妻と愛人と家族

霧の向こう側

「霧の向こう側」

ふと気がつくと、目の前には夕飯の支度をする台所があった。が、何を作っているのか、どんな材料を使っているのかが分からない。手には包丁が握られているが、何を切ればいいのかも覚えていない。美智子は、じっと自分の手元を見つめ、胸の中に不安がじわじわと広がっていくのを感じた。

「私は、何をしていたんだろう？」

そんな単純な問いが、まるで霧の中に投げ込まれたかのように消えていく。何度考えても答えは出ない。ただ、手が震え始め、心臓の鼓動が速くなる。どうしよう。このままでは、家族が帰ってきたとき、何もできていないことがバレてしまう。

「お母さん、大丈夫？」

突然、声が聞こえた。振り返ると、そこには娘の花が立っていた。花の優しい顔が、いつもと変わらず、そこにある。けれども、美智子の胸には冷たい汗が流れ始めた。――誰だろう、この子は。

「…ごめんね、ちょっとぼんやりしちゃって。」

自然と口から出た言葉。娘の名前が出てこないことが、今は恐ろしくてたまらない。でも、言葉に出せば何かが壊れそうで、美智子はただそのまま笑顔を作った。

花がそっと近づき、台所の仕事を手伝い始めた。その姿を見つめながら、美智子は心の中で叫びたくなる。「お願い、私を忘れさせないで。私は、まだここにいるのよ。」けれども、その声は誰にも届かない。自分の心さえも。

美智子の視点では、認知症によって記憶や思考が曖昧になっていく恐怖や不安を描き、彼女が感じる孤独感や、家族との関係の変化を強調します。このように、彼女が「普通の生活」を失いつつも、それに気づきつつある感覚を丁寧に表現することで、読者は彼女に感情移入しやすくなります。

さらに、社会的な背景について触れるなら、認知症の家族が抱えるケアの負担や、介護の問題、周囲の理解不足なども取り入れることで、物語の深みが増します。たとえば、祖父母や近所の人たちが、どう美智子の変化を受け止めているか、支援の不足や地域の反応なども描写することで、物語がよりリアルで多面的になるでしょう。