妻と愛人と家族

妻と愛人と家族

妻と愛人と家族

健二（けんじ）は誰もいないリビングのソファに沈み込み、手に持ったビール缶を軽く揺らした。テレビではつまらないバラエティ番組が流れているが、彼の目は画面を捉えることなく、虚ろに部屋の奥を見つめていた。健二には妻の絵美子（えみこ）と二人の子供がいる。そしてもう一人、彼の生活の中には愛人の沙織（さおり）も存在していた。

沙織とは仕事の出張先で知り合った。若くて聡明な彼女は、仕事の合間に見せる無邪気な笑顔が健二の心を惹きつけた。家庭を持ちながらも、彼は沙織との時間を求めるようになり、次第に二重生活が当たり前になっていた。最初は罪悪感があったが、いつの間にかそれも薄れていった。仕事の延長と自分に言い聞かせ、家庭の平和を保つための息抜きだと自己正当化するようになっていた。

ある日、絵美子が突然健二に声をかけた。「ねえ、最近あんまり家にいないけど、どうしたの？」

絵美子は目を細めて健二を見つめていた。彼女は心配そうに眉をひそめ、その様子に健二は少し胸を痛めた。

「忙しいんだよ、仕事がさ」

その言葉は半ば本当であり、半ば嘘だった。確かに仕事は忙しいが、そこに沙織との時間が含まれていることは妻に告げられなかった。健二は無意識のうちに、絵美子の疑念をそらすように笑顔を作ってみせた。

その夜、健二は沙織とレストランで夕食を楽しんでいた。ふと、沙織が健二の顔を見つめてきた。

「健二さん、私たちの関係って、これからどうなるのかな？」

その問いかけは、沙織にとっては初めて口にした疑問だったが、健二にとってはすでに何度も頭の中で繰り返した問いでもあった。彼は一瞬言葉に詰まり、目をそらした。沙織のまっすぐな視線が痛かった。

「まだ、考え中だよ。今は仕事が大変で…」

言い訳にすぎないと自分でも感じていた。沙織はそんな健二の答えに不満げな表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。ただ、静かにため息をつき、ワインを一口飲んだ。

その夜、健二は家に帰ると、子供たちの笑い声が聞こえてきた。リビングに入ると、絵美子が子供たちと一緒にゲームをして楽しそうに笑っていた。その光景を見たとき、健二の胸に複雑な感情が押し寄せた。自分が壊しかけているものの重さを、その一瞬で痛感したのだ。

数日後、健二の携帯に沙織からのメッセージが届いた。

「話があるの。直接会って話したい」

健二は少し戸惑ったが、沙織との関係にけじめをつけなければならないと感じ、指定されたカフェに向かった。沙織は既に席についており、彼が来るのを待っていた。彼女の表情は硬く、どこか決意が見えた。

「私ね、もう終わりにしたいの」

健二はその言葉に驚いた。沙織の目には涙が浮かんでいたが、彼女の声は震えていなかった。

「健二さんが何を選ぶのかずっと待ってたけど、私はやっぱり未来のある関係が欲しい。あなたが好きだけど、これ以上は無理なの」

沙織の言葉を聞いて、健二は初めて自分が彼女にどれだけの重荷を背負わせていたのかを理解した。自分のわがままで沙織を縛り、彼女の未来を奪っていたのだ。健二は苦い思いで唇を噛みしめた。

「ごめん、沙織。俺が勝手だった。本当に、すまない」

沙織はうなずき、健二の手を一瞬だけ握った。その手はすぐに離れ、彼女は静かにカフェを去っていった。

帰宅した健二は、リビングで絵美子が子供たちの宿題を見ているのを見つけた。その光景は日常そのものだったが、健二にはとても大切なものに見えた。健二は改めて、この平凡な日々こそが自分にとって本当に守るべきものであると気づいたのだ。

「どうしたの？帰りが早いね」

絵美子が不思議そうに顔を上げた。健二は微笑み、絵美子の隣に座った。

「ただいま。今日は少し早く終わったんだ」

健二は子供たちのノートを見ながら、絵美子の肩に手を置いた。彼女の温かさが伝わってくる。何も特別なことは言わない。ただ、その瞬間が何よりも大切に思えた。

「ねえ、今度の週末、みんなで出かけないか？」

突然の提案に、絵美子は少し驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。

「いいね、子供たちも喜ぶと思うよ」

その返事を聞き、健二は少し安堵した。もう迷わない、今度こそ家族を大切にしていこう。そう心に決めたのだ。

夜が深まる中、健二は一人ベランダに立って夜空を見上げた。冷たい風が頬を撫でる。沙織との日々はもう戻らないが、その経験は決して無駄ではなかった。自分が何を失いかけていたのかを気づかせてくれたからだ。

健二は静かに目を閉じ、深呼吸をした。これからは家族との日常を大切にしながら、再び笑顔を取り戻していく。それが健二にとっての、ささやかな逆転劇だった。