妻と愛人と家族

握力の行方

握力の行方

佐藤琴美がテレビの前に立っていた。手には、今や凶器と化したはさみが握られている。部屋は暗く、窓の外には新築のタワーマンションが建ち並ぶ東京の夜景が広がっていた。彼女の背後で倒れている男性、その体はほとんど動かない。胸元には血の広がる染み。音のない静寂の中、佐藤の頭の中では、瞬間的な出来事が鮮明に蘇る。

「握力で勝てなかったから…」

佐藤の脳裏には、先ほどの口論の一部始終が浮かんでいた。二人は駅のホームから、ひどい言い争いをしながら帰ってきた。彼女と彼は、交際を始めてからわずか半年だというのに、日々の小さな不満や苛立ちが積もりに積もっていた。今回も些細なことが原因だった。彼がちょっとした冗談を言っただけだが、それが佐藤にとっては我慢できなかった。

彼女はその場で反論し、激しく言い返した。電車に乗り込んでも口論は続き、マンションに戻ったときには二人の感情は完全に爆発していた。彼女は彼に手を挙げ、何度か平手打ちをした。しかし、それでも彼は謝らなかった。むしろ、彼は冷静に振る舞おうとし、彼女をなだめるように言葉をかけた。それが、佐藤をさらに怒らせたのだ。

「あなた、私の気持ちが分からないのよ！」

彼女の叫び声が響く。言い争いが収まらない中、彼女は急に自分が不利だと感じ始めた。彼は強かった。彼の大きな手に握られた彼女の腕が、まるで鉄のように硬かったのだ。佐藤は、どうしても彼に勝てないという絶望感に包まれた。そしてその瞬間、視界に飛び込んできたのがテレビラックの引き出しにあったはさみだった。

「これなら…」

佐藤は、はさみを握りしめ、彼の前に立ちはだかった。彼は驚いた顔をしていたが、何も言わなかった。佐藤はその表情を見て、少し優位に立った気がした。しかし、次の瞬間、彼女の手が無意識のうちに動いた。振り上げたはさみは、彼の首に向かって突き刺さった。

「刺さってしまった…」

彼女は後ずさりし、倒れた彼を見つめた。思わずその場で立ち尽くし、体が震え始めた。彼はもう言葉を発することはなかった。佐藤はその瞬間、全てが終わったと理解した。

彼女は自分の携帯電話を取り出し、震える手で119番に電話をかけた。「彼の首を…はさみで刺してしまった」と震えた声で通報した。数分後、救急隊と警察が到着した時には、彼の意識はすでになく、救急隊員は必死に心臓マッサージを試みたが、彼が助かることはなかった。

佐藤はその場で警察に連行された。現場を見ていた隣人たちは、ただ驚いた表情で立ち尽くすだけだった。彼女が抵抗することもなく、警察の車に乗り込む姿は、まるで何かを諦めたように見えた。

「握力で勝てなかったから、はさみを出したら言うことを聞くと思った」と警察に供述した佐藤の言葉は、虚ろで現実感が欠けていた。しかし、その供述には長く積もっていた不満や怒り、そしてどうしようもない焦燥感がにじんでいた。

彼女が振るった暴力は、ただの一瞬の衝動ではなく、二人の間にあった長い亀裂の果てに噴き出した結果だった。交際開始から半年間、佐藤と彼の間には幾度となく喧嘩が繰り返され、そのたびに彼女は暴力に訴えることがあった。それが少しずつエスカレートし、ついに取り返しのつかない結末を迎えてしまったのだ。

警察は彼女の供述をもとに、捜査を進めると同時に、彼女の心の奥底に潜む何かを解き明かそうとしていた。