妻と愛人と家族

春秋花壇

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フライパンの向こう側

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フライパンの向こう側

母の電話が鳴ったのは、午後の静かな時間帯だった。陽が差し込むリビングでコーヒーを飲んでいた私は、少し驚いてスマートフォンを手に取った。表示された名前は「母」。最近は体調のことを心配して、できるだけ電話をするようにしていたのに、母からかかってくるのは珍しい。

「もしもし、お母さん?」

「やだ、ちょっと聞いてくれる?」母の声は少し興奮しているようだった。「今日ね、朝ごはんを作ってたの。いつものようにフライパンで目玉焼きを作ってたんだけど、やけにガス代が近いなと思ったのよ。」

私は少し笑った。母は70歳になっても元気で、一人暮らしを続けている。その頑固さと自立心は尊敬に値するが、時々心配になることもある。特に最近、少しずつ衰えを感じることが増えたようで、母自身も気にしていた。

「それでね、ふと気が付いたの。すごい腰が曲がってたのよ!」母は大きな発見でもしたかのように話し続ける。「お鍋のフタを取ろうとして前屈みになったら、ガス代のフライパンがすぐそこにある感じでね。あれ?って思って、姿勢を戻そうとしてもなんだかうまくいかなくて。」

その話に私は少しだけ心配になった。母が腰を痛めたのではないかと頭をよぎる。だが、母はそのまま話を続けた。

「そういえば、最近腰が痛いって言ってたよね。それで病院に行った?」

「そうなの。行ったのよ、整形外科に。お医者さんに『おばあちゃん、歳の割には頑張ってるけど、もう少し腰を伸ばさないとね』って言われちゃったわ。これって結構大変なのよ。ほら、若い頃って自然にできてたことが、歳を取ると難しくなるでしょ?それに気付いた時って、やっぱりショックよね。」

母の言葉には少し寂しさがにじんでいた。母はいつも「年なんて気にしない」と言い張っていたが、やはり現実には抗えない部分もあるのだろう。私もそんな母の姿を見るたびに、どうにかしてサポートしてあげたいと思うものの、どこかもどかしい気持ちになる。

「でもね、こんなに腰が曲がってたら、これから何かしら対策をしないとって思ったのよ。」母は少し前向きな口調で続けた。「それで、朝の散歩を増やすことにしたわ。少しでも腰を伸ばして歩く練習をしようって。」

「いいアイデアだね、お母さん。でも無理はしないでね。何かあったらすぐに教えて。」

「分かってるわよ、大丈夫よ。」母は笑いながら答えたが、その声にはどこか少しの不安が混じっていた。私はその一瞬の沈黙を感じ取り、言葉を選んで続けた。

「お母さん、もし本当に辛くなったら、私たちも一緒に考えよう?一人で無理することないんだから。もっと頻繁に会いに行くからさ。」

「ありがとうね。でも大丈夫よ、私はまだまだやれるわ。フライパンのガス代くらい近くても気にしないことにするわ。」母は笑ったが、その笑い声は少しだけ震えているように聞こえた。

その後、私たちはいつものように日常の話をした。母の買い物の話や、近所の友達とのお茶会の話。母は元気そうに振る舞っていたが、私はその裏にある不安や焦りを感じ取っていた。母の言う「頑張り」がどれほどの負担になっているのか、想像するだけで胸が痛んだ。

電話を切った後、私はリビングのソファに座り込んだ。母のためにできることは何だろうと考えた。もっと頻繁に実家に帰るべきだろうか。それとも、母がもう少し体を楽にできるような手助けをするべきだろうか。そんな考えが頭を巡る。

次の週末、私は母の家を訪れることにした。玄関を開けると、母はキッチンで何かを作っていた。腰が少し曲がっているのが見て取れる。

「お母さん、おはよう。」私は声をかけた。

「おや、早いわね。いらっしゃい。」母は笑顔で迎えてくれたが、その笑顔の奥に疲れが見えた。

「腰の調子はどう?」

「まあまあかな。でもね、少しずつ伸びるようになってきたわよ。ほら、見てごらん。」母は腰を伸ばしてみせたが、まだ完璧ではない。でも、その努力が見て取れた。

「すごいじゃん、お母さん。頑張ってるね。」私は母の背中にそっと手を置いた。

「ありがとう。でもね、本当は少し怖いのよ。このままどんどん曲がっていったらどうしようって。でも、あなたがこうやって見守ってくれるなら、きっと大丈夫ね。」

母のその言葉に、私はただ頷くしかなかった。母が日々の中で抱える不安や、老いに対する恐れを感じながら、それでも前を向いて生きようとする姿に、心を打たれたのだ。

帰り際、母は笑顔で手を振った。その姿を見て、私は心の中で何度も「ありがとう、お母さん」とつぶやいた。母の小さな頑張りが、大きな勇気に変わるように、私もできる限りのサポートをしていこうと強く心に決めたのだった。








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