妻と愛人と家族

春秋花壇

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志乃おばあちゃんのゆで卵

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志乃おばあちゃんのゆで卵

70歳になる志乃おばあちゃんは、最近何度も同じ話を繰り返す。「東京に出てきて、喫茶店でアルバイトをしたとき、モーニングサービスにゆで卵が出るんだよ」。この話をするたびに、おばあちゃんの目は大きく開き、まるでアヒルのくちばしのように口をとがらせる。彼女がその時感じた驚きと喜びが、時を越えて今も鮮やかに蘇っているのだろう。

志乃おばあちゃんの記憶は、東京に初めてやってきた日のことから始まる。17歳半ばの彼女は、夢を求めて田舎から上京した。実家は貧しかったが、両親の反対を押し切って東京に来たのだ。最初の仕事は、駅近くの小さな喫茶店でのアルバイトだった。店内には、常連客の談笑とコーヒーの香りが漂っていた。そんな喧騒の中で、志乃は一生懸命働いた。

その喫茶店では、朝になるとモーニングサービスとして、トーストとコーヒー、そしてゆで卵が出された。志乃はその光景に驚いた。自分の家では鶏を飼っていたにもかかわらず、卵は贅沢品で、家族の誰もが食べることは滅多にない。卵は売って生計を立てるためのものであり、自分たちの口に入ることはほとんどなかったのだ。それが、ここ東京では、朝食にゆで卵が当たり前のように出てくる。志乃はそれを目にして、都会の豊かさに驚き、憧れ、同時に少しの寂しさを感じた。

「都会はすごいねぇ、卵が当たり前に食べられるんだもの」

志乃は何度も同じことを呟きながら、喫茶店での仕事を続けた。お店の常連客は、彼女の愛らしい笑顔と丁寧な接客にすぐに惹かれ、彼女を気に入った。中には、志乃が運んでくるゆで卵を食べながら、昔話をしてくれる年配の客もいた。彼らの話を聞くうちに、志乃は少しずつ都会の暮らしに慣れていった。

1. 忘れられない思い出
志乃が喫茶店で働き始めてから半年が経ったある朝、店主の佐藤さんが不意に志乃に声をかけた。

「志乃ちゃん、今日は特別にゆで卵を持って帰っていいよ」

その言葉に志乃は驚き、そして喜びを隠せなかった。彼女はその日、初めて自分のためにゆで卵を手に入れたのだ。家に帰り、そっと卵の殻をむき、ひと口かじった時のことを、志乃は今でも鮮明に覚えている。白身の柔らかさと黄身の濃厚な味わいが口いっぱいに広がり、思わず涙が溢れた。家族のために卵を食べずに我慢してきた自分の努力が、この小さな卵一つで報われたような気がした。

それから志乃は、喫茶店で働く日々を大切に過ごした。仕事が終わると、喫茶店の片隅で一息つきながら、店内に漂うコーヒーの香りと、カウンターの上に積まれたゆで卵を眺めた。その光景は、志乃にとって東京の象徴であり、貧しかった自分の過去と、少しずつ変わりゆく自分の未来をつなぐものであった。

2. 志乃の宝物
年月が流れ、志乃は結婚して子供を育て、喫茶店を離れた。生活は忙しくなり、ゆっくりと朝食を楽しむ余裕などなくなっていった。しかし、志乃はその後も時折喫茶店の前を通りかかるたびに、店内でゆで卵を頬張る自分の若い頃の姿を思い出していた。彼女にとって、あのゆで卵はただの食べ物ではなく、努力と希望の象徴だったのだ。

70歳になった今でも、志乃は孫たちにその話をするたびに目を輝かせる。孫たちは最初こそ飽きた様子だったが、志乃がその話をするたびに本当に楽しそうに語るので、つい耳を傾けてしまう。そして、その度に志乃は、あの喫茶店の店内に戻り、自分が手にした一つのゆで卵の感触を思い出す。

「おばあちゃん、またその話?」

孫の一人が笑いながら言う。志乃は笑って頷き、同じ話を繰り返す。それは、彼女の宝物だったからだ。貧しかった時代、必死に働いて手に入れた小さな喜び。それを忘れずに、いつまでも胸にしまっている。

3. 終わらない話
志乃の記憶の中で、喫茶店のゆで卵は永遠に輝き続ける。時が経ち、周りの景色が変わっても、志乃の心の中ではあの喫茶店は変わらずに存在しているのだ。彼女は今日もまた、孫たちに話をする。

「東京に出てきてね、喫茶店でアルバイトをしたとき、モーニングサービスにゆで卵が出たのよ」

その話を聞く孫たちの表情には、わずかに退屈そうな様子が見え隠れする。しかし、それでも志乃は話し続ける。なぜなら、その話は彼女にとって、過去の自分との繋がりであり、今を生きる支えなのだから。時には自分自身でも不思議に思うほど、同じ話を何度も繰り返す。それでも、彼女の中でその思い出は色褪せることなく、ゆで卵と共に輝き続けるのだった。

志乃おばあちゃんの話は、これからもきっと続くだろう。いつまでも、何度でも。その小さなゆで卵が、彼女の人生にどれほどの意味を持っているのかを誰もが理解することはないかもしれない。しかし、それでも彼女は話し続ける。それは、彼女の物語が終わらない限り、続くのである。










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