妻と愛人と家族

忘却の家

「忘却の家」

佐藤家は、六人家族の温かい家庭だった。父親の一郎、母親の美智子、長男の健太、次女の花、そして祖父母。家族それぞれが忙しく過ごしながらも、夕食の時間には必ず顔を合わせ、賑やかな食卓を囲んでいた。だが、そんな日常が徐々に変わり始めたのは、美智子の認知症が進行してからだった。

最初は些細なことだった。美智子が夕飯の献立を忘れたり、同じ話を何度も繰り返したりすることに家族は気づいたが、特に気に留めなかった。しかし、ある日、美智子が健太の名前を思い出せなくなったとき、家族は初めて深刻さを感じた。

「お母さん、俺だよ、健太だってば。」

健太は笑顔で何度も名前を教えたが、美智子はただ困惑した表情で息子を見つめるだけだった。その瞬間、健太の心には言い知れぬ恐怖が広がった。母親が自分の名前を忘れてしまった。その事実が、彼の胸を鋭く締め付けた。

病院で診断を受けた結果、美智子はアルツハイマー型認知症だと判明した。医師は、家族に進行が徐々に進むこと、そして早めに対応を考えるようにとアドバイスしたが、佐藤家は誰もがどうすればいいのか分からなかった。

父親の一郎は、最初こそ冷静を装っていたが、次第に仕事のストレスと母親の介護が重なり、苛立ちを隠せなくなった。

「なんで美智子は、こんな風になっちゃったんだ…。どうして俺たちにこんなことが起きるんだ。」

一郎は自分を責め、時には美智子に対して怒鳴ってしまうこともあった。美智子が鍵をどこに置いたか分からなくなり、何度も探し回る姿を見て、一郎は声を荒げた。

「なんで毎回こんなことになるんだ！もういい加減にしてくれ！」

その言葉が美智子の心をさらに乱し、彼女は泣き出してしまった。それを見た家族全員が、胸の痛みを感じた。誰もが愛していた母親は、ゆっくりと自分たちから離れていってしまうようだった。

一方で、子供たちもどう接すればいいのか分からず、戸惑っていた。次女の花は特に辛かった。母親が自分のことを忘れてしまうかもしれないという恐怖と、これまでのように母親と話すことができなくなる寂しさが、彼女の心を揺さぶった。

「お母さん、どうしてこんな風になっちゃったの…？」

花は美智子の手を握り、涙をこらえながら問いかけたが、母親はただ優しい笑顔を浮かべるだけだった。母親のその微笑みは、まるで何も問題がないかのように見えたが、それが余計に悲しかった。

祖父母もまた、美智子の変化に心を痛めていた。特に祖母は、自分の娘がこんな風に壊れていく様子を目の当たりにしながら、無力感に苛まれていた。

「美智子…私が育てた娘が、こんな風になるなんて…。何もできないなんて、どうしたらいいの…。」

家族全員がそれぞれの心に悩み、孤独を抱えていた。認知症という見えない敵に対して、どう立ち向かえばいいのか分からず、ただ日常が崩れていくのを感じるばかりだった。

しかし、ある日、家族に小さな変化が訪れた。それは、花が学校の授業で認知症に関する特集を学んだことがきっかけだった。彼女はその授業で、認知症の人との接し方について学び、少しずつでも前向きに受け入れる方法があることを知った。

「お母さんが忘れてしまうのは、病気のせいなんだ。お母さん自身が悪いわけじゃない。だから、私たちがしっかり支えていかなくちゃいけないんだよね。」

花は家族にそのことを話し、彼女なりに工夫して母親と接するようになった。例えば、美智子が忘れてしまいがちな日常のルーティンを、メモや写真でサポートすることにした。母親が落ち着いて生活できるように、家の中の配置を工夫し、生活のリズムを安定させるよう心がけたのだ。

「お母さん、これが花よ。忘れちゃっても大丈夫、また一緒に覚えればいいんだから。」

花が優しく微笑みかけると、美智子は一瞬困惑した表情を見せたが、すぐに笑顔で娘の手を握り返した。その瞬間、花の胸に温かい感情が広がった。母親は確かに、完全に遠くに行ってしまったわけではないのだ。

その日から、家族全員が少しずつ変わり始めた。父親の一郎も、花の言葉に影響を受け、これまでのように怒ることはなくなった。代わりに、美智子が混乱するたびに優しく声をかけるように努めた。

「美智子、ゆっくりでいいんだ。俺たちが一緒にいるからな。」

祖父母も、これまで以上に美智子に寄り添い、日々の小さな変化を受け入れるようになった。美智子の症状は完全には治らないが、家族全員が支え合い、前向きに生きる力を取り戻した。

佐藤家は、認知症という病に対して何かを「治す」ことはできないかもしれない。しかし、「支える」ことはできる。それを学び、彼らは新しい日常を受け入れ、共に歩んでいく決意をした。

「忘れてしまうことがあっても、私たちはいつまでも家族だよ。」

その言葉は、美智子に届いているのかは分からない。それでも、家族の絆は以前よりも強く結ばれていた。