妻と愛人と家族

春秋花壇

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静かな叫び

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静かな叫び

菜穂子はキッチンで洗い物をしながら、窓の外に広がる夕焼けをぼんやりと見ていた。赤く染まった空が美しく、その光景に少しだけ心が和んだ。隣の部屋では、夫の智也がテレビを見ている音が聞こえる。子どもたちは部屋に籠って、それぞれスマートフォンに夢中になっているのだろう。何気ない日常の風景。しかし、菜穂子は心のどこかで何かが欠けているような気がしていた。

彼女の家庭は一見「普通」だった。夫は会社員で、二人の子どもたちは学校に通っている。休日には家族で買い物に出かけたり、映画を見たりもする。けれども、その「普通さ」の中に、どうしようもなく沈む感覚が菜穂子にはあった。洗い物をしながら、菜穂子はその感覚をどうにか言葉にしようとしたが、結局何も見つからなかった。

夕飯の準備を終えて、菜穂子はダイニングテーブルに料理を並べた。「ご飯できたよ」と声をかけると、智也がテレビを消して椅子に座った。子どもたちも渋々と部屋から出てきて、椅子に座った。静かに食事が始まる。家族全員が揃っているのに、会話はほとんどなかった。智也はスマートフォンをいじりながら食事を進め、子どもたちも黙々と箸を動かす。菜穂子はそんな様子を見つめ、またしても自分の胸の中でわだかまるものを感じていた。

「今日のご飯、美味しいね」

突然、長男の翔太が口を開いた。菜穂子はその言葉に驚き、すぐに微笑んだ。「ありがとう、翔太。今日はちょっと頑張ったんだよ」と答える。翔太の一言が、家族の間に少しだけ温かさを取り戻したように思えた。しかし、その瞬間も短く、再び静けさが戻ってきた。

智也はふと顔を上げて、菜穂子に言った。「明日、仕事でちょっと遅くなるかも。夕飯は先に食べててくれ」

「分かったわ」と菜穂子は答えたが、その声はどこか虚ろだった。智也はそれ以上何も言わずに、またスマートフォンに目を落とした。菜穂子は自分の手元の料理に目を向けたが、味が分からなかった。ただ、いつものように箸を進めるだけだった。

夕飯を終えた後、智也はすぐに自室に籠り、子どもたちも自分の部屋へと戻っていった。菜穂子は一人で食器を片付け、キッチンを整えた。静かな家の中で、彼女はただ立ち尽くしていた。どこかで誰かの笑い声が聞こえてくることを期待していたのかもしれない。けれども、そんな声は聞こえなかった。

菜穂子はリビングのソファに腰を下ろし、深いため息をついた。彼女は「普通の家族」でありたかったし、「普通の生活」を送りたかった。それが叶っているはずなのに、なぜか満たされないのだ。自分の願いが間違っていたのだろうか。もっと何かを求めるべきだったのだろうか。そう思うたびに、菜穂子は自分の中で答えのない問いを繰り返していた。

突然、玄関のチャイムが鳴った。菜穂子は立ち上がり、玄関へ向かった。ドアを開けると、隣の家の奥さんが立っていた。彼女はにこやかに挨拶をして、少しのお裾分けを持ってきてくれた。

「これ、うちの庭で採れた野菜なんです。もしよかったらどうぞ」

「ありがとうございます」と菜穂子は笑顔を返した。その時、隣の奥さんの顔には本当に幸せそうな表情が浮かんでいた。その表情を見て、菜穂子はまた胸の奥が締め付けられるような思いに駆られた。彼女も同じ「普通の生活」を送っているはずなのに、何が違うのだろうか。

菜穂子は礼を言い、野菜を受け取ってドアを閉めた。リビングに戻ると、また静かな家の中に戻ってきたような気がした。冷蔵庫に野菜をしまい、ソファに戻って座る。菜穂子はそのままテレビをつけたが、画面に映るバラエティ番組の騒がしさもどこか遠くに感じた。目の前の光景は「普通」のはずなのに、心はまるで孤独な闇の中にいるようだった。

智也の笑顔、子どもたちの笑い声——それがないわけではない。時折、彼らは笑い合い、冗談を飛ばすこともある。しかし、その瞬間すらもどこか表面的で、深いところで繋がっている実感が持てないのだ。家族全員がそれぞれの世界に閉じこもり、その「普通」の生活の中で、誰もが少しずつすれ違っているような気がしていた。

菜穂子はテレビを消し、静かになった部屋の中でしばらく目を閉じた。彼女の頭の中には、これまでの家族の思い出が浮かんでいた。子どもたちが小さかった頃、家族で過ごした楽しい時間、智也と二人で夢を語り合った夜。それらの記憶が鮮やかに蘇ってきたが、それと同時に、その時の自分たちと今の自分たちとの距離が痛感された。

「普通の家族、普通の生活——それは本当に私が望んでいたものなの?」

菜穂子は自分に問いかけた。答えはわからない。それでも、彼女は今日もまた「普通」の一日を過ごし、明日も「普通」に過ごすのだろう。外から見れば何も問題のない、平穏な生活。でも、菜穂子の心の中では、何かがまだ探し求めているようだった。

その夜、菜穂子は家族が寝静まった後、静かなリビングでひとり、ぼんやりと月を見上げた。月の光は冷たく、どこか無関心なようでありながら、ただそこにあるだけで少しだけ心が安らいだ。何が欠けているのか、菜穂子にはまだ答えは見つかっていなかった。しかし、いつかその答えが見つかることを願いながら、菜穂子はそっとため息をつき、静かな家の中で一人の時間を過ごしていた。
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