妻と愛人と家族

見えない傷跡

「見えない傷跡」

涼子は、いつも厚めの化粧をして外に出る。首元まで隠れるハイネックのセーターを着るのが彼女の日課だ。鏡の前で、化粧の仕上げをするたびに、心の中で「これで大丈夫」と自分に言い聞かせる。彼女の頬にある薄くなった青い痣や、首に残る赤い爪跡を隠すためには、これ以上ない完璧な装いだった。

近所の主婦たちや職場の同僚たちは、涼子の変わり映えのしない服装に気づいている。しかし、誰もその理由を尋ねることはない。心の中で、彼女たちは何かを察しているかもしれないが、口に出すことはなく、彼女に向けるのはせいぜい憐れみのこもった目つきくらいだった。

職場での昼休み、同僚の美紀が涼子に話しかけた。「涼子さん、最近疲れてるみたいだけど、大丈夫？」

涼子は作り笑いを浮かべながら、軽く頷いた。「うん、ちょっと忙しいだけだから。」

美紀はそれ以上何も言わず、話題を変えた。涼子はホッとしたように息をつく。誰かに打ち明けたところで、何が変わるわけでもない。そう自分に言い聞かせながら、涼子はいつも通りの仕事をこなしていった。

夜になると、涼子は家に帰る。玄関を開けると、酒の匂いが漂ってきた。リビングに入ると、夫の直樹がソファに座り、テレビを見ていた。ビールの缶が床に転がっている。涼子は、心の中で恐怖が湧き上がるのを感じた。

「おかえり。」直樹の声が重く響く。

「ただいま。」涼子はできるだけ冷静な声で返事をする。

直樹はテレビから目を離し、涼子をじっと見つめた。その視線には、どこか敵意が感じられた。涼子は、その視線を避けるようにして台所に向かった。夕食の準備をしながら、心の中で祈った。どうか、今日は何事もなく終わりますように、と。

しかし、その祈りは叶わなかった。直樹が突然立ち上がり、涼子のもとへと近づいてきた。彼の目は怒りに燃えていた。

「お前、俺のビール、どこに隠した？」直樹の声は低く、怒りが滲んでいた。

「冷蔵庫に入ってるわ。」涼子は震える声で答えた。

直樹は涼子の腕を掴み、強く揺さぶった。「嘘をつくな！お前、また隠したんだろう！」

涼子は恐怖に凍りついた。彼の力強い手が腕に食い込み、痛みが走る。だが、抵抗することはできなかった。いつものように、ただ耐えるしかなかった。

直樹の怒りは激しさを増し、そのまま涼子を床に押し倒した。彼の拳が振り下ろされるたびに、涼子は意識が遠のいていくのを感じた。目の前がぼやけていき、直樹の顔すらも見えなくなっていく。涼子はただ、自分がどこか遠い場所に逃げ出せたらいいのにと思った。

やがて、直樹は疲れたのか、涼子を放り出して再びソファに戻った。涼子はその場に倒れ込んだまま、動けなくなっていた。身体のあちこちが痛むが、それよりも心の痛みが強かった。

「どうして、こんなことになったんだろう…」涼子は心の中で問いかけた。

かつて、直樹と結婚したときは幸せだった。彼は優しく、涼子のことを大切にしてくれていた。しかし、いつからか、彼は変わってしまった。仕事でのストレスや家庭内の問題が積み重なり、彼は酒に溺れるようになった。そして、涼子に対する暴力が日常になってしまった。

涼子は、この生活から抜け出す勇気を持てずにいた。何度も離婚を考えたが、直樹の暴力が怖くて、行動に移せなかった。さらに、彼女には経済的な自立の手段もなく、逃げ場がなかった。

翌朝、涼子はまた厚化粧をして、家を出た。首には新たな痣ができていたが、ハイネックのセーターでそれを隠した。通勤電車の中で、彼女は自分の人生がどれほど暗いトンネルに入ってしまったのかを考えていた。

職場に着くと、いつものように同僚たちと挨拶を交わし、仕事に取り掛かった。しかし、涼子の心はどこか遠くに飛んでいた。彼女の心の中には、見えない傷跡が刻まれていた。それは、彼女が一人で抱え込むにはあまりにも重いものであった。

その日、涼子は決心した。何かを変えなければ、このままでは自分が壊れてしまう。だが、どうすればいいのか。誰に助けを求めればいいのか。涼子は、心の中で必死に答えを探し続けた。

そして、涼子は初めて、近所の支援団体に電話をかけた。小さな声で、自分の状況を説明し、助けを求めた。その電話が、彼女の新たな人生の第一歩となることを、涼子はまだ知らなかった。