戻していないが、医師からは命に別状はないと聞かされていた。けれども、美咲はそれがかえって恐ろしかった。生き延びるたびに、彼が再び自ら命を絶とうとするのではないかという不安が消えることはなかった。

太一が自らの命を絶とうとし始めたのは、一年ほど前だった。高校受験に失敗し、その後も友人関係がうまくいかなくなり、彼の心は次第に閉ざされていった。美咲は彼の苦しみに気づきながらも、どうすることもできなかった。仕事に追われる日々の中で、息子の内面に寄り添う時間が足りなかったことが悔やまれてならない。

「お金がないって、そんなに辛いことなの？」

ある日、太一は言った。「もう未来なんてないんだ、俺には…」とつぶやくその声は、ひどく虚ろだった。美咲はその時初めて、息子の絶望の深さに気付いた。家計は厳しく、進学を諦めざるを得なかったことも太一にとって大きな苦しみだったのだろう。

それから、彼は何度も自ら命を絶とうとした。最初は首を吊ろうとし、次は高い場所から飛び降りようとした。美咲はその度に恐怖に駆られ、必死で彼を守ろうとしたが、太一はいつも心のどこかで「もう限界だ」と訴えていた。

そして、ついに今日、彼はまたODを繰り返した。今度こそ、彼の命がどうなるのか分からなかったが、それでも美咲は彼が目を覚ますのを待つしかなかった。

しばらくして、太一がゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視線が天井を見つめ、次に母親の方を向いた。彼の目は、無感情で何も感じていないように見えた。

「太一…」美咲はそっと声をかけた。「どうして…どうしてそんなことをするの？」

太一は何も答えなかった。ただ、ぼんやりと美咲を見つめたまま、長い沈黙が続いた。

「話してくれない？」美咲は問いかけ続けたが、彼の口は硬く閉ざされていた。それが一層、美咲の心を締め付けた。どうすれば息子を救えるのか、何が彼をここまで追い詰めてしまったのか、自分にできることが何も見つからなかった。

その夜、病室の隅で美咲は眠れずに座り込んでいた。心の中で、ただ太一のために祈るしかできなかった。彼の苦しみを少しでも和らげたいと願いながらも、その具体的な方法が見つからないことが、何よりも辛かった。

「お金がないだけじゃない…」美咲は独り言のように呟いた。太一の絶望の根底には、社会の厳しい現実や未来に対する漠然とした不安が積み重なっていたのだ。彼は、未来を見つめることさえできなくなってしまった。

翌朝、太一は再び眠りについた。彼の顔は静かで安らかに見えたが、母親の心には消えない不安が渦巻いていた。このままでは、いつか彼は本当に自分を失ってしまうかもしれない。だからこそ、美咲は強く決意した。彼を救うために、何としてでも彼の心に寄り添い、少しでも希望の光を見つけてあげるのだと。

「太一、まだ諦めないで」と彼女はそっと呟いた。「一緒に生きていこう、もう一度未来を信じてみよう…」

その時、太一が微かに動き、何かを感じ取ったかのように母親の方に顔を向けた。少しだけ、希望の光が差し込んだかのようだった。

太一が動いたのを見て、美咲の心にわずかな希望が灯った。しかし、彼が完全に回復するにはまだ長い道のりがあることもわかっていた。彼の心に潜む絶望は、簡単に消えるものではない。しかし、今、彼が母親の声に反応したことが、ほんの小さな一歩であっても大きな意味を持つように感じられた。

数日が過ぎ、太一は徐々に回復していった。病院のベッドに横たわる彼は、まだ言葉少なかったが、以前よりもわずかに落ち着きを取り戻しているように見えた。美咲は毎日病室に通い、彼のそばに寄り添った。言葉をかけることも、ただそばにいることも大切だと感じていた。彼の心が少しずつでも癒えるなら、何でもしてやりたいと思った。

ある日、太一はぽつりと口を開いた。

「母さん…なんでこんなに俺のこと気にかけるの？」

その質問は美咲にとってあまりにも意外だったが、同時に彼の心の深い部分に触れたような気がした。太一が感じている孤独や無価値感が、その言葉に込められていたのだ。

「太一、あなたは私にとって大切な息子よ。どんな時でも、何があっても、私はあなたを愛している。たとえあなたが自分を信じられなくても、私はあなたを信じるわ。」

美咲はそう答えながら、太一の手を優しく握った。彼の手はまだ冷たかったが、その手の中にほんの少しの温もりを感じることができた。

「でも…俺なんて、もう価値がないんだ。何もできないし、未来も見えない。」

太一の声はかすれていたが、その言葉の背後にある痛みが美咲の胸を刺した。彼が今どれほど自分自身に失望しているか、どれだけ未来に希望を見出せなくなっているかが伝わってきた。

「そんなことないわ、太一。あなたにはまだたくさんの可能性があるの。今はそれが見えなくても、私たちは一緒に未来を見つけていける。たとえどんなに辛い時期があったとしても、あなたの命は大切なのよ。」

美咲の言葉に、太一はしばらく何も言わなかった。ただ、目を伏せて天井を見つめていた。しかし、彼の目には何かが変わり始めているように見えた。それは、彼が少しずつ美咲の言葉を受け入れようとしている証拠だった。

その後も、美咲は太一のリハビリやカウンセリングに付き添いながら、彼の回復を見守った。太一はまだ完全に自信を取り戻していないが、少しずつ、未来に目を向け始めていた。彼は学校に戻ることを決心し、友人との関係もゆっくりと修復しようとしていた。

「一歩一歩、進んでいこう」と美咲は彼に何度も言った。「焦らなくていいのよ。大切なのは、少しずつでも進むことだから。」

太一はまだ完全に元気を取り戻したわけではなかったが、美咲との絆は以前よりも強くなっていた。そして何よりも、彼自身がもう一度自分の人生に向き合おうとしていることが、何よりも重要な進歩だった。

夜になると、太一は母親に小さな声で「ありがとう」と言った。それはまだかすかな声だったが、その言葉には確かな感謝の気持ちが込められていた。

美咲は涙をこらえながら、息子の手を握り返した。「大丈夫よ、太一。これからも一緒に頑張ろうね。」