妻と愛人と家族

おばあちゃんの記憶

「おばあちゃんの記憶」

日曜の昼下がり、僕たちはまた、家族みんなでおばあちゃんの家に集まっていた。リビングのソファには、いつものようにおばあちゃんが座っている。けれど、最近の彼女はどこか違って見える。

「おばあちゃん、元気？」僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、少し戸惑ったような目を向けてきた。僕の顔をじっと見つめて、しばらく何も言わない。その瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられた。「おばあちゃん、僕のこと、分かるよね？」

妹の由美が僕の横で心配そうにおばあちゃんを見つめる。彼女はまだ幼くて、何が起こっているのか完全には理解していない。ただ、最近のおばあちゃんの様子がおかしいことは感じ取っているようだ。

「…健太郎？」

僕の名前を呼んだおばあちゃんの声は、少し不安げだった。僕はホッとした。名前を覚えてくれている。でも、それは短い喜びで終わった。次に、彼女は由美を指さして、「この子は誰？」と聞いたのだ。

その瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。由美の顔が曇り、僕は何かを言おうとしたけど、言葉が出てこなかった。どうしてだろう。たった数ヶ月前までは、僕たちと一緒に笑って、冗談を言っていたおばあちゃんが、どうしてこんな風になってしまったんだろう。

母が台所から出てきて、状況を察したのか、すぐに由美の手を取って「大丈夫よ」と優しく声をかけた。でも、その言葉にはどこか空虚さがあった。だって、大丈夫じゃないから。僕たちみんな分かってる。おばあちゃんは、少しずつ僕たちのことを忘れていってるんだ。

夕方になり、夕食の時間が近づくと、母と叔母がキッチンで手伝いながら料理をしていた。僕たちはテレビを見ながら過ごしていたが、おばあちゃんは、時折ふと立ち上がって、何かを探すように歩き回る。母が「お母さん、どこに行くの？」と優しく声をかけるたびに、「ああ、何でもないのよ」と返事をするが、その目は明らかに不安そうだった。

由美が「おばあちゃん、何探してるの？」と聞くと、おばあちゃんは少し考え込んだあと、「私のカバンがないのよ。どこかに置いてきたみたいで…」と呟いた。僕たちは、その言葉に戸惑った。おばあちゃんは、カバンなんて持ってきていなかったのに。

母はその時、台所から出てきて、そっとおばあちゃんの肩に手を置いた。「お母さん、カバンならここにあるわよ」と言って、ダイニングの椅子に置いてあったものを渡した。おばあちゃんは、ホッとしたようにそれを受け取ると、「ありがとうね」と微笑んだ。でも、その微笑みにはどこか空虚なものがあった。

食事が終わり、僕たちが帰る時間が近づいた。おばあちゃんは、まだ昔のように見送りをしてくれたけど、その姿はどこか頼りなく、どんどん遠くへ行ってしまうような気がした。家の外に出た時、由美がふと僕に聞いてきた。

「おばあちゃん、どうして僕たちのこと忘れちゃうのかな？」

僕は答えられなかった。だって、僕自身もそれが分からないからだ。大好きだったおばあちゃんが、少しずつ僕たちを忘れていくなんて、想像したこともなかった。どうしてこんなことが起きるのか、答えが欲しかった。でも、答えは見つからなかった。

母が車のドアを開けて「さあ、帰ろう」と言った。僕たちは車に乗り込み、帰り道を走り出した。窓の外には、夕日が沈んでいく光景が広がっていたけど、僕の心の中には、どんどん暗い雲がかかっていくような感じだった。

おばあちゃんは、いつまで僕たちのことを覚えていてくれるんだろう？次に会った時、僕のことも忘れてしまうかもしれない。そんなことを考えると、胸が苦しくなった。

「健太郎…」母が助手席から振り返って、僕に話しかけた。「おばあちゃんが少し変わってしまったのは、病気のせいなのよ。だから、あなたたちが何か悪いことをしたわけじゃないの。分かるわよね？」

僕は静かにうなずいたけど、本当に理解できているかは分からなかった。病気って、こんなにも残酷なものなのか？大切な人が少しずつ遠ざかっていくのを、ただ見守るしかないなんて。

「うん、分かるよ。」僕は母に返事をしたけど、心の中にはまだ答えのない疑問が残っていた。